りゃん のコメント

「沈黙」は読んだことがあるはずだが、内容もあまり覚えてないし、読んでなにを考えたかも覚えていない。なので、今回の孫崎さんの書き込みに触発されて考えたことで、「沈黙」の感想というわけではないのだが、たぶん「沈黙」を読んだときにも似たようなことを考えただろうという気がしている。

ロドリゴには二種類の道がある。1、棄教しない。2、棄教する。

1を選んだ場合。ロドリゴは死ぬ。信者たちも死ぬだろう。ただし信者たちはすでにロドリゴにとって異教徒である(棄教しているから)から、死んでもロドリゴの罪ではないとロドリゴはかんがえることができる。一方、ロドリゴは、死後、自分の属するキリスト教結社のなかで高い評価を与えられる。将来は福者とか聖者に列せられるかもしれない。

2を選んだ場合。ロドリゴは助かる。信者たちも助かるだろう。いのちが第一なので、それが正しい道なのであると自分に言い訳する。ひとびとに対しては、「ひどい弾圧を受けたからしかたなかった」と言い訳できる。では神に対しては・・・。

神に対しては、たとえば「キリスト教を棄ててもそのかわりに命が救えることこそ、真にキリスト教的な行為なのだ、この修正こそ正しいのだ」と言い訳できるのだ。

そして、ジュゼッペ・キアラは幽閉されたが、転向したヒトビトのなかには、所得倍増や高度成長という情勢のなか、大活躍して得難い人生経験をし、財も築いたものもいるかもしれない。そして、ときには讃美歌を歌ったりもするのだろう。

生き方に良いの悪いのはない。別にどっちが優れているとはおもわない。しかし、みずからの選択は正確に把握するにこしたことはないとおもう。

No.5 37ヶ月前

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