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石井ゆかり「手のひらの言葉」vol.3 記憶

2014/07/23 23:30 投稿

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日常にあるなにげない「言葉」をひとつずつ手のひらにのせて眺めてみる......そんなエッセイを石井ゆかりさんにお願いしました。今回の言葉は「記憶」です。

MYLOHAS編集部さんから「お題」を頂いて書くコラム企画、
第3回目のテーマは「記憶」。

95を越えてから死んだ祖母の晩年、見舞いに行くといつも、同じような話を聞かされた。おしゃべりの好きだった祖母は歳をとっても語ることへの情熱は衰えなかった。が、その内容は、一枚のレコードにハリを落とすように、毎回同じものへと変わっていった。

関東大震災の時、まだ10歳ほどだった祖母は、3つか4つだった妹を抱きかかえるようにして、揺れが収まるまで電信柱にしっかりしがみついていた。その話はくり返し、祖母の口から語られた。

戦争中お嫁に行って、結婚式のすぐ翌日に姑が死んだ話や、舅と子供をかかえて防空壕に飛び込んだ話なども聞かされたが、恐怖の度合いは関東大震災の話の方がよほど、強かったようだ。

祖母はとても強い人だったが、その強い祖母の口から、恐怖の記憶や苦労の記憶が語られるのは、おそらく、自分があらゆる人生の苦難と「戦ってきた」という誇りからだったのかもしれない。

祖母とおなじ病室に、80代半ばの女性がいた。やはり、おなじ物語を何度も繰り返しているようだった。彼女が一心に、息子とおぼしき相手に語りかけるのは、幼い少女の頃の場景だった。

彼女の隣の家はお風呂屋さんで、近所で可愛がられていた彼女はいつも、一番風呂に呼んでもらえていたという。向かいの家にはお祭りの顔役のような人が住んでおり、御神輿に乗せてくれた。「私はやんちゃだったからね、着物を着るのがきらいで、お祭りの時に着せられても、すぐ脱いで洋服に替えてしまったの」と笑った。

時間が止まったように繰り返されるその話を聞いていると、まるで映画を見ているような気分になる。多分、祖母やあの女性は、その話をくり返し語りながら、かつての場景を何度も何度も、巻き戻して生きているのではないか。何十年も生きて見てきた、膨大な場景の中から、わずかに数個のシーンを抽出して、その時空を何度も何度も、くり返し生きるのだ。

ただ、どういう理由でその場景が選び出されるのかは解らない。

もしかすると、いやなことばかり思い出す人もいるのかもしれない。辛いことや悲しいことをくり返し思い出す人もいるのかもしれない。

私が年老いて、こんなふうに何度も同じ話をするとしたら、どんな話をするのだろう。あんなふうにくり返しくり返し生きたいような場景が、私の頭の中にあるだろうか。それは、私にとって幸せなものなんだろうか。

私たちは、記憶について、頭の中に引き出しのようなものがあって、そこにたくさんの情報が「収納されている」というふうにイメージしている。いつでも自分の意志で、自由に引き出しを開け閉めし、記憶を出し入れできる、と、そんなふうに考えている。しかし、現実の記憶は、ぜんぜんそうではない。

たとえば、私が学生時代に住んでいた学生寮に、10年ほどしてから訪れたとき、道の右側だと記憶していた寮の建物は、反対の左側にあった。「住んだ」場所でも、そんな記憶違いが起こるのである。

よく覚えていたはずのことが思い出せない。思い出しても、事実とは違っている。自由に出し入れできないだけでなく、記憶はそれ自体、簡単にゆがみ、壊れていくのだ。私たちの気づかないうちに。

祖母がくり返し語った記憶も、おそらく、どこかで揺れたり書き換えられたりしているのかもしれない。それは「事実」ではないのかもしれない。

でも、祖母の心の中にある何らかの人生の真実と、そのいくつかのシーンは分かちがたく結びついていて、もしその記憶が書き換えられているとしても、それは祖母にとっても、私にとっても、もはや本質的な問題ではない。

ある対談集に、こんなことが書かれていた。

イカは、とびきり視力がいいらしい。どこまでも、なんでも見えてしまうのだ。しかし、脳の記憶装置に当たる部分は、非常に弱い。ほとんど「ない」くらいらしい。イカという生き物は、世界中の海にものすごくたくさんいる。世界中の海に散らばったイカが、あのきらきら光る目で、なにもかもを目撃しながら、「何も覚えていない」というのだ。

そこで見たものの記憶は、どこに行っちゃうんでしょうね、という話になったとき、対談者ふたりは「それは『地球』にちゃんと、蓄積されているんじゃないか」と、空想を語り合っていた。

もしかすると、記憶がどこか別の時空に、もう一つの世界として生起しているということはないだろうか。記憶そのものが大事な事実として、かくまわれている次元があるんじゃないか。

そんな妄想を巡らした、そのこともまた、私の記憶としてどこかに、痕跡を残すのだろうか。そしてそれらは、天地の水のように、塩のように、いつかまた、大きな流れに飲み込まれていくのだろうか。

私たちの身体は形を失っても、物質自体がこの世から消え去るわけではない。それと同じように、記憶もまた、形を失っても、この世から消え去るわけではない、と考えることは、できないだろうか。

(文/石井ゆかり、イラスト/山本祐布子)

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