ジョブズは何処から来たのか。
--------ロック音楽が鳴り響いた人生
橘川幸夫
1.反乱の時代の中から
スティーブン・ポール・ジョブズは時代の波を爽やかに泳ぎ切りながら僕らの眼前から去って行った。彼が残してくれたのは、感性あふれるプロダクツとコンセプトである。人は個人の才能だけで時代に影響を与えることは出来ない。時代に影響を与えつつ、ジョブスもまた時代に大きな影響を与えられながら成長してきた。時代との関わり方を真正面から受け止めることが出来ることを才能と呼ぶのかも知れない。
ジョブズは、1955年2月24日にシリア人の父親とアメリカ人の母親の間に生まれた。それは肉体的な誕生日である。僕らが知っている「Appleのジョブズ」のスタートは、おそらく1960年代後半の、アメリカ社会がベトナム戦争の厭戦感の中で混乱し、若者たちがさまざまな反乱を起こした混沌とした時代環境の中でだろう。その中で学生だったジョブズはビートルズに圧倒され、ボブ・ディランに心を揺らしていた。ジャニス・ジョプリンの死を悲しみ、ジミー・ヘンドリックスの死に落胆もしただろう。ロック音楽が、未来の見えない暗闇の中で、新生児の叫び声のように、唯一、未来を感じさせてくれるムーブメントだった。社会が根本のところからの変革を求めながら、社会は依然として強固に古いままであるということの苛立ちを若い世代は感じていた。
60年代末期の学生たちの反乱は、先進国を中心に同時多発で起きた。まだインターネットはおろかパソコンすらなかった時代に、まるでネットで示し合わせたように、世界中の若者たちが既存の体制に「NO!」を宣告した。パリのカルチェラタンで、アメリカ西海岸のバークレーで、東京の新宿で、国家と学生との衝突が起こり、世界中のキャンパスが揺れた。そういう時代背景の中で、早熟な若者であったジョブズは、中学生の頃からヒューレット・パーッカードでアルバイトをしながら、1971年、高校生の時に、スティーブ・ウォズニアックと運命的な出会いをする。そうしたドラマティックな日常の中に、ロック音楽がバックグランド・ミュージックとして鳴り響いていたに違いない。
2.ロック音楽の流れる中で
僕はジョブズより5年ほど前に生まれた。ジョブズのように早熟ではないので、普通に高校を卒業し、68年に大学に入学する。入学したキャンパスの授業はオートメーション工場のように機械的なものであった。「これは本当の大学ではないだろう!」と、多くの学生たちが疑問に思った。おざなりの授業を退屈そうな学生たちが無気力に受講し、そのまま流れ作業のように社会に卒業していく。教授たちを取り囲んで大衆団交なるものが、各地の大学で繰り広げられた。学生が「こんな大学、おかしいだろう!」と問い詰める。その時、ある教授がこう言ったのである。「君たち、今の大学がおかしいというなら、どういう大学が正しい大学なのか言ってみなさい」と。僕は、その言葉が衝撃的であった。間違いなく、今の大学が間違っていると思っているのに、何が正しいのか具体的に説明出来ない自分がいた。僕以外の学生は、その発言をした教授に「居直るな!」とか叫んで、更に詰め寄っていったが、僕は軽い挫折感と共にその場を引き下がった。その時「いつか、必ず具体的に、何が正しいのか言ってやる」という想いを秘めながら。
その頃の僕の生活のBGMはジョブズと同じようにロック音楽であった。ブラインドフェイスが、ブラッドスエットアンドティアーズが、フリーが、グランドファンクレイルロードが、シカゴが、絶え間なく生活の隅々にまで鳴り響いていた。新宿にソウルイートというロック喫茶があった。自分の部屋では聞けないほどの大音量でロック音楽を浴びるために、その店に行っていた。浪人生であった渋谷陽一は、その店のDJだった。僕らは、既存のロック雑誌を批判しながら、僕らの望むロック音楽雑誌を作ろうと話し合った。それが「ロッキングオン」である。大学での軽い挫折感を、メディア作りという形で復讐してやるんだ、という気持ちが何処かにあった。
全くの素人である学生の僕たちが雑誌を創刊するというのは、今のような情報過多の社会ならともかく、暗中模索の連続だった。印刷費がないというので、僕は、日暮里の写植屋に弟子入りして、技術を覚えた。写植とは印刷の版下原稿を作るためのタイプ機械である。大学を辞め、東中野にマンションの一部屋で写植屋を開設し、そこはロッキングオンの編集部となった。
ジョブズも、リッツ大学に入学しながら、大学のシステムとクォリティに幻滅して、半年で退学している。そして、自分のヴィジョンを具体化するための活動を開始するのだ。大学で唯一得たものは「カリグラフィ」であり、文字制作の魅力に熱中できたことは、その後のApple製品のフォントのこだわりにいかされている。
ジョブスの有名な米スタンフォード大卒業式(2005年6月)の講演の中で「私が若いころ、ホール・アース・カタログ(The Whole Earth Catalog)というすばらしい本に巡り合いました。私の世代の聖書のような本でした。」と述べた。「それは、インターネットがない時代のGoogleのようなものだ」とも述べている。その本は、当時の大学や社会に失望した若者たちが、地球市民としての新しい生き方を具体的にするための「Access to Tools」として作られた。ウッドストック音楽祭をトリガーとして、新しい生き方を模索する多くの若者たちがアメリカに登場し、若きジョブスはコンピュータの世界での「Access to Tools」の開発を人生のテーマとしたのだと思う。
3.「NO MUSIC, NO LIFE.」
「NO MUSIC, NO LIFE.」(音楽がなければ生きていけない)というスローガンが広がりはじめた80年頃、音楽を知らない人たちは「音楽なんかなくたって死にはしないさ。試しに、オーディオ装置をぶっ壊して生活してみれば分かるよ」と冷たく突き放した。確かに音楽がなくても物理的には死ぬことはないだろう。しかし、それは、生きるということの意味が違っているのだ。
人は動物として生まれてくる。その場合は、自然界の栄養分や空気が生存のための必要条件である。やがて人は、自我に目覚め、他者を意識する。共同体としての社会の上でこそ、人間は生きていけるようになる。社会における栄養分や空気は、貨幣である。お金がなければ社会生活が出来ない。人は労働によってお金を稼ぎ、消費することによって、人間的な生活を確保する。そして、ビートルズが着火したのは、社会の上に更に新しい世界を築くことであった。それが「時代」である。時代の中の栄養分であり空気が、ロック音楽なのである。音楽がなくても、動物としての生命は確保されるだろうし、社会的生活も成立するだろう。しかし、時代を生きることは出来ないのだ。音楽を知ってしまった者にとって、時代の空気を吸わずに生きることは、生きているとは言えないのである。
地球という大地。社会という共同体。時代という時間の最先端を走り抜ける気分共同体。社会における空気が金であれば、時代における空気は音楽であろう。時代とは社会からはみ出したところに存在する。社会をはみ出したところで輝くこと。輝くことによって社会にも影響を与えること。それがロックである。ジョブズは社会と時代を見事に融合させながら走り抜けた。自分が音楽を聞きたいために作ったiPodを世界的なベストセラーに仕上げてしまった。
ビートルズは、世界がまだバラバラに成立していた時代に、先進国を中心に同時多発にファンの心をとらえた。そのことがビートルズの衝撃であり、60年代末の学生反乱も、同じように自分の内側に音楽のビートを感じたものたちが、世界同時に反応したものであった。それは現代のジャスミン革命にも通じるものだろう。社会の上に、時代を築こうとしたのである。ジョブズの成し遂げたこと、成し遂げようとしたことは、まさに、ビートルズ革命のコンピュータ・テクノロジー領域での展開であった。彼は、社会的成功を踏み台にして、時代を築こうとしたのだ。他のベンチャー経営者が社会的成功だけに充足してしまうところと一線を画していると思う。
ジョブスが、ポプ・ディランを「role models」(お手本)と言ったことは有名である。優れた音楽家は、一つのスタイルを作ることに全力集中し、そしてそれを発表した後は、全く新しいスタイルを構築するためにゼロからの挑戦をする。そういう態度をお手本にして、ジョブスのAppleは新しい世界観を構築するための挑戦を続けた。
もともとロック音楽は、電気ギターという、楽器とエレクトリック・テクノロジーの融合からはじまった。メロトロンやムーグ・シンセサイザーは、ロック音楽の質的発展に寄与したし、ミキシング機器の充実が果たした役割はとても大きい。ロック音楽とコンピュータ・テクノロジーは時代を動かす二つの車輪であった。
ジョブズは自らが開発した商品が、機能の先進性はもちろんのこと、ひたすら「かっこ良さ」を求めた。機能の先進性は社会性だが、かっこ良さは時代性である。なぜ、かっこ良さを求めたのか。答えは一つである。ロックはかっこ良くなければならない。なぜなら、ロックのスタートは、世の中のカッコ悪い、醜悪な現実に対する怒りから始まったものだからだ。
▼参考。もう一本、日経BPオンラインにも書きました。
僕らがジョブズの魂から学ぶもの。▼参考。もう一本、日経BPオンラインにも書きました。
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