孫崎享のつぶやき

随想⑪英国大使館と縄文・弥生遺跡:英国大使館敷地が三分割された。一つは英国大使館、一つはマンション予定地、一つは公園、マンション予定地を調査、弥生時代の竪穴住居跡、縄文時代の住居跡が見つかった。さらに江戸時代のもの。不思議にこの間の期間の物が見つからなかった

2024/02/26 06:20 投稿

コメント:8

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 英国大使館は在京各国大使館の中でももっとも秀でた場所にある。内堀通り、千鳥ヶ淵公園、半蔵門濠を超えると皇居で、天皇陛下のお住いの吹上御所がある。緊急事態には皇居から半蔵門濠の地価を通って英国大使館に出る逃げ道があるとまことしやかな伝説がある。
この英国大使館敷地が三分割された。一つは英国大使館、一つはマンション予定地、一つは公園である。
経緯はやや複雑で明治にまでさかのぼる。幕末英国は莫大な資金を背景に徳川幕府崩壊に関与する。明治政府下、大使館建設を、土地を買っていれば何の問題もなかったが、安い借料で大使館を立てた。1873(明治6)年、明治政府が貸し付けた約35千平方メートルの国有地に建てられた。戦後も破格の安い賃料であった。しかし1970年代には日本政府は妥当な賃料を要求し始めた。広大な土地なので支払いが難しい。そこで交渉が行われ、日本政府に五分の一の土地を返し、残りを英国の物とする交

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コメント

>>5
なるほど、確かに。日本史の定説では家康は関東の地を秀吉に与えられたことを島流しだとしているようですが、私はトンデモナイ見当違いだと診てます。彼は関東に百万都市を建設すると意気込んだことでしょう。その為には物資の運送を容易にする必要があり、掘割は必須です。広大に拡がっている江戸沼沢は掘割建設に魅力だったでしょう。加えて、関東武士を手に入れることが出来たし、越後、東北の新田開発も江戸幕府のものです。秀吉の人事の大失敗でした。

No.6 8ヶ月前

>>6
尚、開発への私の異議は、日本の軍事、経済の安全保障上、これ以上高層建築をするのは賢くないと考えるから発したものです。

No.7 8ヶ月前

江戸城の歴史を見ると、太田道灌江戸城築城に遡る。
1457年築城であるが、その当時は原野であった。
一大都市に発展したのは、徳川家康の功績である。
1590年家康が関東に来ると、江戸湊の海上風景と関東平野の広大な土地見て
その活用と一大都市の構想がうかび成し遂げたということなのでしょう。

No.8 8ヶ月前
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