りゃん のコメント

さて、上で
「清朝」は満州族とモンゴル族が連合してつくられた帝国だったが、1882年に清朝ははじめて「新疆省」を置き、漢族を統治に関与させた。漢族が東トルキスタンの支配に関与したのは清朝ではこれがはじめてだった。
という趣旨を書いた。

この変化はなぜおこったのだろうか。容易に想像がつくように、これは列強の清帝国への侵略が原因である。

1884年にはベトナムの支配権をめぐって清仏戦争がおき、このときフランス艦隊は台湾を封鎖した。これに衝撃を受けた清は1885年に台湾省をはじめて設置している。

このころまで、新疆も台湾も「満州族とモンゴル族が連合してつくられた帝国」である清にとっては、辺境でしかなく、清は台湾を経営する意図はなかったのである(台湾全土を最初に経営開発したのはのちの日本)。ところが列強が南から清をおびやかしてきた結果、清は辺境の国土を防衛し、西洋式の「国民国家」をつくる必要にめざめ、そのために連合の相手を漢族にかえたというわけである。日本でも「国民国家の形成」「辺境への関心」は同じころにおきている。

だが、清に服属していた(漢族に支配されていたのではない)モンゴル、ウイグル、チベットなどの民族にとっては、これは聞いてないよという話だった。さらにその後、漢族は清を倒し、さらに清の支配地域全体が自分の領土だと主張しはじめる。

これはたとえば、イスラエルがオスマン帝国全体の領土を主張するのと、まったく同じではないが似ている。周辺諸民族がそれで納得できるのかというはなしである。独立運動は必然的におきるのである。

文化大革命といえば、漠然としたイメージしかないひとびとも多かろうが、このとき、南モンゴルで知識人をはじめ多数が殺され、漢族に土地を奪われている。その後は原爆実験の放射能のために多数のウイグル人が死傷している。そのもうちょっとあと、チベットで僧侶が白昼の道で抗議の焼身自殺をしたりダライ・ラマがチベットの惨状を世界に訴える活動をした。そして今のウイグルである。漢族の侵略はこのように続いているのである。

もうちょっと続く。

No.16 35ヶ月前

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