p_f のコメント

地方に出掛けると、賑わっているのは「道の駅」「温泉施設」くらいだったりする。書店どころか、「店」自体が無い。ローカルバスも廃止か精々オンデマンド。地方の過疎化、高齢化が止まらない。十数年前に旅したスイスは違った。地方ごとに個性豊かで何処も寂れた感は皆無だった。「何故 日本は このようにできないのだ?!」と思うばかりだった。
書籍離れでも、今はSNSの普及で「活字離れ」は収まってるから いいでないか━決してそうでない-

”本書でのサンダースの議論を簡単に整理してみょう。活字離れや読み書き能力の低下にあらわれているように、現代の若者たちは識字から遠ざかっている。しかし、問題は、読み書きという技術が失われていることにあるのではない。根本的な問題は、識字によって形成された「自己」が喪失されてきているということにある...識字というのは一体どういうものなのか...「著者」「独創性」「分析」「真理」「抽象化」「記憶」といったものはロ承世界には存在しない。「声」「物語」「共同体」がロ承世界において重要な位置を占める。
これに対して識字は、抽象的思考、そして反ー事実と未来についての思考、をもたらす。識字は分離をもたらす。具体的現在からの分離である...識字によって分析された現実を内化することによって、内化されたテクストという新たな空間(記憶、意識、自己といった要素によって構成される)を生成する。
ロ承世界でも識字世界でも、物語の特徴は遊びの精神にあり、多義性、隠喩、なぞなぞ、といったものこそ、ことばが最も得意とすることである。しかし、識字世界の中で、学術ラテン語や教会や学校といった「男性」の権威的世界では、このような遊び心が失われた。正確さと規則が支配するようになった。その一方で、土地ことば、子どものことば、女性のことばの中に残る遊び心は、蔑まれた...
識字によって形成された「内化されたテクスト」という自己概念が、電子時代に画面というメタファーに置き換えられることによって、人間はこれまでと全く異なったものになる。ロ承文化の遊び心もしなやかさももたず、識字文化の内省的・批判的に思考する自己ももたない、新たな人間たちは、 良心や罪悪感といったものをもたない。
銃をもつギャングのメンバーたちは、ある意味で非常にコンピュータ化され、映像化されている。
彼らは、仮想現実のイメージの世界に生きているように見える。彼らはほとんどが非識字者であり、 良心・罪悪感を欠き内省的自己をもたない。単にドロップアウトしたギャングたちだけではない。ビバリーヒルズの射撃演習場に集う「成功者」の若者たちも、ある意味では同じである。しかし一方で、ギャング集団をよく見てみると、ロ承文化の特徴を数多く見いだすことができる。彼らは、学校化された識字世界に背を向け、部分的にはロ承世界に入ろうとしつつ、しかし本来のロ承世界に大切なものを欠いている。その意味で、彼らは識字世界の人間でも、ロ承世界の人間でもないのである。
粉ミルクの歴史と幼児教育の歴史を見てみると、大変興味深い共通点がある。どちらも子どもたちに、母親からの「分離」を促し、定式やルールの世界へと誘うものになったのである。それによって、本来識字の基礎として必要な、母親の息や声を感じ経験することを素通りし、遊び心を排除され、ルールとしての学校化された識字の世界(それは本来の識字ではなく、単なる技術としての識字の世界である)に入ることを強要することになる。
崩壊しつつある「自己」をとりもどすためには、識字の根源にさかのぼって、ロ承世界での経験を大切にしなければならない。声を回復することによってはじめて、本来の識字化が可能になり、そこから解決の糸ロが生まれるだろうというのが、サンダースの考えの中核であろう...
いじめや不登校といった現在の学校が抱える大きな問題が、頭のすみから離れなかった読者も少なくないであろう。本書ではアメリカでの事例をもとに話をしており、若者の「暴力」の質も、「ギャング」集団の存在も、学校や社会という文脈も、日本とは大きく異なるところがもちろん多い。それにも関わらず...日本の現在の子どもたち、そして教育のあり方を考える上で、重要な視座を私たちにもたらしてくれている。”(訳者あとがき―「本が死ぬところ 暴力が生まれる」/バリー・サンダース著、杉本卓 訳 1998)

鳩山氏や孫崎さんに反吐を吐き散らすだけの「壺ウヨ」も、まさに「識字世界の人間でも、ロ承世界の人間でもない」「良心・罪悪感を欠き内省的自己をもたない」「自己」が崩壊している反社カルトのクズカスということだ。

No.4 20ヶ月前

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