電車はやけに空いていた。いつもは満員ではないものの、空いている席はない。でも、今日は席に座ることができた。会社の最寄り駅まで一時間足らず、新聞を読みながら過ごす。一面は見出しだけをチェックし、テレビ欄から見始める。テレビ欄の次は社会面、地域、スポーツ、経済、国際、政治と順にめくっていく。めくるごとに自分の関心からは遠ざかっていく。
つまるところ自分にとって最も重要なのはテレビ欄ということになる。月9のドラマが面白そうなら、月曜は9時までに家に着こうと仕事を頑張るわけだ。テレビ欄を見ながら、そういうきっかけとなる番組を無意識のうちに探している。
今日は7時から仮装大賞があるようだ。おなじみ「欠ちゃんの仮装大賞」である。さすがに7時に家に着いているのは難しいが、優勝した仮装は見たい。優勝決定後に優勝チームの仮装のVTRが流れるはずだから、それに間に合えばいい。二時間番組だからそれは8時40分過ぎということになる。そのためにはいつ会社を出ればいいのか、そんなことを考えながら、新聞をめくっていく。
国際面で「正男がディズニーランドに来ていた?」という小見出しが目に入った。最近は小雪・優香・夏帆など名字のない芸能人が珍しくない。正男もその流れの人か。全然知らなかったが、どうやら正男というのは有名な人なのかもしれない。スポーツ紙ではない、れっきとした一般紙でプライベートが取り上げられるというのはよっぽどの有名人じゃなければありえない。記事の中身に目を移そうとしたところで、電車は目的地へ着いてしまった。新聞を畳んで席を立つ。
駅から会社までは五分もかからない、一直線の道だ。いつもなら会社員が無表情で歩いている。だが、今日は誰も見当たらない。腕時計に目をやると8時24分。遅刻したわけでもなさそうだ。
会社の入り口に着いた。いつものように社員証をピッとやって認証を済ます。自動改札のようなゲートが開き中へ進む。すると、会社の受付を兼ねた警備員が慌ててこう言った。
「すいません。休日出勤届にサインをお願いできますか?」
「…えッ?」
僕は思わずすっとんきょうな声をあげてしまった。
「今日は休みじゃないですよね」
「いえ、今日は土曜日です。8日、土曜ですよ」
ケータイを取り出して待ち受け画面を見ると確かに「9月8日土曜日」と表示されている。会社をズル休みしたことはあるが、会社に頼まれもしないのに来たのはこれが初めてだ。知らず知らずのうちに疲れがたまっていたのかもしれない。
「…あ、間違えました。今日は土曜でしたね。失礼します」
なにかドッキリを仕掛けられたような気持ちになった。でも、本当にドッキリならもう少し映像として見映えがするものにするだろう。もやもやが取れないまま、今来た道を戻る。ふと会社近くのコンビニに立ち寄ってみた。コミックコーナーにある「岡の東術師」という漫画に目が止まる。「東術」というのは何だろうか。あいにくビニールに包まれており、中身は見られない。気になって仕方ないので、5巻全部を買い物カゴに入れた。
続いて目についたのは週刊誌の見出し「袋とじ企画 不況の今こそ失岡株を買え!
中国で失岡の需要急増」だ。株については詳しいほうだと思うが「失岡株」というのは聞いたことがない。おまけに「失岡」というのは中国で求められているのだそうだ。この週刊誌も買うことにした。
DVDが少し置いてあるコーナーには「セーラー服と機関充」というのが置かれていた。リメイクなのかパロディなのか、よく分からない。気になるのでこれも買い物カゴへ。
お弁当と飲み物とおやつも持ってレジへ向かう。見かけたことのない綺麗な店員だった。「令木」という名札がついている。「珍しい名字ですね。なんと読むんですか」なんて言って話しかけたいところだ。でも、コンビニにはそういうフリートークは似合わないと思って止めておいた。会計は8952円。思ったより高かった。
駅へ行く途中、不動産屋では開店準備のため、店先にのぼり旗を立てている。「礼が不要の物件多数」と書いてある。初めて見た内容だ。「いまだに田舎では、大家にお歳暮を送ったり、年賀状を出したりして、礼を尽くす風習があるのかもしれない。でも、ここは都会ですから、そういう礼は要りませんよ」、そういう意味だと解釈した。確かにこの街は、田舎から出てきた人が初めて住むのにはちょうどいいところかもしれない。
駅に着いたら、電車に乗って帰るのが面倒に思えてきた。体がだるいのだ。ロータリーに停まっているタクシーに向けて手を挙げた。行き先を告げ、後部座席いっぱいにごろんと横になった。「目的地近くなったら、声かけさせてもらいますんで」、運転手はそう言って走りだした。発車してしばらく経つと、猛烈な頭痛が襲ってきた。おまけに耳鳴りもする。
「すいません。最寄りの病院に行ってもらえますか? 気分が悪いんです」
気がつくと、そこは病院のベッドだった。看護婦がこっちを見た。
「起きましたか。タクシーを降りる時に倒れられたそうですよ。運転手の方が運んできてくださって…あ、先生がいらしたようです」
ごく簡単な問診の後、聴診器が当てられた。女医はちょっと首をひねりながらこう言った。
「…世の中には実に様々な病いがあります。ちょっとプライベートなことになるかもしれませんが、診察の一環ですので、どうか正直にお答え下さい」
「はい」と答えるしかなかった。
「最近、何か買い物をしましたか? いわゆる衝動買いというのはありませんでしたか?」
「最近というか今日ですが、コンビニでコミック、週刊誌、DVDと食べ物を買いました。初めから買おうと思っていたわけではなく、なんとなく入っただけだったのですが。それなのに、会計が9000円近くになってて驚きました。言われてみると、たしかにそういうことがこの頃何度かありました」
「差し支えなければ今日買ったものを見せてもらえますか? 無理にとは言いませんが」
かばんからコミック、週刊誌、DVDと食べ物を出すと、女医はコミックを手に取ってこう質問してきた。
「失礼な質問かもしれませんが、このコミックのタイトル、分かりますか?」
「岡の東術師(オカノトウジュツシ)です」
「週刊誌のこの見出し、読んでもらえますか?」
「不況の今こそ失岡株を買え(フキョウノイマコソシツオカカブヲカエ)ですか。失岡株というのが何かは分からないのですが」
女医はやっぱりというような表情を見せた。
「このDVDのタイトルは?」
「セーラー服と機関充(セーラーフクトキカンジュウ)です」
今度の表情はしまったという感じ。女医はまだ若手だからか表情が実に分かりやすい。でも、分かりやすいのは表情だけで、これらの質問がまともな診察になっているのかは皆目検討がつかなかった。女医はカルテにペンを走らせた後、こう言った。
「会社員でいらっしゃるかと思いますが、給料日は10日ですか?」
「えぇ…よくご存知で」
「やっぱりそうですか。典型的なヒンケツの症状です。でも心配ありません。全治は次の月曜の朝9時5分過ぎですから。銀行によって処理が遅い場合もありますけどね」
さっぱり意味が分からなかった。全治一ヶ月というのなら聞いたことがある。でも、全治するタイミングが分刻みで明示されるなんて聞いたことがない。
「すいません、ヒンケツというのはどういう…」
「ヒンケツじゃありません。・・・ケツです」
「ケツってお尻の病気ですか」
「違います! ・・・ケツです。…あ、いけない。いくら言っても通じないはずだわ」
何かに気がついたようで、女医はその場で薬をくれた。薬を飲ませてもらったら不思議とだるさはなくなってきた。
「改めて診察の結果ですが、端的に言いますと金欠乏性疾患、いわゆる金欠病です。この病気は、給料日前に症状が悪化することが多い奇病です。クレジットカードの引き落とし日に突如発症する場合もあります。海外旅行に行った後の女性に多く見られる症状です」
「はぁ…」
私は戸惑うばかりだが、女医の顔はいたって真面目だ。話は次へと進んでいく。
「この病気が厄介なのは、その名の通り、ありとあらゆる『金』が欠けてしまうところなんです。お薬をお飲みになったので、今は大丈夫だと思いますが、このコミックは『鋼の錬金術師』、ハガレンです。さきほどは金が欠けて見えなくなってしまっていたんですね。こちらの週刊誌の見出しは『不況の今こそ鉄鋼株を買え』です。こうゆう症状だけならまだなんとかなるかもしれませんが、この病気の恐ろしいところは、何と言っても時空が歪んでしまうところなんです」
「時空が歪む?」
「そうです。一日丸々無くなってしまうんです」
「…あ、そういうことか! 木曜の次が土曜になってしまったってことか」
思い起こすと、今日腑に落ちなかった出来事は、すべてこの病気に起因していた気がする。なんだか雲が晴れるような気分だった。ほどなくして診察は無事に終わった。
「では、お大事になさって下さい。あと、ご利用は計画的に、ね。」
女医はいたずらっぽい微笑みを浮かべていた。
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変な電子書籍を「変電書」と名付けることにしました。
2013年は自分で「変電書」を作ってみたいと思ってます。
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橘川幸夫放送局通信
橘川幸夫
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コメント
おもしろかったです〜!!他のも読んでみたいです!
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(著者)
面白い。数字を主人公にして書いてみると良いのでは。今後に期待。