前回、前々回で、
「考える力」を身につけさせるとは。(その1) (その2)
というテーマを考えたのですが、ちょうどそのあと、こんな記事を見かけました。
仕事をしたら“恋愛のナゾ”が解けてきた(1):
なぜ“普通のオトコ”は、なかなか見つからないのか? (1/6)
内容、かなり面白いのでオススメですが、これを読んでいてある一文が目に止まりました。
人間って考える作業はつらいので、あまり考えたくないんです。私は考えることが趣味なので、普通はそれが辛いということを久しく忘れていました。
スポーツできる人は運動の楽しさを知っているし、読書が好きな人はその楽しさを知っています。考えることについても、考える力が高い人はその楽しさを知っています。
「考える力」を身につけるというテーマを考えるなら、当然「考える楽しさ」も検討しなくてはいけません。
さっそく考えてみましょう。
子供は「考える楽しさ」を知っている
実は、こどもたちは「考えること」の楽しさを知っています。子供たちが子供同士で遊んでいる時、遊びのルールがどんどん変わっていくのを見るのは楽しいものです。楽しく遊び続けるために知恵を絞って次から次へと新しいルールを考え出し実践していきます。それこそが「考える楽しさ」の原点です。
ですから、
大人と子供の距離の取り方
で考えてきたように、大人は子供と適切な距離をとって、子供たちが自分たちのルールでめいっぱい遊べる機会を確保することが大切です。
親が遊び相手になっても似たようなことはできるかもしれませんが、やはり子供同士の時のめいっぱいさには負けます。
大人にとっての「考える楽しさ」とは
さて、その子供のときに持っている「考える楽しさ」をどう大人につなげていくのかが課題と考えられますが、そもそも我々にとっての「考える楽しさ」とはなんでしょう。それはずばり毎日1日中楽しく過ごすためです。
人間の脳は何もしていなくても常に脳内ツイートが流れています。坐禅や冥想は、その余計な脳内ツイートを鎮めて穏やかな時間を過ごすために行われますが、つまりそれくらいやらないと脳内ツイートが収まることはないのです。
そんな風に絶え間なく流れる脳内ツイート。一説には大半は同じことの繰り返しと言います。同じ曲がなんどもなんども繰り返されて頭から離れないなんてことがよくありますが、それを実は言葉でもしょっちゅうやっているのです。
なんと退屈な世界でしょう。
そんなことになるくらいなら、考えることいっぱい用意しておいて、退屈な脳内ツイートリフレインを繰り返させる代わりに、その時気が向いた問題を考えればいいのです。
最近、電気柵での痛ましい事件がありましたが、私は子供をそういう田舎に連れて行くので他人時ではなく、いろいろ調べたし、また考えられる状況でどういう対応をすべきかとかあれこれ考えています。そういうネタがいっぱい用意してありますから、適当に思い出したの考えていれば、少し考えが進みます。おなじことの繰り返しにはなりません。
普段そうやって常に新しいことを考えていれば、じゃあ実際に何かアクションしてみようかというアイデアは無数に生まれます。アイデアなんて水みたいなもんで、むしろその中で実際にアクション出来るものはほんのわずかしかなく、どのアイデアにアクションを起こすかその優先順位のつけ方がはるかに困難な作業になります。
とかく創造性を要求される時代ですから、まずアイデアが水のように出てくるのは手堅い能力です。もちろんいまやアイデアだけではだめで、それをどれくらい軽くプロトタイプできて、それを実現していけるかが重要な能力になっているわけですから、アイデアが湯水のように出てくるだけでやっていけるわけではありません。しかし、アイデアがどんどん出てくること自体は「楽しい」ことは間違いなく、「考えること」は「楽しさ」に直結しているのです。
子供の「考える楽しさ」を大人の「考える楽しさへ」?
したがって、目指すべき課題は、子供が持っている遊びの中で発揮している「考える楽しさ」を大人になってアイデアを湯水のように湧き出させるのに役に立つ「考える力」に移行していくことです。これは親にできることは簡単です。
普段から何かネタを見つけたら、見つけたこととそして考えたことを子供に話せばいいのです。何日後でもさらに何か考えたことがあれば、それをまた言えばいいのです。何も言わなくても、それが子供が遊びで発揮している考える力と同じものだとわかるでしょうし、その中には、子供が興味を示すものもあるでしょう。子供の遊びは大人にはおおよそ興味ないものばかりですが、大人が考えるネタを見せていけば、自然とその中から興味があるものを見つけていくはずです。
そうやって子供は子供だけが興味有る世界だけではなく、社会が興味を持っているネタに興味を持ち、社会の問題について考えていくようになります。
つまり、親は普段自分の考えていることを口にしているだけでいいのです。子供は興味を持ったら、勝手に考え始めますから、そのとき親が必ず何かしなければならないというわけではありません。もちろんそのときにいろいろサポートすればより効果的です。
でも「考える楽しさ」を学校が教えようとしたらどうでしょう。ある授業では、テーマが決まっています。そのテーマに生徒が全員興味を持つわけではありません。しかも、そこで話させる内容が教科書の内容であれば、そこに「考える楽しさ」はありません。考えられたものの死骸しかありません。
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