この種の議論には、問題提起時点で、一種の未整理というか混同があると思う。比喩的な例になるが、それで論じてみよう。人間が根源的に社会的動物だと言われるその例について。 人間にとって「我」と「他者」は明確かつ厳然と別物である。がこの両者は他方で、我の中に他者があり、他者と言えどもどこまで行っても我の目で見てきた他者である。このことは本質的に、以下のようにも言い換えられよう。身体的もしくは心理的個人と、哲学的個人とは先ず別物として、異なる対象、異なる論議になる。そして、この後者は、他者を内に含んだ社会的人間総体を捉えようとするものだろう。「汝自身を知れ」、「我疑う、故に我あり」、「人間は考える葦である」、「精神とは自覚のことである」などはすべてそういう「対象」に関わる思考になる。だからといって、純粋な「我」が何か損なわれたとかいうことでは全くなくって、むしろこの「我」の方こそが、存在し得ない一種の抽象物にすぎないものなのだろう。(文科系)
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孫崎享チャンネル
(ID:130659859)
この種の議論には、問題提起時点で、一種の未整理というか混同があると思う。比喩的な例になるが、それで論じてみよう。人間が根源的に社会的動物だと言われるその例について。
人間にとって「我」と「他者」は明確かつ厳然と別物である。がこの両者は他方で、我の中に他者があり、他者と言えどもどこまで行っても我の目で見てきた他者である。このことは本質的に、以下のようにも言い換えられよう。身体的もしくは心理的個人と、哲学的個人とは先ず別物として、異なる対象、異なる論議になる。そして、この後者は、他者を内に含んだ社会的人間総体を捉えようとするものだろう。「汝自身を知れ」、「我疑う、故に我あり」、「人間は考える葦である」、「精神とは自覚のことである」などはすべてそういう「対象」に関わる思考になる。だからといって、純粋な「我」が何か損なわれたとかいうことでは全くなくって、むしろこの「我」の方こそが、存在し得ない一種の抽象物にすぎないものなのだろう。(文科系)