橘川幸夫放送局通信

人間を考えるシリーズ(1)どの道もいつか通った道(ROCKIN’ON 30号 1977年)

1977/10/01 22:29 投稿

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人間を考えるシリーズ(1)どの道もいつか通った道(ROCKIN’ON 30号 1977年)
19771001

 朝、起きるとFENをかける。あるいはカセットテープを回す。「音楽がなくなったら生きていけない!」と言って、反射的に僕は僕に「アホめ、一度、音楽なんか取り上げられた生活をするがいい死にはしないよ」とつぶやいてみせた。でもそうじゃない。「音楽がなくなったら生きていけない!」という言葉は例えば「冷蔵庫がなくなったら生きていけない!」という言葉が、今の僕たちにとって真実のように真実だ。僕たちは様々な機能の中にいる。様々な機能の中にいる事によってつながれている。

 いつだって僕たちは「もう、一歩だって後もどりは出来ない」ところで、かろうじて生を保ってこれたのだ。個人は死ねば忘れるし忘れられるが、総体としての人間はまだ一度も忘れものをした事がない。こないだ読んだ本によると、人間にとって<精神の高み>と
いうところへは既に1世紀にピークに達しているし、<芸術の高み>とやらへは16世紀に到達していて、科学も20世紀でピーク だそうだ。

 ピークといえば、こういう例もある。
 現在、世界中の山岳で未踏峰というのは殆どない。あとは南壁ルートとか○×綾冬期単独攀とかいった、登り方が人間の未経験の課題として残されているだけだ。そこに山がある、式のアルピ二ズムに対して、登り方のバリエーションの追及をスーパー・アルピ二ズムというが、しかしそれも近い日に登り尽くされてしまうだろう。

 人間は後退を許さないから、<結果>を目指す事はしないのだ。エベレストを目指す人でも、最早ヒラリーの意欲も情熱も持ち得ないのです。今は、様々な局面で、このような、各方面から集結された事実の結果が人々をシラケさせている。でも、それはそれでいいのだ。しかし、それでもなお僕たちは、結果から出発するしかない。

 秘境は既に俗化した観光地だ。団体客以外には絵葉書も売れない。勿論それは外界の風景だけには限らない。僕らの内面だって、いつからか、エンドレスのビデオ・テープが回っている。評論家と呼ばれる人達は、ごらんの通り、観光地のガイドさんだ。あるいは図書館の司書か。人間は、地球的範囲で考えるなら、一つの集結へと急速に向かっている気がする。

 それは長い道のりだった。画家は一生かけて絵の技術を学び、陶芸家は茶わん作りのノウハウをみがいていた。そして得た技術というものは、その人個人のものであったから、弟子は、師をみて、まねる事から始めるしかなかった。弟子はまず、師の結果、を目指すしかなかった。すなわち、そのたびに、0から出発してきた訳です。

 機械だと、学習し吸収した情報を、そっくりそのまま、別の機械へと移動できる。つまり、機械とは、人間の観念の最終的結果だから、物事の結果から出発するように出来ている。

 機械のように結果から出発する事によって僕たちは<精神の高み>へ瞬時に至りつける。私がやらなくても、手や足に蓄積された人間としての情報がやってくれる。すなわち、事実に介在する個人的情熱だとか努力だとかを取り払った<意味>だけを了解すれば良いのだ。プログレッシヴな悟りではなく、ポップスとしての悟り。何しろ今時、具体的な経典やら芸術作品なんて欲しがる人はいない。登り方にはシャカルートやキリストルートなど沢山あるし各種ガイドブックも書店にあふれてるから便利だ。<結果>を見て見ぬふりして、偉大な悟りやら大芸術作品などを目指すのは、僕たちに結果を示すために死んでいった、多くの先達に対して失礼だ。総体としての人間は決して忘れないのだから、思い出せばいいのだ。どの道もいつか通った道、なのだから。

 70年初期、イギリスのロックが泣きわめいていた時、確かにロックは矛盾の音楽だったのだろう。でもそれは、過去と現在との矛盾ではなく、未来と現在との矛盾だった。多くのミュージッシャンが「俺は機械だ、ソフトでシルバーなマシーン・ヘッドだ、人間のよ
うな、ぬかるみの頭は持ってない、機械は物事をスッパリと迅速に明確に処理するんだ!」と叫んでるように聞こえた。ボウイにとってロンドンという街は、都市ではなく、あまりにも田舎街だったのだ。

 都市なんて実際はまだ世界中の何処にも現れていない。東京だって、まだ東京原住民が東京の風景やら雰囲気に対して愛着を持っている間は、その人間にとっての田舎だ。田舎とか結果だ。あらかじめあったもの、だ。僕らは僕らの中に真の都市と呼べるものを想定し、結晶化しなければならないだろう。

 今を生きる、って言葉があるでしょう。でも、それは別に、刹那的に目の前の現実を生きる、って事じゃあ全然なくって僕たちの拠って来たるところから、僕たちの最終的な姿までを、まるごと抱えてその核としての、輝やける今を生きる、って事でしょう。だから充実があるんであって、具体的な今なんて、ほら、ヨタヨタ、オタオタ、僕たちの目の前を過ぎて行くよ。

 でも僕たちは全力疾走だった。ずいぶん遠くまで走って来たな。ヨタヨタオタオタの時を突き抜けて、暗いトンネルを突き抜けてしまった。僕たちの10年間は19世紀の1世紀分だ、という説があるらしい。こないだテレビという幽霊みたいな機械が出現したと思えば、今日の夕食時にカミさんはビデオを絶賛していた。(でも、その前に家にはカラーTVがないのだからして、早くビデオ内蔵の安いカラーTVが出現しないか。)

 現前のものを見てしまう力、そして見抜いた瞬間に、対象は灰かぐらのように崩れ去る。芸術というものが、人間の身体のそれぞれの機能の肉体的極限だとすると、見る事の肉体的極限が絵画だと言えるだろう。絵画史におけるカメラの位置づけ、というのがどうなっているのか知らないが、それまで、単純に<ものが見える>という信仰の上で、具体的な対象化にいそしんでた、肖像画家とか写実的な画家にとって、カメラの出現(あるいはその予感)は、ある種のシラけた感情を持たせただろう。

 そして、視線の極限化は、崩れ去った灰かぐらの再復作業に似た対象化という作業を置き去りにして(それは機械に任せて)純粋に見る事そのものに意味を持った、シュールリアリズムなり何なりへと進んで来たと思えるのです。

 一方、人間の身体的機能の極限化の方は機械によって飛躍した訳で、これからバイオニクスの時代になればなるほど、意識は更にシュールに、肉体は更に精密な方向へと進行して行くだろう。

 機械とは結果である。僕らの観念の最終的な具体的そして肉体的な姿である。それにしては今の機械はあまりに未成熟だ。つまり、僕らの観念がまだ未成熟だという事か。クーラーは扇風機よりはましにしても、まだまだ不完全で不愉快な道具だ。機械に対する批判は、この未成熟な時代の混乱のように見える。例えば朝日新聞論説委員からソビエト科学アカデミーの長老までの、機械に対する不信は、一方では「機械は完全でない」という現実批判であり、一方では「完全な機械は人間的でない」という機械の本質批判である。これでは批判の構造自体が矛盾してる訳で、人間を永久に不完全なもの不安定なものへと追いやり、そこに人間の理想的な姿を見てしまうのは、やはり後退的な反動的な人々だと思うのです。

 目の前に現れた、素晴らしきもの、新しきもの、を、一瞬の後に、過去へと追放し、その結果を踏みしめて進む、という強さとパワーが僕たちにはある。それで勿論の事だけど、現前の中途半端な機械に僕たちは酔っても溺れてもいけない訳で、頭の中では絶えず、こ
れらの機械をぶちこわしているのだろう。

●橘川幸夫

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