私には、問題の本質は、倫理や道理、もっと言うなら、人はどう生きるべきか?という哲学的命題の中にある、と考える。 だから、その問いに対して、テントに立て籠りパレスチナ人虐殺に抗議する、というある種の拙い形であるが、果敢に取り組んだ学生の、学徒としてのモラルを称えたい。 学徒は真理の使徒である、べきだ。 これは、抽象的に言うなら、法律と倫理の対立である。 より具体的に対比するなら、イスラエルによるパレスチナ人の大虐殺、イラン大使館攻撃、ICJ判決無視、アパルトヘイト政策等、イスラエルによる巨大な人道犯罪に対して、それに抗議する親パレスチナ学生によるテント闘争という倫理的行動ということになる。 そして、イスラエルは国際法の機能しない国際政治という特殊な環境を最大に利用して、大虐殺という無法の限りを尽くしている。だから、本来なら、国際法という空疎なものを埋め合わせるのは、倫理や人道的叡智であるべきなのだ。その意味で学生達のテント闘争は正しい。 一方、学生達は「テントを張って大学の管理に服さないで、その場で表現しつづける権利はない」(りゃん)等という、イスラエルの明白な人道犯罪に比較するなら、極めて些末な根拠としての管理権を楯に警察権力からの弾圧を甘受しないといけないようだ。 ここに、人間社会の理不尽や非対称性がある。 問題は、学生による倫理的問いかけ、倫理的行動に対して、管理権という極めて倫理的に薄っぺらい法的強制力により排除するリクツを振りかざすご都合主義者達である。こういう薄っぺらい人間も多数存在する。時に、私はB層と呼んだりする。 管理権を楯に、学生を排除する権力は、結果的にイスラエルの人道犯罪を擁護するという巨大な矛盾に陥る。イスラエルは国際法は無視して、いくらでも大虐殺という人道犯罪をやっているのだが、国内法による司法警察権力に服する学生は、易々と潰される。これが人間社会の理不尽だ。 私はこのような人間社会の理不尽を考えることなく、煩悶もせず、薄っぺらさや偏向により管理権を楯に学生を弾圧する人間達のことを、凡庸な悪と呼んだりする。 親パレスチナ学生を管理権を楯に易々と弾圧する大学人は、少なくとも真理の使徒ではない。薄っぺらい権力の傀儡である。 しかも、このての連中は、イスラエルの人道犯罪をけっして国際法違反とは言わないだろう。また、イラン大使館に対するイスラエルの攻撃に関して、「(国際法違反とした)グテーレス(国連事務総長)の見解は、ひとつの考えではあるだろうけど、条約の最終的な解釈ではない」(りゃん)などと嘯くムキもいる。しかし、ある場面では、国際法違反をやたら喚く、という具合である。 他にもある。ウクライナ人のポグロムやホロコーストは何故かスルーしながら、ロシア人のポグロムは糾弾して、ウクライナ応援をする。 更に珍妙なのは、帝政ロシア時代は皆ロシア人だったなどと民族の問題が恰もなかったかのハナシを言う。しかし、そんな珍論では帝政ロシアにはユダヤ人もいなったことになり、そもそも「ポグロム」の被害者も消滅することになる。 私はこういう姿勢はご都合主義、ダブルスタンダードであると批判している。 そして、これ自体が国際法が機能しない、ご都合主義者の隠れ蓑でしかない傍証である。 そもそも学問とは、上記のような理不尽やご都合主義と闘うためのツールだろう。学生は自らの使命に忠実なのだ。だから、称賛に値する。
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(ID:119568177)
私には、問題の本質は、倫理や道理、もっと言うなら、人はどう生きるべきか?という哲学的命題の中にある、と考える。
だから、その問いに対して、テントに立て籠りパレスチナ人虐殺に抗議する、というある種の拙い形であるが、果敢に取り組んだ学生の、学徒としてのモラルを称えたい。
学徒は真理の使徒である、べきだ。
これは、抽象的に言うなら、法律と倫理の対立である。
より具体的に対比するなら、イスラエルによるパレスチナ人の大虐殺、イラン大使館攻撃、ICJ判決無視、アパルトヘイト政策等、イスラエルによる巨大な人道犯罪に対して、それに抗議する親パレスチナ学生によるテント闘争という倫理的行動ということになる。
そして、イスラエルは国際法の機能しない国際政治という特殊な環境を最大に利用して、大虐殺という無法の限りを尽くしている。だから、本来なら、国際法という空疎なものを埋め合わせるのは、倫理や人道的叡智であるべきなのだ。その意味で学生達のテント闘争は正しい。
一方、学生達は「テントを張って大学の管理に服さないで、その場で表現しつづける権利はない」(りゃん)等という、イスラエルの明白な人道犯罪に比較するなら、極めて些末な根拠としての管理権を楯に警察権力からの弾圧を甘受しないといけないようだ。
ここに、人間社会の理不尽や非対称性がある。
問題は、学生による倫理的問いかけ、倫理的行動に対して、管理権という極めて倫理的に薄っぺらい法的強制力により排除するリクツを振りかざすご都合主義者達である。こういう薄っぺらい人間も多数存在する。時に、私はB層と呼んだりする。
管理権を楯に、学生を排除する権力は、結果的にイスラエルの人道犯罪を擁護するという巨大な矛盾に陥る。イスラエルは国際法は無視して、いくらでも大虐殺という人道犯罪をやっているのだが、国内法による司法警察権力に服する学生は、易々と潰される。これが人間社会の理不尽だ。
私はこのような人間社会の理不尽を考えることなく、煩悶もせず、薄っぺらさや偏向により管理権を楯に学生を弾圧する人間達のことを、凡庸な悪と呼んだりする。
親パレスチナ学生を管理権を楯に易々と弾圧する大学人は、少なくとも真理の使徒ではない。薄っぺらい権力の傀儡である。
しかも、このての連中は、イスラエルの人道犯罪をけっして国際法違反とは言わないだろう。また、イラン大使館に対するイスラエルの攻撃に関して、「(国際法違反とした)グテーレス(国連事務総長)の見解は、ひとつの考えではあるだろうけど、条約の最終的な解釈ではない」(りゃん)などと嘯くムキもいる。しかし、ある場面では、国際法違反をやたら喚く、という具合である。
他にもある。ウクライナ人のポグロムやホロコーストは何故かスルーしながら、ロシア人のポグロムは糾弾して、ウクライナ応援をする。
更に珍妙なのは、帝政ロシア時代は皆ロシア人だったなどと民族の問題が恰もなかったかのハナシを言う。しかし、そんな珍論では帝政ロシアにはユダヤ人もいなったことになり、そもそも「ポグロム」の被害者も消滅することになる。
私はこういう姿勢はご都合主義、ダブルスタンダードであると批判している。
そして、これ自体が国際法が機能しない、ご都合主義者の隠れ蓑でしかない傍証である。
そもそも学問とは、上記のような理不尽やご都合主義と闘うためのツールだろう。学生は自らの使命に忠実なのだ。だから、称賛に値する。