右脳を左脳で理解する試み(7)〜右脳イメージが脳の奥にしまわれた訳〜 の続きです。左脳とは価値観があまりに違うために普段奥に追いやられてしまっていると思われる右脳のイメージ、宗教はそのイメージを探るものとして生まれたのではないかという話の続きです。
右脳と左脳のバランスを取ろうとする行為は、宗教と深い関わりがあるのではないでしょうか。言葉を持つ左脳同士は、言葉で容易にその価値観・世界観を共有できるし、書き留めることで未来にも引き継ぐことができます。しかし、言葉を持たない右脳の感覚や価値観は簡単には共有できないし、なので人それぞれ体験するのも簡単ではありません。それをなんとかしようとしたのが宗教ではないでしょうか。
まずは、右脳のイメージを見るために。以前紹介したように禅などで瞑想がクライマックスに達したとき左脳の機能は低下し、ようやく右脳のイメージが見えているようです。そこは個人の欲よりも、自然のシステムとの協調を望む世界であり、したがって公共のあり方の手本となるようなところです。それが体験できるなら、そこから個人と公共とのバランスを取ることができるでしょう。しかし、そのイメージを見るには禅など大変な修行が必要だったのです。
またその境地に達することができない人に対して、それをどうやったら体験できるかという方法論を構築したり(ひたすら座禅するとか、お経を唱えるとか)、右脳のイメージを体系的に言語化して諭したり、宗教の教えはそんな風に捉え直すことができます。
またあらゆる宗教にある種の普遍性があるのは、基本的にみな神秘的な体験として誰もが持っている普遍的な右脳のイメージを捉えて、その体験を広めよう、あるいは言語化しようとするからではないでしょうか。またそれを聞く人についても、もちろんみな同じ仕組みの右脳を持っていますから、はっきりと右脳の体験として知覚されなくても、かなり納得がいくと感じることができるのです。
今後、宗教は宗教という名前ではなくなるかもしれません。宗教は左脳的に理屈では分からないものを対象としていましたが、今後は今までの左脳的な教育だけでなく、右脳なら理解できることを理解できるようにするという教育の一部になるかもしれないからです。
あるいは、そのまま宗教という名前を持ち続けるかもしれません。なぜなら、宗教は既にその問題についてかなり的確に答えを持っているからです。
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