p_f のコメント

> “ロッキード事件は間違いだった”と密かに私にいいました。

本当は「オレの力でタナカを葬ったのだ!」と言い触らしたくてしょうがなかったのだろう。
その一方で、ナカソネには「日航123便のことは墓場まで持って行け」と釘を刺したのでないか。
「ロッキード裁判批判を斬る」を読んだ当時、「ペンは剣よりも強し」で「汚職政治家」の排除に一役買った立花隆氏を手放しで頼もしい存在と見做していたが、実は世界/日本の支配構造を全く理解していなかったのでないか―今にしてそう思う。

PressTV 30 November 2023

ヘンリー・キッシンジャー100歳で死去:世界を悪化させた戦争屋
https://www.presstv.ir/Detail/2023/11/30/715548/US-Henry-Kissinger-Nixon-Ford-Palestine-Israel-Cambodia

数十年に亘って米国の外交政策に影響力を持ち、物議を醸したヘンリー・キッシンジャーが100歳で死去した。冷戦時代、米国の生々しい力を悪びれることなく推進したことで知られるキッシンジャーは、米国の外交政策だけでなく、世界政治全体に消えない足跡を残した-

リチャード・ニクソン、ジェラルド・フォード両大統領のもとで国務長官と国家安全保障顧問を務めたこの極端な外交政策家は、彼のコンサルティング会社であるキッシンジャー・アソシエイツの声明によると、水曜日にコネチカット州の自宅で死去した。

1938年に家族とともにナチス・ドイツを脱出したキッシンジャーは、その後、著名な政治学者、地政学コンサルタントとなり、ワシントンの権力の回廊を渡り歩いた。

ドイツ生まれのユダヤ人難民であったキッシンジャーは、国際秩序の正当性を大国の合意によって成立するものと考え、道徳を無関係なものとして無視する、外交政策への「現実政治」的アプローチで悪名高い人物であった。

当然のことながら、キッシンジャーの遺産は物議を醸す決定や行動によって損なわれている。

1969年から1973年にかけてカンボジアで行われた絨毯爆撃は、15万人から50万人のカンボジア人を死に至らしめた。

カンボジアでの極秘戦術爆撃作戦の狙いはワシントンの願望に基づいており、キッシンジャーがニクソン大統領に「奴らをやっつけるのです!」と忠告したのに従って、南ベトナム民族解放戦線と北ベトナムの両方を打ち負かそうとの意図があった。

秘密作戦への関与で悪名高いキッシンジャーは、1969年、「ダック・ショット」と呼ばれる作戦の一環として、北ベトナムに対して核兵器を使用する可能性のある計画の立案者だった。

英国の作家クリストファー・ヒッチェンズを含む批評家たちは、彼を戦争犯罪と人道に対する罪で非難している。

その著書「ヘンリー・キッシンジャーの裁判」の中で、ヒッチェンズはキッシンジャーが「戦争犯罪、人道に対する罪、そして殺人、誘拐、拷問の共謀を含む通例法、慣習法、国際法に対する罪で訴追されるべきだ」と説得力を持って論じている。

ワシントン・ポスト紙の記者ボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインは、1976年の著書「最後の日々」の中で、北ベトナム爆撃のアイデアが再び持ち上がったとき、キッシンジャーが「爆弾のクレーターの大きさに熱意を示した」ことを明らかにした。

キッシンジャーはまた、爆撃のスケジュールや、ある地域から別の地域へと飛行機を割り振ることを個人的に監督していた。

「次から次へと爆撃機が飛んできます。もう、B-52も見えないほどで、100万ポンドの爆弾を投下しました」とキッシンジャーはニクソンに言った―1972年4月、北ベトナムの港湾都市ハイフォン爆撃後、戦略が機能していると大統領を安心させようとしてのことである。

更に、「きっと、ジョンソン(リンドン元大統領)が1ヶ月で飛ばした爆撃機よりも多くの爆撃機が1日でそこに現れたでしょう...それぞれの爆撃機は、第二次世界大戦の爆撃機1機が搭載できた爆弾の約10倍を搭載できます」とキッシンジャーは言った。

1973年、米国防総省の報告書には、「ヘンリー・A・キッシンジャーは、1969年と1970年の3,875回に亘るカンボジア空爆(爆撃の最も秘密の段階)の各々を承認した」こと、及び「それを新聞に報道させないようにする方法」が書かれた。

中東に関して言えば、キッシンジャーは晩年まで依然として世界舞台で影響力を持っていたと見做されており、ニクソンとフォードの時代にイスラエルを米国の主要同盟国に変えることに貢献し、パレスチナを占領するイスラエル軍に徹底的な武装を施した。 1973年の戦争は「アラブの勝利を阻止する」ためであり、その後数十年に亘ってイスラエルによるパレスチナの土地の植民地化が永続することを確実にするためであった。

キッシンジャーはまた、少なくとも20年に亘ってパレスチナ人を敵視し、特にパレスチナ解放機構(PLO)を悪者扱いし、パレスチナ問題の解決を妨げることによって、パレスチナ人に対する敵対行為を展開した。

キッシンジャーは、1971年にパキスタンのヤヒヤ・カーン元大統領が行った東パキスタン(バングラデシュ)に対する大量虐殺キャンペーンを支持したり、1975年にインドネシアの独裁者スハルトが行った東ティモールの人々に対する大量虐殺戦争を支持したりと、おぞましい行動の数々を記録してきた。

キッシンジャーはかつて、「米国の敵になるのは危険だが、友人になるのは致命的だ」と述べ、友人に対してであっても米国政府の不公平で不誠実な行動に言及したのは有名だ。

No.7 12ヶ月前

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