橘川幸夫放送局通信

素人の時代(単行本「企画書」1981年)

2012/10/08 11:50 投稿

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  • 橘川
  • 素人

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標題=素人の時代
掲載媒体=単行本「企画書」(1981年発行)
発行会社=JICC出版局
執筆日=1980/12/01
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素人の時代

 素人が好きだ。それは無知無能であることに居直ったり、玄人に対してのコンプレックスから大仰に騒ぎまわるだけの素人のことではない。言葉のとおり「素(もと)の人」ということで、この世界を構成しているひとりひとりの、静かだけどいきいきと、賑やかだけど単調に生活している普通の人たちのことだ。

 人は誰もが純粋無垢のヒトとして生まれ死んでいくだけなのに、人生とか社会とかに関われば関わるほど、経験やら技術やら役目やらと、わけの分らんものを押しつけられ、まとわされて、いつのまにか他人は、ここにいるだけの「自分」を見てはくれず、後からベタベタくっついたものばかりを見るようになる。なによりも、自分が「自分」を見失う。あはは、街では今日も肩書きと肩書きが商談していやがる。

 ぼくは「子供とは人間の素人である」という意味において、素人が好きだ。これまでは素人が玄人になること、子供が大人になることが人間の生涯というものの課題だったのだろう。しかしやがて玄人は、自分がやってきたこと学んできたことによって、自分自身の身動きがとれなくなってくるはずだ。玄人とは、自分の領域のことは完壁にできるが、結局、自分の領域のことしかできない人種だ。自分の領域のことしか考えられない人ばかりになってしまったから、社会は人々をバラバラにしたまま冷たく窮屈になってしまったのだ。

 世の中を変えるために政治家になる、という「素人の発想」がある。今までの世の中の仕組みでは、まず「政治家」になるために途方もない労力と無駄な時間を浪費せねばならなくて、あわれ、実際に政治家になったときは、「素人の発想」など粉みじんに霧散していて、したり顔の老人になっている。世の中を変えたい、という素人の発想とエネルギーが、直接、世の中を変えるというそのことに使われず、政治家という玄人の立場になることのために使われてしまったのだ。哀しい浪費だ、と思う。

 企業の商品開発室の玄人たちが研究室の中で頭をこれくりまわすだけでは、もはや新しい商品は登場しない。大学や業界の中でどんなに作曲の勉強をしようと、ぼくたちが必要としているリズムを作り出すことはできない。ひとりひとりの「素(もと)の人」の必要性と自発性から新しい商品は生まれ、リズムが生まれるようになる。

 時代の主役が交替するようになるだろう。これまでは、それぞれの領域での長老がテクニシャンが代表者が……主役だった。これからは、ひとりひとりの素人が主役だ。世の中が変わるということは、別に政治シーンの上で指導組織や政治理念がすげかわることではない。この社会を構成している、あらゆる領域での人間関係のありかたのひとつひとつが根本的に変わるものでなくてはならない。分りやすくスローガン化とすると、こうだ。「教育の主役は先生ではなく生徒にあるべきだ! 食堂の主役はコックではなく食べる人にあるべきだ! メディアの主役はスターとか評論家にあるべきではなく、ひとりひとりの素人にあるべきだ!」

「オレはプロだ!」などと自信を持っちゃってる人は、つまり自分がロボットとして完成されたことを誇っているようなものだ。ぼくの好きなプロは、常に自分に身についてしまう経験や技術を捨て去ることができる人たちであるし、ぼくの好きな大人は、いつまでたっても子供のようにかわいらしい発想を持ち続けている人たちだ。

 世の中ますます外見的に完成されていく。人々もそれぞれ自分の世界を完成させて大人(区点による強調)しくなっていく。しかし外見的な完成の内側で、おそらくこれまでの人類史のどこにもなかったような崩壊劇がはじまっているのだ。管理が徹底して、子供たちはすでに素人の子供ではなく、社会構成の中で「遊ぶことと学ぶこと」を役目づけられた立場をこなすだけの、玄人の子供になりつつあるのではないか。「うちの学校は一度校門を入ったら、下校まで出ちゃいけない。でもボールが出ちゃうじやない。とれないんだよ、それがね」(藤沢市立村岡小学校教諭・名取弘文さんの証言/グラフィケーション’80(2桁縦)・6月号)。校門の前で、目の前に転がってるボールをとりにいけない少年たち。学校が規定した「子供」の範囲から脱出できない子供たち。校門の前に立ちすくみ、いつくるか分らない通行人を待つしかない少年の姿は、現実の中に置かれているぼくたちの姿と、そんなに変わりはしないのだ。

 これまでも世界の各地に文明が誕生して栄枯盛衰を繰り返してきた。しかし、もはや世界の一地域の文明など考えられないし、一地域の崩壊は世界全体の崩壊に結びついている。核爆弾というのが象徴的な最終兵器だ。もはや、特定の地域なり人種なりが自滅すればそれで方法誌の過ちが一応、すんでしまうような文明の中に、ぼくたちはいない。人類のやってきたことの総決算の日は、すでに来ているのかもしれない。

 ぼくたちの歴史的な成果が「目の前にあるボール」を拾いあげられないような現実であるとは、とても思えない。偶然通りすがってボールを拾ってくれる人の名前はヒトラーというのに決まっているのだ。素人の時代とは、ひとりひとりの無名のあなたが、自分の意志でボールを取りに行くことだ。

 時代の真の意味での困難さを喚ぎとる能力は、想い出の中に逃げこむことができる老人たちにはない(六○年代性老人症も含めて)。逃げることもできず、あとは、待つこともできなくなったら、静かにボールを取りに行こう。そんなに簡単なことではないだろう。失敗を繰り返すことになるかもしれない。でも「人間(しろうと)の失敗する姿は喜劇になりうるが、機械(くろうと)の失敗する姿は悲劇でしかない」と思っているから、「人間の失敗」については、笑って許しあいましょう。

 ぼくたちをとりまく環境は、自然の側から見るなら、見れば見るほど破滅的惨状だ。自然生態系はもちろん、なによりも人間社会を構成している人間関係が、旧態のそれから大きく変容し、「関係の環境」崩壊はさらに速度を加えているように見える。近代の技術(テクノ)は自然生態系を破壊したが、近代の意識(コギト)は、血縁・地縁といった、人間関係の「自然」破壊を為したとはいえないだろうか。新聞が騒ぎたてているいくつかの殺戮劇は、ぼくたち自身の家意識の崩壊音として、あまりにも切実に聴こえはしないか?

ぼくは、これからの仕事は、単にこの破滅的状況を近代以前の牧歌的状況に修復することではないと思っている。自然を環境的にも関係的にも、取り戻すということは、結果としてそうなるのかもしれないということで、すべてを原始時代に戻せばそれですべてが解決つくとはとても思えない。自然を回復すること自体は目的にはならないはずだ。時は戻らない。次へ進んでいくしかない。この解体された荒野の上に新しい世界を再構成していくしかない。

 ぼくたちは、かつて一度だってユートピアに棲んだことはないし、将来に約束された地を持ったこともない。常に、この破滅的現実の彼方に足を一歩踏み出そうとする「動き」があっただけだ。今や、誰一人として今の現実が正しい、このままで良いと思ってはいないだろう。正しいとは思っていないが「満足」はしているのかもしれない。これはいったいどういうことなのだろうか? 政治家も庶民もぼくもあなたも、自らの足元が音を立ててガラガラと崩れている時に、それぞれが自分のまわりに「満足」のバリヤーをはってしまったのだろうか。

 よく分らない。いいやっ、なあんにも分りません。だからこそ、足を一歩踏み外してみたい。「満足」の校門からボールを取りに出る勇気が欲しい。やりなおすことも立ち止まることもできない。彼方の世界に、ひとりの「素人」として踏み出すだけ。

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