橘川幸夫放送局通信

全ての理由(ロッキングオン17号 1975年)

1975/05/25 18:20 投稿

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  • 橘川幸夫
  • ロッキングオン
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標題=全ての理由
掲載媒体=ロッキングオン17号
発行会社=ロッキングオン社
執筆日=1975/05/25
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 僕たちの思考の発心は<何が何んだかさっぱり分らん>という事です。街へ出ても何んでビルがニョキニョキ建ってるのか分らんし、僕が、パンを下さい、というとパン屋の店員がパンを売ってくれるという事態も分らん 僕の言葉が何んで他人に理解されるのかが少しも理解できない。全ての秩序というものがこういうわけの分んない事態によって成立している。そして、ますます、曖昧に、強固になっていく。

 いろんな学問があって、それらの学問はある時は理論的にある時は実証的に色々と説明してくれるのだが、一時的に納得したように感じる時もあるが、しかし落ち着いてよく考えるとやっぱり何んにも分ってなかったりする もっともそういう事を一生懸命に考えてると疲れるからテキトウに分ったふりをしなくてはやってけない しかし何んで疲れるのかもさっぱり分んない (この事について生理学的に説明しようとはしないでくれよ そんな事を言ってるんじゃないんだから)

 最近はむしろ何かを分りたい、という意識より、徹底的に分らなくなって、すっきりしたい、という気持ちの方が強い。中途半端に妥協して、分ったつもりになってるのが一番良くない。思想なんていうのも、今や、ドイツもフランスも、西洋や東洋もない。そういう変遷過程なんてどーでも良いのであって、思想とは、今でも、もっとシンプルに生れたまんまの姿で在るのであって、それ以外の事を思想とは呼んでやんないのだ。僕たちの、今の生活意識、存在意識そのものが、巨大でナイーブで、誰一の歴史意識ではないのか。

 しかし、まあ何んにも分んなくたって、こうやって、もっともらしい文章を書けるんだし、まして、僕はこれを写植にうつ事だって出来るんだから、まあいいか、いやそうじゃない、そうじゃない。

 「ウェ、何が何んだか分んないよーお」という叫びが僕にとっては最初のロックでした。そしてなるべくわけの分った生活をしよう、と思ったのが僕のロック経験でした。もちろん、その為には自分自身が周囲から"わけのわかんない人"に見られる必要もあったのですが。

 僕の文章はとにかく理解不能で、時々(ほんとに時々)あれは何が書いてあるんですか、と尋ねられるけど、そんな事分ってたら、わざわざ書かないよ。僕が言いたい事、渋谷が言いたい事、誰々が言いたい事、そのような個人が言いたい事など、今となっては、たいした事じゃないし、全然、問題じゃあないのだ。なんで書くのか、だけが問題なんだ。純粋情報純粋情報。体験などはとっくに質流れだ。僕たちは、ただ漠然と孤独なんじゃなくて、一瞬一瞬、生まれたまんまの処女の欲望のように孤独なんだから、やはり、一瞬一瞬光なり言葉なりを希求してるんです。ふう。
 
 コミュニケーションというものは、単に、話すとか寝るとかいう具体的なものではない。むしろ現実での具体的な付き合いはかったるい。何故なら、そう誰もが、ふっ切れてる訳ではなく、又、どこかで一人だけふっ切れてる人間がいる、という事はあり得ないのだから。そうだ、山の中で坊主が一人で悟ったって、そんなの嘘だ。

 悟りの共同性。
 
 具体的に編集部にあなたが登場したり電話かけたりする事がコムニコの本質ではないのだ。いやむしろ、その様に情動を短絡してしまうあなたの甘さこそが、あなたの情動を不徹底性ではないだろうか。具体的な事、現実的な事は、ひんやりと、事務的にやれば良いのだ。僕たちの情動があなたにつながったらそっとこの本を閉じてくれれば良いのだ。

 自分というものが、世界と触れあうための視点であり、そして支点であり、世界を撃つための銃座であった、というのが、近代の思考スタイルの原型であった。それ故に、考える事を職業とした人種は自分を痛めつけたり溺愛したり、あのてこのてでもってひっくりまわした、つまり、それはどのような意識の形であれ"自分を大事にした"という事に過ぎない。そして彼らは何を得たか。何を見たか。何を知覚したか。

 自分というものこそがまず何よりもわけの分んない"状態"であって、その事を抜きにして、社会情勢やら文化状況やらを語るものはウソツキである。つまり<自分>が憑いてるのだ。自分で勝手に分ったつもりになって何んか言ってくれる奴は、おまわりさんの説教のようで僕は聞いたげません。

 ROを読んで初めて目がさめました、なんていう手紙が来るけど、本当かなあ、どうも人生手帖みたいでやだなあ。冗談じゃねえや、って気がする。ROというのは何かを教えてくれたり与えたりする雑誌ではなくて、むしろ逆の、かまいたち(峰岸・洋)の場(竹場元彦)だと思う。ROの読者として僕なんかも、この本から得たという気はしないが、みんなの文章を読んだり自分で書いたりして、奪われたりそぎ落とされた実感の方がずっと多い。自分が背負っていたと信じていたウソの重圧や、つまんない反省を実にすっきりとクリーニングしてもらった。その分、いらいらが消えて純粋になった不安は増殖されたが……この辺ROの宣伝文章。

 親にとって自分がそうであるように、自分にとっても自分が得たいの知れない、何を考えてるか分んない不気味なエーテル的存在である事に気付いた方が良い。墓石に混乱人間(パラノイア)と書かれるよりも、"混乱"などという名称よりも、生きたままの混乱そのものであった方が良い。

 主観的に変る事が必要なのだ。圧倒的に主観的に……客観性なんて、後からヨタヨタくっついてくるもんだから(協力=渋谷陽一)僕は自慢じゃないが、これまで論争というものに勝ったためしがない。

 何かしゃべったり書いてると、何を言いたいのかが全然わかんなくなっちゃうのだ。アホか。 注:原稿を写植でうっていたら、いつのまにかアドリブになっちゃって、この辺まで来ると、原稿なしで写植してるので、ますます何が何んだか分んなくなってきたので、ちゃんとした原稿に戻します。

 都市について考えていた。カントリー・ライフとは……ああ、僕は都市について考えていた。彼らは帰ってくる。もう二度と帰って来ないと思ったのに、彼らは帰ってきた。

 ベランダに出ると、すぐ側に新宿の高層ビルが見える しかしその風景は決して都市が成熟していく時の活気や欲望も満たされていない。新しいビルは建ち、新しく地下街は拡がるが、既に僕の視界にはとっくの昔に完成された都市がみえている。風がみえる。炎がみえる(クラウス・シュルツェ)。

 みんなが何処へ行こうとしているのか僕は知っている。街には何んでもある。街には何んにもない。都市とは既に完了してしまった彼等の歴史と彼女達の制度だ。内部はもうとっくにからっぽ。ぬけがら、風化(いい言葉だなあ、好き)を待つばかりの古墳だ。化粧品のポスターだってもう女は笑っていない。

 歴史を支えて来たのは英雄でも労働者でもなく諸々の制度だ。教育、貨幣、婚姻、等々。そしてそれらを包括する形での国家という名の制度。僕たちはこの制度というものに先ず否応なく組み込まれ、次にこの制度の後継者たる存在を要求される。誰にだってこのねじふせてくる力をはねかえす力は持っていない。何故なら、僕達の意識が、観念、思考が既に制度なのであるから。

 ちょっと一息

 もし制度というものが具体的な、例えばコンピューターの回路のようなものなら話は割と簡単だ。例えば、貨幣制度を解決するためには銀行強盗でもやれば良いのだし、結婚ならばやんなきゃ良いし、学校へも行かなければ良い。もちろん個人個人がそういう具体的な受身的事実を否定していく事は必要だろうが、しかし、何にかそれだけでは永遠に解決がつかないように思える。国家というものが単に国会議事堂であったり、役所であったりするなら、そういうシステムを奪取すれば良いのか、といえば、現状の何処を見てもそんなの嘘である事を僕達は知っている。

 東中野の商店街を歩いていると、前の方からアベックが歩いてきて、ちょうど電気屋の前ですれ違ったのだが、店頭にあったテレビは巨人対広島の試合をやっていて、またまた巨人軍が敗けてて、それを見たアベックの片割れの男が<ちきしょう、またかよ、くそおもしろくない>と表情をひんまげながら女の方を向いた。

 クイーンファンが、クイーンファンとしてはすぐに滅びてしまう事に対して、僕は心情を交じえずに納得する事が出来る。ファンの本質とは<他者>ではなく<他人>である。巨人軍の崩壊は他人という無責任な体系の崩壊である。僕はもう何年も前から、アンチ巨人ですらないので、巨人軍がいくら敗けたって、若干の小気味良さは感じるが、実際は別にどうだって良い。だけど今頃、無責任な他人の位置に自分を置いといて、本気で同情したり文句言ったりしてる人って何なのかなあ。巨人軍の崩壊は、単に一チームの崩壊ではなく、スター=ファン意識の崩壊であるはずだ。小学校ではもう何年も前から巨人ファンというのはマイナーになっていた。あいつらは、とっくに今日の巨人軍の姿を見ていたのだ。今は、本来なら、観客席の人間が一斉に立ち上りグラウンドに駆けていかなければいけないのだ。もっと皆んなが、ひとりひとりが輝かなくちゃいけないのだ。

 都市は滅びている。未だ完全に風化を完了していないが都市は既に死んでいる。そして都市が払拭された後に、僕たちは一体、どのような世界に在し在り得るのだろう。

 死者に未練を残す事はない。都市を視る僕たちの"まなざし"を生者へのそれから死者へのそれへと変容させること。

 貨幣の本質とは軍資金であり、学校教育の本質は軍事教育。ああ、すべての、もののふの民。いくさびとの街。

 だけどこの数年の間に、僕たちの、例えばきみは 学校の門をくぐる時の感触は鋭くなったはずだし、銀行の魔法のカード(キャッシュレス)を持つ感触は重くなったはずだ。死後硬直。

 まなざしを変える。
 風景が変わる。

 僕は朝になると死んでしまうあなたの視線について考えていたのです。朝というのは恐しく不健康だ。醒めるという事はあなたが僕との視線をさえぎる事ではなくて、もっと、鋭くみつめつづけてくれる事なのだから。マッキー、酔うと淋しくならのなら、むしろ僕らは普段、何んでもない時(そんな時間なんてある訳ない!)の方が、むしろ、何者かに酔わされてるんじゃないだろうか。雑誌は昨年260億円だか売れて、ROは280円だけど、もしかしたら、ちきしょう、愛が僕たちの貨幣になるような世界が来るのだろうか。

(20101220入力者 深谷健一)




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