前に表明したとおり、わたしは、 1、基本的に省庁の幹部クラスは政権の意向に沿った人事をすべきで、政権にその権限を認めるべきだ。 2、しかし、検察は準司法であり、1をそのまま適用することはできない。 との原則的な考えをもっており、結果的に、黒川氏の定年延長についての閣議決定には反対している(※1)。 とくに意見書の2のロジックはその通りだと思っている。 なお、検察庁法改正案問題は、黒川氏の定年延長問題とは別であるが、意見書の4にいう黒川検事長の定年延長を決定した決議の後追い容認というのは、ありうるのかもなあとおもう。 そのうえで、今回の出来事について考えてみると、結局のところこれは、「検察に対する民主的コントロール」をどのように設計するかという問題なのであろうとおもわれる。 今回の「元検察官有志意見書」は、わたしは醜悪な文書として読んだ(※2)。どのような組織であっても、たとえば零細企業のなかの数人の組織であっても、いったんできあがってそれなりの伝統をもてば、外からあれこれ言われるのを嫌い、自律性や自治性をもとうとする。まして検察にあっては、自律性や自治性をもとうとする意識はすさまじいものであろう。 しかし検察は(どこの国でもそうだがとくに日本では)非常に強力で権力をもった組織であり、ある点では、裁判所以上の司法的権力をもつ。こういう組織を「自律・自治」に任していていいのか。今回の「元検察官有志意見書」には、ルイ14世だのロックだのまで引用して権力へのコントロールを説いているくせに、この点についての言及、つまり「では当の検察権力に対してはどのように民主的コントロールを及ぼすか」についての言及がただのひとこともないのだ(※3)。だから醜悪なのである。「自律・自治」のなかには、OBも「検察の一員」として含まれているだろう。わたしには、「われわれの権益を侵すな。このままにしろ」という文章に見える。 検察OBであるなら、ほぼすべては、弁護士であり、大半は、検察OBとしてそれなりの企業の顧問だったり役職についているだろう。あるいは最近までついていただろう。もしそういう肩書も付せば、文書の印象はかなりかわるはずだ。あるいは、財務省OBが、財務省人事に対してこういう意見書を出した場合を想像して、どうおもうかを考えてみればよい。 しかし、検察に対する民主的コントロール問題は、適切に答えるのが難しい。 韓国では、文大統領派の不正を捜査する検事総長が注目を浴びていた。ロジカルにいえば、いまの問題で安倍政権を批判するひとたちは、この韓国検察の動きを、おおいにたたえなければならない。しかし、そうはなってない。むしろ、文大統領をたたえる人たちが、安倍政権を批判しているのだ。 わたしは冒頭に掲げた原則論は原則論とするが、やはりその先にあるもの、はっきりいえば、誰がどういう政治的意図でこの問題に対しているかについて、今後も注目していきたい。 ※1 ただし、反対派のなかには、牽強付会的な議論や無理な議論を繰り広げる者もいる。ここでいちいち説明しないが、ネットをみれば、簡単に反対派のそうした議論への反論を見ることができる。たとえば、ツイッター〇〇万件など、からくりを知ってみれば、言ってるヒトビトが馬鹿にしか見えなくなる。また、芸能事務所にどういう勢力が影響をもっているかも想像できる。 ※2 たぶんCHANGEさんの感覚に近い。 ※3 「検察に対する民主的コントロール問題」は、今回のできごとの本筋ではないという議論はありうる。しかし、本筋ではなくても本質である。
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孫崎享チャンネル
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前に表明したとおり、わたしは、
1、基本的に省庁の幹部クラスは政権の意向に沿った人事をすべきで、政権にその権限を認めるべきだ。
2、しかし、検察は準司法であり、1をそのまま適用することはできない。
との原則的な考えをもっており、結果的に、黒川氏の定年延長についての閣議決定には反対している(※1)。
とくに意見書の2のロジックはその通りだと思っている。
なお、検察庁法改正案問題は、黒川氏の定年延長問題とは別であるが、意見書の4にいう黒川検事長の定年延長を決定した決議の後追い容認というのは、ありうるのかもなあとおもう。
そのうえで、今回の出来事について考えてみると、結局のところこれは、「検察に対する民主的コントロール」をどのように設計するかという問題なのであろうとおもわれる。
今回の「元検察官有志意見書」は、わたしは醜悪な文書として読んだ(※2)。どのような組織であっても、たとえば零細企業のなかの数人の組織であっても、いったんできあがってそれなりの伝統をもてば、外からあれこれ言われるのを嫌い、自律性や自治性をもとうとする。まして検察にあっては、自律性や自治性をもとうとする意識はすさまじいものであろう。
しかし検察は(どこの国でもそうだがとくに日本では)非常に強力で権力をもった組織であり、ある点では、裁判所以上の司法的権力をもつ。こういう組織を「自律・自治」に任していていいのか。今回の「元検察官有志意見書」には、ルイ14世だのロックだのまで引用して権力へのコントロールを説いているくせに、この点についての言及、つまり「では当の検察権力に対してはどのように民主的コントロールを及ぼすか」についての言及がただのひとこともないのだ(※3)。だから醜悪なのである。「自律・自治」のなかには、OBも「検察の一員」として含まれているだろう。わたしには、「われわれの権益を侵すな。このままにしろ」という文章に見える。
検察OBであるなら、ほぼすべては、弁護士であり、大半は、検察OBとしてそれなりの企業の顧問だったり役職についているだろう。あるいは最近までついていただろう。もしそういう肩書も付せば、文書の印象はかなりかわるはずだ。あるいは、財務省OBが、財務省人事に対してこういう意見書を出した場合を想像して、どうおもうかを考えてみればよい。
しかし、検察に対する民主的コントロール問題は、適切に答えるのが難しい。
韓国では、文大統領派の不正を捜査する検事総長が注目を浴びていた。ロジカルにいえば、いまの問題で安倍政権を批判するひとたちは、この韓国検察の動きを、おおいにたたえなければならない。しかし、そうはなってない。むしろ、文大統領をたたえる人たちが、安倍政権を批判しているのだ。
わたしは冒頭に掲げた原則論は原則論とするが、やはりその先にあるもの、はっきりいえば、誰がどういう政治的意図でこの問題に対しているかについて、今後も注目していきたい。
※1 ただし、反対派のなかには、牽強付会的な議論や無理な議論を繰り広げる者もいる。ここでいちいち説明しないが、ネットをみれば、簡単に反対派のそうした議論への反論を見ることができる。たとえば、ツイッター〇〇万件など、からくりを知ってみれば、言ってるヒトビトが馬鹿にしか見えなくなる。また、芸能事務所にどういう勢力が影響をもっているかも想像できる。
※2 たぶんCHANGEさんの感覚に近い。
※3 「検察に対する民主的コントロール問題」は、今回のできごとの本筋ではないという議論はありうる。しかし、本筋ではなくても本質である。