沖タイの文章でも少し書いてあるが、日本国憲法第七条は、「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ」として、その第六項に「大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること」とある。つまり、いわゆる恩赦は、憲法の明文に根拠があり、違憲ということはできない。憲法の明文を違憲というのはおかしいだろう。 三権分立が持ち出されるなら、「三権分立の、憲法上明文で認められた例外である」で終わる議論である(そもそも行刑は行政権に属するので、三権分立の問題ではないという立場もありうる)。 第七条のほかの項目と比べてみると、たとえば「国会を招集すること」(第二項)について、日本共産党は君主制反対の立場から国会の開会式に欠席していたが(ただし2016年から出席に方針変更)、第二項そのものを違憲としていたのではない。 「衆議院を解散すること」(第三項)については、やや面倒で、いわゆる七条解散を認めるかどうかについて異議はあるが(実務ではみとめることが定着)、それは69条による解散があったり、議院内閣制の本質からの議論から内閣の解散権に制約がありうる以上、内閣に実質的な解散権を認める必要があるか、認めるとして無制約かどうかについての議論なのであって第三項そのものを違憲としているのではない。 こうしてみてくると、第六項で「大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権」という制度が憲法上認められていて、違憲ではないことは明らかである。なんらかの憲法原理からそういう制度はやめようという議論はあっていいが、それは改憲論なのであって、現行憲法の解釈論ではない。沖タイが主張を貫くには、改憲に言及する必要があった。 ただし、「大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権」の内容について、憲法はなにも規定していない。この憲法条文にもとづいて、どのような法をつくるか(国会)、その法をどのように運用するか(内閣)、それぞれの責任であり、このレベルでの批判は、改憲論を持ち出すまでもなく、おおいにあっていい。
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孫崎享チャンネル
(ID:13458971)
沖タイの文章でも少し書いてあるが、日本国憲法第七条は、「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ」として、その第六項に「大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること」とある。つまり、いわゆる恩赦は、憲法の明文に根拠があり、違憲ということはできない。憲法の明文を違憲というのはおかしいだろう。
三権分立が持ち出されるなら、「三権分立の、憲法上明文で認められた例外である」で終わる議論である(そもそも行刑は行政権に属するので、三権分立の問題ではないという立場もありうる)。
第七条のほかの項目と比べてみると、たとえば「国会を招集すること」(第二項)について、日本共産党は君主制反対の立場から国会の開会式に欠席していたが(ただし2016年から出席に方針変更)、第二項そのものを違憲としていたのではない。
「衆議院を解散すること」(第三項)については、やや面倒で、いわゆる七条解散を認めるかどうかについて異議はあるが(実務ではみとめることが定着)、それは69条による解散があったり、議院内閣制の本質からの議論から内閣の解散権に制約がありうる以上、内閣に実質的な解散権を認める必要があるか、認めるとして無制約かどうかについての議論なのであって第三項そのものを違憲としているのではない。
こうしてみてくると、第六項で「大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権」という制度が憲法上認められていて、違憲ではないことは明らかである。なんらかの憲法原理からそういう制度はやめようという議論はあっていいが、それは改憲論なのであって、現行憲法の解釈論ではない。沖タイが主張を貫くには、改憲に言及する必要があった。
ただし、「大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権」の内容について、憲法はなにも規定していない。この憲法条文にもとづいて、どのような法をつくるか(国会)、その法をどのように運用するか(内閣)、それぞれの責任であり、このレベルでの批判は、改憲論を持ち出すまでもなく、おおいにあっていい。