白と黒の問題が発生した場合、自身と相手という関係性を脱却して俯瞰視点で客観視できる人はそう多くありません。 利害の不一致、主義主張の対立、見解の相違…この世のすべての人間の方向性が完全に一致する関係など絶対にないと考えてください。 男性と女性のようにお互いがお互いを必要とする関係が本能のなせる業なら、敵対する者同士がお互いを認めあう関係は本能を超えた人間の心からしか生み出すことができません。 敵の兵士と殺し合う場面を想像してみてください。敵の兵士はあなたに銃を向けることができなかったとします。 それでもあなたは相手を撃つことができるでしょうか? 命令があればできるでしょう。命令がなかったら?敵が向かってくればできるでしょう。向かってこなかったら? あなたが逆に銃を捨てたと考えてみてください。当然、相手は遠慮なく銃を撃ってくるでしょう。 あなたと敵の兵士の違いは何でしょうか?あなたの心にはすでに相手を思いやる心が備わっているのではないでしょうか? 相対する意見の持ち主に対して、その考えを認め、評価し、なぜそう思えるのかを分析し、問題点を洗い出し、解決案を提示してみたと考えてみてください。相手はあなたのことをどう思うでしょうか? 逆に自分が相手に同じことをされたと考えてみてください。あなたは相手のことをどう思うでしょうか? 関係と関係の縺れに雁字搦めにされることを関係性に埋没するといいます。 この関係性に埋没している限り、利害を超えた真の関係性は築けないのです。 それではあなたが率先して関係性から脱却を試みたとします、しかし相手がそうしてくれるとは限らないと考えてください。 どうすれば相手にこちらの意図が伝わるのでしょうか? 完璧な論理を構築して論破しますか?泣きわめいて感情に訴え同情を引きますか? そのような方法は一時しのぎのごまかしにすぎません。 人間の心を動かすのは真心だけです。 それは言葉でもなく、感情でもなく、ただ誠意ある態度でしか証明できません。 その方法を探すためにキリスト教の聖人は苦難に耐え、仏教の僧侶は行を修め、ソクラテスはアレテー(徳)の概念を唱えたのです。 歯車の話というものがあります。一個の歯車が機械に取り付けられ、他の歯車と一緒に回り始めました。途端に歯車はガリガリと身を削られて苦しみ悶え続けます。全身を軋ませすり潰されるような苦しさにその歯車は他の歯車たちを呪います。そしてこの苦しみから解き放ってくれるならなんでもすると訴えます。 すると周りの歯車たちが一斉にこう言い放ちました。それなら今すぐ私たちの身を削るのをやめてくれ、お願いだから。 その時、歯車は気づいたのです。自分自身もまた、他の歯車たちを削っていたのだと。そして、その恐ろしさを知った時歯車は涙を流しました。そして、その涙が油差しの油となって我が身を苛む痛み苦しみを取り去ってくれました。 もし白と黒の関係性から脱却したいと思うのなら、まずはあなた自身がそうしてみたらどうでしょうか。 そうすれば、相手もそうしてくれるかもしれません。 どうしたら相手もそうしてくれるでしょうか?その方法をイエス・キリストもゴータマ・ブッダもソクラテスも教えようとしてくれているのです。しかし、それは叶いませんでした。 でも、あなたならできるかもしれません。あなた以外の他の誰にもできないとしたらどうしますか? それでも、あなたはやりたいと思いませんか? この世の誰もが関係性から脱却できないでいるのです。でもあなたならできるのです。 この世の誰にもできないことがいとも簡単に。ただ心に思うだけで。 それでも、あなたは関係性に埋没したままでいたいと思いますか?
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白と黒の問題が発生した場合、自身と相手という関係性を脱却して俯瞰視点で客観視できる人はそう多くありません。
利害の不一致、主義主張の対立、見解の相違…この世のすべての人間の方向性が完全に一致する関係など絶対にないと考えてください。
男性と女性のようにお互いがお互いを必要とする関係が本能のなせる業なら、敵対する者同士がお互いを認めあう関係は本能を超えた人間の心からしか生み出すことができません。
敵の兵士と殺し合う場面を想像してみてください。敵の兵士はあなたに銃を向けることができなかったとします。
それでもあなたは相手を撃つことができるでしょうか?
命令があればできるでしょう。命令がなかったら?敵が向かってくればできるでしょう。向かってこなかったら?
あなたが逆に銃を捨てたと考えてみてください。当然、相手は遠慮なく銃を撃ってくるでしょう。
あなたと敵の兵士の違いは何でしょうか?あなたの心にはすでに相手を思いやる心が備わっているのではないでしょうか?
相対する意見の持ち主に対して、その考えを認め、評価し、なぜそう思えるのかを分析し、問題点を洗い出し、解決案を提示してみたと考えてみてください。相手はあなたのことをどう思うでしょうか?
逆に自分が相手に同じことをされたと考えてみてください。あなたは相手のことをどう思うでしょうか?
関係と関係の縺れに雁字搦めにされることを関係性に埋没するといいます。
この関係性に埋没している限り、利害を超えた真の関係性は築けないのです。
それではあなたが率先して関係性から脱却を試みたとします、しかし相手がそうしてくれるとは限らないと考えてください。
どうすれば相手にこちらの意図が伝わるのでしょうか?
完璧な論理を構築して論破しますか?泣きわめいて感情に訴え同情を引きますか?
そのような方法は一時しのぎのごまかしにすぎません。
人間の心を動かすのは真心だけです。
それは言葉でもなく、感情でもなく、ただ誠意ある態度でしか証明できません。
その方法を探すためにキリスト教の聖人は苦難に耐え、仏教の僧侶は行を修め、ソクラテスはアレテー(徳)の概念を唱えたのです。
歯車の話というものがあります。一個の歯車が機械に取り付けられ、他の歯車と一緒に回り始めました。途端に歯車はガリガリと身を削られて苦しみ悶え続けます。全身を軋ませすり潰されるような苦しさにその歯車は他の歯車たちを呪います。そしてこの苦しみから解き放ってくれるならなんでもすると訴えます。
すると周りの歯車たちが一斉にこう言い放ちました。それなら今すぐ私たちの身を削るのをやめてくれ、お願いだから。
その時、歯車は気づいたのです。自分自身もまた、他の歯車たちを削っていたのだと。そして、その恐ろしさを知った時歯車は涙を流しました。そして、その涙が油差しの油となって我が身を苛む痛み苦しみを取り去ってくれました。
もし白と黒の関係性から脱却したいと思うのなら、まずはあなた自身がそうしてみたらどうでしょうか。
そうすれば、相手もそうしてくれるかもしれません。
どうしたら相手もそうしてくれるでしょうか?その方法をイエス・キリストもゴータマ・ブッダもソクラテスも教えようとしてくれているのです。しかし、それは叶いませんでした。
でも、あなたならできるかもしれません。あなた以外の他の誰にもできないとしたらどうしますか?
それでも、あなたはやりたいと思いませんか?
この世の誰もが関係性から脱却できないでいるのです。でもあなたならできるのです。
この世の誰にもできないことがいとも簡単に。ただ心に思うだけで。
それでも、あなたは関係性に埋没したままでいたいと思いますか?