橘川幸夫放送局通信

続・都市はロック 最終回 情報の問題(ROCKIN’ON29 1977年)

1977/08/01 18:35 投稿

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続・都市はロック 最終回 情報の問題 橘川幸夫
ROCKIN’ON29 1977年8月1日 P54-55


(1)明治時代の頃までだと、情報は、狭い範囲の家とかギルド的な組織の内部に、まるで水たまりの濁水のようによどんでた訳。明治になって、情報は少しずつ社会に浸みてきたけど、それでも、まだ一部のインテリとか余裕人が独占していて、だから文豪なんていうのも存在し得たし超知識人もいた訳。だけど戦後になって情報が決壊したダムの水のように、人々に押し寄せて来たでしょう。おかげで、もう、ちょっとの事では驚かないし、大体、ミエはってカッコつけると即に底が見えちゃう。情報を小出しに横流しする事が一種の表現だった時代も過ぎて、今は、こちらの内部的な情報もかなり整理できている。

(2)例えば、<ピア>とか<シティーロード>という情報誌が売れる一方で、ライブハウスへの客足は減る一方という現象がある。映画産業だって好調だという話もきかない。ちょっと不思議だとは思いませんか?ピアを読む事の情報的充足(どこそこで今なにをやってるとか、今、なにが世間の話題を集めているとかいうの)によって、現実にどこそこへ行かなくても満足してしまうという横着な心理があるのかも知れない。実際に行ったところで、既に僕たちに情報として与えられているパフォーマンス以上のものがある訳でもない。

 キッスの場合で言えば、既にコンサートへ行く以前に、どんなステージがあるのか充分に予測している訳で、火を吐けば、あ、火を吐いた、とみんなは確認するだけ。(=友人の富岡さんの話)。一連のパニック映画みたいで、会場に行く前から、見るもの楽しむものが決まっている訳です。と言っても僕は別に、同んなじ事ばっかりやるのはいやだ、なんて、ロキシーをやめる時のイーノみたいな事を言いたい訳じゃない。ステージというのは、一定に決められた範囲の中で、どのようにその人の真情が出せたか、という事なのだろうから。

 つまり、おそろしい勢いで情報が先行している訳で、情報が人々の観念の中に作った鋳型に、実体はヨボヨボと歩いて行ってはまるだけだ。書店に並んでいる自称メディアのほとんどは横着者の代理情報収集係で、テレビ受話器もないのにアンテナがずらっと並んでいるみたいだ。そういう意味で、純粋情報としてのピアが売れるのも分る気がする。でも良いのかなあ。そのテイでいけば、月刊レコード発売リスト、という雑誌がベストセラーになって、音楽そのものはどうでもよい、という事にもなりかねない。現実に今のロック雑誌の売れ方なんて、そんなものなのかも知れない。だって、ロックファンという人達ほど自主性があいまいなのもめずらしいのではないか。その人が、どの雑誌を読んでるか、どの評論家が好きかで、その人の言ってる事が80%はわかっちゃうもの。

 何んのための情報なのか、何んのために経験し、学ぶのか。それが結局、友人との会話の中で相づちをうつため、とか自分を飾り、僕より物知りの事をひけらかし、自分を固く立派なものへと作りあげて行くものなら、君もまた明治の文豪のプラモデルでしかな
い。

(3)鈍感である事は罪悪だ、と彼はにらみつけるように言った。昼の公園ではアベックが語り合ってて、男が何を言うのかというと、冗談の効用とタイミングについて。電車の中では女学生がガラス戸に額を押しつけながら、一人でニヤニヤしている。……。

 何処かへ行きたい(行こう、行かねば)と言っている人は、実は、自分が誰かに背負われている事に気が付いていない。君が、別世界へ旅立ちたいとジタバタ夢想する度に、悩んだり重たくなる度に、君を背負っている人は汗を流すだけ。この事は、ぜひ、一時期、熱病のようにバタバタと投稿をよこして、何故人がこんなに一生懸命なのに載せないのだ、と食ってかかった、多くの人に、顔も知らないけど、分って欲しい。僕らは仲間を切望しているけど、居候にアキ部屋を貸してあげるほど金持ちでもないのだ。自分ひとりで何も出来ない人間が何人集まっても何も出来ない、って昔、松村が書いてたっけ。うまくいけば別の背中に乗り移れる、なんて思わないで、自分の足を静かに地面に下すことが最初に必要だと思います。

(4)僕は、君とキャッチボールをしたいのではないのです。そんなふうにして、それぞれの立場とか距離を固定したくはないのです。僕は、まあるいボールとなって、君のところへ飛んで行きたい。どこでもない、君のところへ飛んで行きたい。だから、僕が、ただの人間であるからといって軽蔑(=尊敬)しないで下さい。そういう風にして僕を遠ざけないで下さい。

 明治の時代には、情報は個人が支配していたから、その情報の量とか角度によって尊敬されたり批判されたりしていましたが、情報は既にあふれ出した訳でこの状況を最大限効果的に使用する事で僕らは情報的な海に住める訳で、海では僕と君とは、タダの人以外のものにはなり得ません。もう僕らは戻る事は出来ない。情報は不可逆的なものだから、戦争によって建物は破壊され、人々は殺されても、情報としての人間は決して死ぬ事はないのだ。(=キャッチ・アップ効果)

 さて、私、というのは一見ここに実在する、何某という自分の事のようだが、自然発生的な意味での人間なら何万年前からいた訳である。私、とは、自然発生した自分という器の中に、ゆっくりと浸みてきて、今では極度に結晶化した情報としての人間の事である。

 それが私にとっての他者という意味である。だから<私>というのは産業革命と前後して、情報が社会に浸みてきた段階で、一般的な発生を呈してきたし、今でも、情報の非流通社会、例えば熱狂的な宗教団体のように、ある方向からの情報しか受けとる事の出来ない組織内の人間にとっては<私>も<自我>も在り得ない。

 表現とは、情報の海に生きるものの、新陳代謝としての機能を持つ訳で、言葉が自分の中を通り過ぎる時、その言葉より新しくより新鮮にして吐き出してあげなければ。本当の事を、本当の事としてしか言えないものには、本当の事は言えないのです。

 情報としての私。あなた。私とは個人というスポンジに浸みこみ、蓄積された情報の事だった。

 僕の一生などわずかなものだけど、僕の一生は、海からやって来た全連鎖の蓄積された情報と共に生きているのだ……。

 僕はその歓びで何度も破裂しそうになったけど、僕はふくらんだボールだから、飛んできたら僕をうけとめて。僕は書くから、君は君の指でなぞって、それで僕を確かめて。

 そして(これは僕の大好きな友達が教えてくれたんだけど)うけとめたボールは、飛んできた方向に投げかえすより、もっと別の所へ投げてくれた方が、ボール自身も嬉しいし、それではじめて僕も君も、ひとつのボールになれるというものです。植木鉢に花を植えるより、そこら中お花畑になった方が気持ち良いよ。

(5)食べ物だと、僕は極く普通の都市生活者として育ったけど、子供の頃の、食事のレパートリーは、今から見ればすごくわずかに限られていたし、それが普通だったと思う。料理なんていうのは、それぞれの家で、祖母から母へと教えられた限りのものでしかなかった。それが今では、テレビは各チャンネルでやたらと料理番組をやっているし、新聞にも雑誌にも料理の種類はあふれているし、専門書も多い。老舗の秘術とか、我家代々の料理なんていうのも伝わってくる。街に出れば世界中の料理が食べられる。

 こないだ、前夜の残りもので、イカとかカリフラワーとか鳥肉とかが、ほんの少しずつあって、グラタンが食べたかったので、それらと、後はナスとか玉ねぎとか適当な野菜も入れ、マカロニをゆでトマトジュースでのばしたソースでグラタンを作って食べた。

 グラタンなんて、子供の頃は、ホワイトソースがやけにまぶしくて、まるで、シンデレラのドレスを想い浮かばせるような、おいしかったけど、そんな観念的なごちそうだった。だけど、今では残パン整理だ。マヨネーズに江戸むらさきをまぜる、なんて、本で読まなかったらちょっと思いつけない。

 情報を、単に知識的な情報として追いかけまわしても、それは大学に受かるために知識を集めている、と同じ事で、学校と関係なくなったら、きれいすっかりと身についちゃあいないです。そうか、ピアというのは、都市生活者の豆単みたいなものかな、ちゃうか。

 情報には必ず人間が係わっているという事を、つまり私(情報としての人間)がいるのだという事を忘れたくない。情報を、例えば僕の生活で利用するという事は、その情報に係わってきた多くの人間と共に生きるのだという事を。

(6)すごい。笑いがこみあげてくる。体の中の、一番甘いところから、笑いがこみあげてくる。笑いだけではない。いろんなものがこみあげてくる。電話がかかってくる。長距離だ。でも、君の声は、僕の一番甘いところから聴こえてくるようだ。何万光年離れた宇宙人同士の、かろうじての、寄りそいながらの通信。喚起の時代から歓喜の時代へと、沼の時代から海の時代へと、ボクのおしゃべりは続く。スウィートなエモーションによって露骨になっていった僕らの感動。僕には僕のおしゃべりを聞いて、確かめてくれる僕らが必要なのだ。アイ・ラブ・ユーのつぎはアイ・ニード・ユーが相場。だから例えば<僕らはもう何も言わなくても分りあえる>と言った場合、それは、そういう言葉を使った範囲内で有効性を持つ訳でして、何もだからといって、これから何も言わないよ、という意味では全くないので、むしろ逆ですよね。何か、その付近で納得しち
ゃったり、オツに済ましたり、悟ったフリしちゃう人が何人もいるけど、やなのね、その程度の言葉の信じ方しか出来ない人って。

(7)スピード・オブ・ライフとは、僕たちの加速度のついた視線の事だから、例えば僕たちの内部情報の質をすれば、老人の悲しみも、死者の、あの世界に拡がって行く感覚も理解する事が出来る。それはもう、理解出来る、と言って良いところまで来ている。無気力高校生と無気力老人。老人こそが、人間として意識の充実として、豊かに満たされているはずなのに。

 しかし、彼の顔を見ていると、もう10年間も電話ボックスにとじこめられているサイボーグの事を想い出してしまった。もう住所録はボロボロ。ROだってもう6年だ。アメリカでは、隣家の住人が騒ぐと、それに文句を言うのさえ弁護士にやらせるそうだ。(=読
者の人からの情報)

 いつか、どこかで(だけど、アナザーオケイジョンとは言わなかった。)心おきなく拡がっていけるさ。だから……

 波に砕かれても波にはならないで。風に吹かれても風にはならないで。どこにも行かないで。細い針金のような孤独(あい)にしばりつけられ結ばれている僕たち。
           
                                

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