中庸左派 のコメント

私は現実主義であろう、といつも考えている。それは偏向や冒険主義を避けるためである。
そんな立場として、私はアメリカ帝国の大学生達が親パレスチナ抗議行動に決起したことに賛成である。キャンパス内で平和的に立て籠り、アピールすることは、現実的にひとびとの関心を集め、更には世界中への発信効果があった。

世界に戦争を輸出するアメリカ帝国という極悪超大国の内側から多くの学生が親パレスチナの旗のもとに立ち上がった、そのことに世界中が注目し、称賛する人々も世界中にいる。

パレスチナ人の心にも響いている。

https://www.globaltimes.cn/page/202404/1311473.shtml

その意味で、私は現実的で有効な抗議手法を選択している学生達に敬意を表するものだ。

一方、世界は理不尽で暴力的で差別的で無法であることも現実である。

https://www.globaltimes.cn/page/202405/1311563.shtml

だから、平和的な抗議は、無法な圧倒的な暴力や大虐殺の前では基本的に無力であろう。

まして、国内法の世界では大学の管理権を楯に、学生の平和的抗議行動を鎮圧、圧殺することは容易い。司法警察権は基本的には秩序維持を強制する権力機構のためにある。

http://tmmethod.blog.fc2.com/blog-entry-2451.html?sp

この世界の現実を見て、「人はどう生きるべきか?」を問いかけることは、私は無意味ではないと考えている。それは、別の言い方をすれば、無力な一人の人間として、どちら側に立つのか、という問いだ。

正義が必ずしも勝つとは限らない。戦争が平和と言いくるめられたり、悪が善にすり替えられることもある。

だから、自分のモノサシにより、どちらの側に立つかを、せめて問い続けることだ。

抗議行動に決起した親パレスチナ学生達は、その本来の学問と向き合う真摯な姿勢を有している。学徒の使命に忠実に向き合う彼らは、その意味で確実に「正しい」。

世の中には、↓のようなのもいる。

「自分ちのまえで深夜2時に「パレスチナに平和を」と拡声器で叫ぶ学生を前に、倫理と法律の対立で悩んでからほざけ。」(りゃん)

だが、「パレスチナに平和を」が指し示すものは、パレスチナ人の大虐殺への抗議だ。単なる「騒音」とは次元が違う。

ジブン中心に物事を見るなら、隣の学校の運動会も騒音だから、怒鳴り込みに行くムキもあろう。「ウチは子供はいないし、ウルサイ!」みたいなヤカラは、最近はよく聞くようになった。

私には、「自分ちのまえで深夜2時に「パレスチナに平和を」と拡声器で叫ぶ学生」云々の発想は、運動会をウルサイと怒鳴り込む類のヤツと同じでないか、と思える。

さて、どうだろうか?

No.3 7ヶ月前

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