未来の普通:たまに馬車目線付き

【馬】白熱教室というイノベーション。一歩未来を行く選択の考え方。

2013/07/31 03:00 投稿

  • タグ:
  • 登録タグはありません
  • タグ:
  • 登録タグはありません
この記事は後半【馬車目線】(?)でお送りします。

 先日、Eテレでアンコール放送が始まったアイエンガー教授のコロンビア大学白熱教室。「選択」というテーマについての講義で、第1回を見ました。

 選択について、基本的な考え方について分かりやすく講義されたもので、長男(小3)と一緒に見ました。話の半分も分かってないと思いますが、一応最後まで見ていましたし、なにか思うこともあるようです。
 途中ストレスの話が出るのですが、「俺君は何がストレスなん?」と聞いたところ、「ない!」と即答。見事な即答でした。全く何も考えてないのかもしれませんが、普段考えてるから即答なのかもしれません。内面は思ってるより遥かに成長しているのかもと思わされました。

 このような講義がどんどん公開されるようになり、これから時代はがらりと変わるかもしれません。白熱教室は、元々大学院生向けの講義のようですが、小学中高学年くらいからばんばん見せていいと思います。他にも正義・自分・イノベーションなど、現代を生きる上で重要なテーマを扱っています。全部は分からなくても、それぞれのテーマについて、彼らなりに考えないわけがありません。同じ内容でたとえば中学・高校に進学するごとくらいの頻度で見れば、そのときそのときにまいろいろ考えることでしょう。

 昔は、こういった学習は、読書を通して間接的に内省的に行われていたとは思いますが、それでは誰がどれくらい何を学んだかを共有することはできません。
 しかし、世界有数の大学院の授業が公開されたことで、それよりも明示的に効率よく学習できるようになりました。さらに、それらがデファクトスタンダードになったことで、基本的な知識を共有することができます。
 もし、中学や高校で一度はサンデル教授の正義の白熱授業を見て、歴史的な正義の変遷をかいつまんでいるとすれば、かれらが正義について考えたり話し合ったりするときの生産性は遥かに高いことでしょう。
 かつて、私がアメリカで外国人向けの英語の講座に出たとき、中絶は認めるべきか認めないべきかでディベートしたことがありますが、各国の参加者が持ってる前提がばらばらで、議論がなかなか噛み合ず、歯がゆい思いをしたことを良く覚えています。

 もしかしたら、今でも、学校の道徳や総合で、選択や正義や自分というものについての授業が行われているかもしれません。でも、その内容は恐らく学校・教師によって随分違うことが容易に想像できますし、したがって、その時はクラスメイトで授業の内容を共有し議論することができたとしても、進学すれば社会にでれば、その内容は誰とも共有できません。ごく個人的な体験に終わってしまうのです。算数を学べば、みんな九九を共有してるのとは雲泥の差です。

 しかし、世界は白熱教室を共有するようになりました。正義がテーマであればハーバード大学のサンデル教授の授業を、選択がテーマであればコロンビア大学のアイエンガー教授のを見ることで、とりあえず共通の基礎知識を共有できます。学生だけでなく、とっくに社会人になった人も今から見れば、その共有に参加できます。元々は超エリート大学院向けです。子供騙しな内容ではありません。そのような極めて質の高い講義を出発点にすることで、みな効率よく議論を交わすことができるようになることでしょう。

 このことは、学力を評価するという点で大きな転換期を迎えたことになります。今までは、入試と言えば、数学・国語・英語など学習範囲が明確なものが対象でしたが、これからはその中に正義や選択なども取り入れられる道筋ができたということです。いますぐにでも、これらの番組を見た上で臨むようにという試験や面接だってできそうです。

 これが前回取り上げた「人間力」にあたるのかどうかは分かりませんが、今後の新しい大学や就職のあり方に大きく関わってくるのではないでしょうか。昔で言えば、この本とこの本とこの本は読んであることが前提みたいな世界です。どんな風に変わっていくのか、今から楽しみですね。

〜〜〜

 さて、世界最先端の社会問題を抱える日本ですから、アイエンガー教授の講義だけでは、現実の問題にはちょっともの足りません。いくつか補足してみようと思います。といっても、前半1600字余りに対して、後半3000字超えてしまっているのですが・・・。

 選択できることの本当の意味〜イノベーション〜

 この講義は、運命・偶然・選択という3つのシナリオで、一つの人生を解釈しながら、選択では、より自身がモチベートされる、だから選択がいいんだよといったお話かと思います。
 でも、イノベーションという視点から見れば、それは明らかに選択の力です。

 なにか大きな発明があったとします。その発想そのものはアイエンガー教授のいうシーク教徒としての「運命」、つまり誰々と結婚せよという「定め」、社会により決められたこととは違います。新しい発想は予定で定めることはできません。
 さらに、発想そのものは運命的な出会いや偶然だとしても、それをイノベーションにするには、発想の後、実現しなければなりません。それは自身がそれを生み出そうと「選択」してやり遂げてこそ達成されるからです。それも振り返って運命とか使命とかいうこともできますが、運命(定め)・偶然・選択の区別とは別の話です。

 ですから、なにか新しいことをしたいのであれば、選択の力を信じるほかありません。

 責任を全部負っているわけではないこと

 

ここから先は有料になります

ニコニコポイントで購入する

コメント

コメントはまだありません
コメントを書き込むにはログインしてください。

いまブロマガで人気の記事

未来の普通

未来の普通

このチャンネルの詳細