自分自身の人生の「全体」を「悔恨」なく――取り換えのきくものとしてではなく――生きようとすれば、
その外側に立って、それを分析的に眺める「知性」より以上に、その内側に立って、その流れを、つまり過去の全体を受け止めてみせる「直感」が必要


「今、ここ」を生きる「この私」のなかに一つのメロディとリズムを聴くことができるようになるのなら、その必然感によって、他者との比較(空間的対比)を克服することができる


「共通感覚」とは、「意味」の起源にある「自己配慮」を括弧に入れる力
一つの〈意味=自己配慮=エゴイズム〉を超えて、自らの言葉を多様な文脈(他者)に開いていく力


より深く「過去からの声」を聴くことのできる者が、より深く他者に「惚れる」(直感できる)ことができる
「過去」を自覚すればするほど、他者に対して、より深く〈循環的―運動的〉になっていく
「惚れ」と「解釈」とが「一つの事であって二つの事ではない」


随処に主となれば、立処皆真なり


自分の「歩き方」を信頼している人間のことを、“過去を共有する他者”、つまり家族、友人、師匠と呼ぶ


醜いのは、失敗を「悔やむ」場合であり、また失敗を引きずって己の「欲望」を素直に表現できなくなる場合


第一、自分と他者との資質(性格や感情の傾向)を直感する力
第二、そのお互いの資質の違いに対して距離をもって眺めるだけの余裕(冷静さ)
第三、他者との距離を埋めるためには何が必要なのかを考えるための「論理や知識」


貴賤尊卑の他者たちが行き交う「道」を生きればこそ、そこには自然と「四端」の心(惻隠・羞悪・辞譲・是非――思いやり・恥じらい・譲り合い・正邪の弁別)が拡充されていき、
相互コミュニケーション(往来―道)を生きるための規準(仁義)が生まれてく


考えるとは、物に対する単に知的な働きではなく、物と親身に交わる事。物を外から知るのではなく、物を身に感じて生きる、そういう経験