「2+2はいくつか。4ではない。独裁者が5といえば5.3といえば3、『1984』と安倍政権①」と題して、スターリン体制下のソ連を連想させる全体主義国家批判として書かれたジョージ・オーウェル著、『1984年』(Nineteen Eighty-Four)が、安倍政権下の日本に当てはまることを前回記述した。
前回は「2+2は4ではない。独裁者が5といえば、5.3といえば3.それを瞬時に適合する能力が党員に求められることを書いた。
今回は、「安倍氏は強権発動で何を求めているか」との関連で引用してみたい。安倍氏自身が意識するする市内を別として、安倍政権の方向は『1984』の世界と同一だ。
・党は権力を手に入れるために、権力を求めるのだ。
・我々は何も他人に善をもたらすことに関心がない。我々は権力だけに関心がある。富でもなく、贅沢でもなく、長寿でもなく権力のみに関心がある。
・ナチやロシア共産党は
コメント
コメントを書く(ID:2197362)
別にマスコミに助けてもらわなくても、現状認識くらいできる。なぜかわからないができるのだ。確かに1984は不思議なSFだ。誰かが引用していた「マイノリティーリポート」のフィリップ・K・ディックもそうだが、彼らには未来を予知する能力を持っているのではないかと思うくらいだ。パンドラの箱でも開けたのかな?パンドラの箱に残ったのは、「未来を予知する力」とも「希望」ともいわれる。それらは同一のものだという仮定に立てば、現在の状況も希望に向かっていると言うことになる。自分はその立場を取る。それは安倍にこだわると言うことではなく、今人々の意識が移行段階に入ったと言うことだと思う。希望は、安倍であれその次に出てくるものであれ、まあ安倍ではないだろうね。ただ大切なのは安倍ではなく、人々の意識の変化だ。僕はそう思う。
(ID:19005377)
ジョージ・オーウエルの「1984年」には孫崎先生ご指摘の文脈があるのですね。今一度読み直します。
先生ご指摘の文脈は、一見したところでは、西側の諸々のマスコミが描く北朝鮮の実情かと一瞬感ずるところがあるのですが、北朝鮮の場合は団体行動美という芸術?を追い求めて居る様子が伺えるし、第一次大戦で大活躍したクラシックな二枚翼の戦闘機を飛ばしたりして植民地解放記念日を祝したりして、ユーモアもあるわけです。そして、先生ご指摘の文脈を何度かくりかえし読んでいるうちにビジョン無き安倍政治そのものに文脈がぴったりと当てはまってくるからとても驚かざるを得ません。
株式市場の毎日の乱高下だけに狂奔する政府筋が繰り広げる仕手戦が唯一魅力の安倍カジノ政治は民衆には百害あって一利なし。早く退場させねばなりません。その方法?それは沖縄にあります。自民党員の翁長知事の心の中にあります。
(ID:18367902)
「人の顔を踏み潰す権力だ」
国民の個人の尊厳が無視されるということである。個人の意見が無視されることでもある。
マスコミの報道も同じことが言えるが、厳しい自己凝視を強いられる記事に対して、真剣に直視せず、「自分に関係ないこと」とする傾向があり、中韓の記事も同じことが言える。悪く書けば喜び、よく書けば批判する自己本位の情緒性から抜け出せないのであろうか。朝日デジタルの報道によると、非正規が4割になったようである。致し方ないとあきらめる傾向が強いが、企業は空前の利益を上げていることにも目を向けるべきでしょう。