底辺亭底辺の「今日も底辺!」

安楽庵策伝・金森長近兄弟説に対する反論

2017/08/09 18:20 投稿

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安楽庵策伝は室町時代末期から江戸時代初期にかけて活躍した浄土宗の僧侶である。
著書・醒酔笑が草創期の落語に大きな影響を与えた事から「落語の祖」と呼ばれる。
従来、安楽庵策伝は飛騨高山藩祖・金森長近の同父弟とみなされてきた。

だが、この通説には疑問が残る。


・策伝の俗名が「金森」ではなく「平林」であること。
(ちなみに、落語「平林」の原話を執筆したのも策伝である。)
・金森氏が曹洞宗であるにも関わらず、策伝が幼年期(つまりは家族の意思で)に浄土僧として出家していること。
以上の2点が否定説の論拠となり、「長近策伝兄弟説」は長らくその賛否が分かれていた。

近年、浄土宗西山深草派宗学院の湯谷祐三教授が策伝に関する新資料を発見した事から
この論争は大きな進展を見ることとなる。





下記URLは中外日報社に掲載された湯谷祐三教授の論文。
http://www.chugainippoh.co.jp/ronbun/2017/0503.html
趣旨は以下の通り。



1、策伝が住職を務めた誓願寺(現浄土宗西山深草派総本山)に所蔵されていた資料・苫屋壺記の中に、策伝41歳時の自己紹介文を発見した。

2、自己紹介文の中で彼は宇喜多秀家公との縁を強調しているが、金森氏に纏わる記述が全くない。

3、明らかに苫屋壺記の制作目的は、京阪神の上層階級に自身をアピールする性質

4、もしも策伝が金森長近の弟であれば、豊臣政権下で大名・御伽衆を務めていた金森長近との関係を隠すのは不自然である。



【補足】

2017年8月。
底辺亭底辺は京都にて湯谷師と面談。
学説を拝聴させて頂いた。








以下私見で恐縮であるが。
他にも、策伝が金森長近の弟だとすれば不自然な点がある。

何よりも、策伝が長近の弟だと仮定するとキャリアが極めて不自然である。
策伝は25歳から中国地方に布教の旅に出立する。
その行程は長期的なもので、15年もの長きに渡って備前・備中・備後・安芸を巡り、備前大雲寺の建立などに携わっている。
西暦に直せば1578年から1593年までである。
これは不自然であろう。

何故ならば、1578年と言えば織田家と毛利家が全面戦争に突入した年だからである。
別所長治が毛利方への加担を宣言。
信長が後援していた尼子再興軍が播磨で全滅。
荒木村重が信長から離反。
第二次木津川口合戦の大敗で毛利水軍が大阪湾の制海権を喪失。

たったの一年で、ここまで大胆に戦局が動いている。
ちなみに。
その翌年に宇喜多直家が毛利家を離反し織田家への服属を宣言したことにより、策伝の居る中国地方は最前線となる。


そんな大激戦区に織田家の武将の血縁者が楽に入り込めるものだろうか?
しかも金森長近は信秀時代から織田家に仕え、赤母衣衆(親衛隊)にも抜擢されている古参武将である。
おまけに、1575年には越前大野の領主に任命されている。
これは「重臣」と呼んでもまず差し支えない経歴である。

策伝が長近の弟であったなら。
この状況であれば、まず確実に外交か諜報を命じられる。
だが、その形跡が全くない。

『日本を代表する笑話集を編纂する程の知性、と十五年の布教行脚を成し遂げるタフネスを備えた25歳がおり。
彼は父の代から仕える親衛隊員の実弟である。』

如何なる愚将であっても、そんな人材が居れば和戦に対しての使い道を模索するだろう。
また、如何なる不忠者であったとしても、そんな弟が居れば主君に推挙するであろう。

この点が不自然としか言いようがない。



金森側の視点から見ても、策伝弟説は極めて不自然である。
金森長近は本能寺の変で嫡子・長則を失っているが、その後継として「日頃親交の深かった長屋景重の息子・可重」を養子として迎えている。
その時、策伝は28歳である。
武家世界の通例として実子を全て失った場合、兄弟が僧籍にあれば還俗させて家督を継がせる。
もし策伝が金森長近の実弟であるのならば、何故本能寺後に金森家中で策伝の名が全く挙がらなかったのであろうか?
どれだけ長屋家と親しかったとしても、28歳の青年を差し置いて他人に家督を譲るものであろうか?


また、金森長近は徳川家康と非常に近しかった武将である。
特に、家康が非主流派として孤立していた伏見時代に、長近は家康との親交を楽しんでいる。
関が原前夜に石田三成が徳川軍切り崩しの為に諸将に書状を送った時などは、封すら空けずに書状を家康に渡している程、親家康姿勢が徹底している。
おまけに、先に紹介した養子・可重は徳川秀忠に寵愛され、茶道指南役を務めている。
更には可重の跡を継ぎ名君として知られた金森重頼は、松平忠輝・加藤光広といった取り潰し大名の身柄預かりを任されている。
要は、外様ながらも金森家は徳川家にとっての好意的勢力なのである。


ところが、策伝は徳川家屈指の切れ者大名である板倉勝重・重宗父子と深い親交を持っているが、板倉父子は策伝と金森家の関係について一言も触れていない。

そもそも「醒酔笑」は策伝が板倉重宗に献呈した書籍である。
もしも策伝が長近の弟であれば、何故重宗は金森家に一言の礼も伝えなかったのだろうか?
大名家の藩祖弟から書籍を贈呈されたのに、その大名家に一言の謝辞も述べないのは、非礼極まりないとしか言いようがない。

ちなみに、重宗は茶道熱心で金森可重の長子・金森重近(宗和流茶道開祖)とも親交があった。
京都所司代・板倉重宗も、宗和流開祖・金森重近も、京都に在住するトップセレブ同士である。
(当然、誓願寺55世法主の策伝もセレブ階級である。)
もしも策伝が長近の弟であれば、何故両家ともその話題を後世に残していないのか?

或いは策伝が金森家の者である事を秘して板倉家に接近したのであろうか?
もしそうであれば、これは深刻極まりない政治事件である。
京都所司代は、徳川家が朝廷の監視・畿内八カ国の民政・西国大名の統制の為に設置した最重要ポストである。
そんな幕府の最重要職者に、外様大名の血縁者が素性を隠蔽して接近し、献本するまで密接な関係を築く。
封建体制下では、これは言い逃れの出来ない謀叛行為である。
金森家は確実に処分対象となるし、板倉家もその管理体制を問われる事を避けられない。


以上を、「長近策伝兄弟説」の明らかな不整合点として指摘させて貰いたい。






【安楽庵策伝】

弊ブログでも何度も触れさせて頂いた、落語の祖。
浄土宗西山深草派55世法主。
笑話集「醒酔笑」の作者であり、従来は戦国大名・金森長近の弟とされていた。

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(誓願寺内 策伝絵)



【金森長近】

戦国から江戸にかけての大名。
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三傑に仕え日本全国を転戦した。
関が原合戦では最年長大名(77歳)として参戦、功を賞され飛騨高山藩の初代藩主となった。

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(岐阜県高山市素玄寺蔵)




【浄土宗西山派】

浄土宗開祖・法然の晩年の弟子である証空が起こした宗派。
世代が親鸞に近い事もあり、教義は真宗寄り。

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上記画像は開祖・証空。
(兵庫県姫路市大覚寺蔵)




【誓願寺】

飛鳥時代に天智天皇の勅願により建立された。
元は三論宗の寺院であったが、平安期に法然上人が譲り受け浄土宗となった。
(現在は浄土宗西山深草派の総本山。)
清少納言・和泉式部・京極竜子が帰依した事から、女人往生の寺として知られる。

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【板倉勝重】

徳川家の行政官。
家康に従い、駿府町奉行・江戸町奉行・京都所司代を歴任する。
善政家で知られ、「名奉行」と言えば誰もが板倉勝重を連想したと伝わる。


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(愛知県西尾市長圓寺蔵)


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