左右社掲載随筆、
http://sayusha.com/webcontents/c12/p=201609081200アメリカの大学は8月の末に始まる。そろそろ学期モードに切り替えないといけない、と思ったその日は、南カリフォルニアではめずらしいヒートウエーブの真っ最中だった。我が家に住む三毛猫は、日陰でびよーんとのびていた。来年出版予定である本の原稿の修正を、その次の日から3日間、計26時間で仕上げた。こまかくて骨の折れる作業で、えらく体力を消耗した気がした。それから、シラバス作成を始めた。表の並木道では百日紅が、裏庭ではブーゲンヴィリアが、白く、或いは紅く、鮮やかに咲き誇っていた。
「仕事の時期」がやってきた。今年はどう乗り切ろうか。根付く、ということについて考えている。百日紅にしてもブーゲンヴィリアにしても、木は地に深く水と養分を求めて根を地におろしていく。地上では葉の先や花が光を求め
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「自分という人間の過去を肯定することで、根付こうとしてみる」というところが慧眼。過去がなかったものにして、アメリカみたいな表層的な世界で生きてみても、人生の深みなどどこからも出てきはしない。
「おそれるな」ということだろう。この世に恐れなくては行けないことなどない。蜂の巣になっても広場では死なない。すべてを受け入れる覚悟が出来た時がスタートだ。
文学とは「深み」をあつかう学問だ。「質」といってもいい。偽物の月は丸くなれない。
(ID:21835634)
わたしは息子が小さかった頃、彼に囲碁を教えた。
なにしろ碁を打てる日本人は少ないし、覚えておいて
けっして損はない。
あわよくば大竹英雄や林海峰のようになれるかもしれないと。
まあ、多少の親バカはあったのですね。
息子にはそんなにはスパルタではありませんでしたが碁の勉強は
相当に押し付けました。
ある日息子がわたしに言いました。
碁をやめたいと。
そのぶん友達とサッカーがしたいと。
わたしは言いました。
おれに勝ったら好きなようにさせてやる。
それまでは勝手はゆるさんと。
息子は猛烈にがんばるようになりました。
急速につよくなり、ある日わたしと盤に向かい
わたしを負かしました。互先で。
それは容易なことではないはずなのに。
そして息子のつぎのことばがわたしを打ちのめしました。
「もう碁はやめるからね」
「約束したよね」
息子はそれからまったく碁を打ちません。
数十年。
いつか「親父、一局打とう」といってもらえるのかな。
(ID:19005377)
娘さんの随筆、和やかな気持ちになりました。いいですね。随筆は、毎日、五木寛之の”流されれ行く日々”を読んでいますが、最近のは張りがない。今後、張り求めて左右社のタグを覗きます。