塙次郎が暗殺された1863年ころは攘夷思想が日本でクライマックスに達していました。しかしやはりその頃に、薩英戦争、下関戦争がおき、攘夷の実効性にはおおきく疑問符がつき、攘夷のエネルギーは倒幕から維新を経て富国強兵に向かいます。 そのときに理論的支柱になったのが、いわゆる大攘夷論、すなわち、国内分裂を回避し、 富国強兵をはかり、列強と対等に対峙する力をつけることを優先するという考え方ですね。 伊藤自身も1863年から英国に渡航し、かの文明をみて、開国論に転向し、やがて近代化と富国強兵の一翼を担うようになります。それでも、日本が関税自主権を回復したのは、なんと1911年でした。 いまふりかえると、攘夷をつらぬかなくて本当に良かったと思います。薩英戦争、下関戦争のような戦争が全国各地に広がれば、その結果日本は簡単に英米仏等の植民地になってしまい、そこから回復するのに塗炭の苦しみがあったことでしょう。ひょっとしたらアジアに今現在でもまだ欧米の古いスタイルの植民地が残っていたかもしれません。(中国の植民地はまだ残っていますが)。 将来攘夷の結果を得るために、いま攘夷をしない、というこの考え方は、いまの日本にもおおいに参考になるとわたしはおもいます。米国のもたらした平和のなかで、ゲンパツのデンキを日本史上最大にくらいまくりながら生きてきて、いま、口先だけの反米反原発をほざいている爺さんたちには、それがわからないのでしょう。 なお、伊藤が韓国併合をすすめていたと勘違いしている馬鹿がときどきいますが、はなしは逆で、伊藤は、朝鮮のような貧乏国をできるだけ併合したくないと考えていたのです。 ところで、伊藤と同じ頃を生きて、思想としての攘夷をつらぬいた朝鮮の政治家・思想家に崔益鉉という人がいます。この人は、朝鮮が無力に右往左往し、時には浅はかな政治工作にかまけていたがゆえに、かえって個人としては思想の純粋さを貫けたという、まことに朝鮮の思想家らしい人です。その生き方を知れば、一種の感動を感じはしますが、日本がそういう人を生み出す国でなくて本当に良かったと思います。
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孫崎享チャンネル
(ID:13458971)
塙次郎が暗殺された1863年ころは攘夷思想が日本でクライマックスに達していました。しかしやはりその頃に、薩英戦争、下関戦争がおき、攘夷の実効性にはおおきく疑問符がつき、攘夷のエネルギーは倒幕から維新を経て富国強兵に向かいます。
そのときに理論的支柱になったのが、いわゆる大攘夷論、すなわち、国内分裂を回避し、
富国強兵をはかり、列強と対等に対峙する力をつけることを優先するという考え方ですね。
伊藤自身も1863年から英国に渡航し、かの文明をみて、開国論に転向し、やがて近代化と富国強兵の一翼を担うようになります。それでも、日本が関税自主権を回復したのは、なんと1911年でした。
いまふりかえると、攘夷をつらぬかなくて本当に良かったと思います。薩英戦争、下関戦争のような戦争が全国各地に広がれば、その結果日本は簡単に英米仏等の植民地になってしまい、そこから回復するのに塗炭の苦しみがあったことでしょう。ひょっとしたらアジアに今現在でもまだ欧米の古いスタイルの植民地が残っていたかもしれません。(中国の植民地はまだ残っていますが)。
将来攘夷の結果を得るために、いま攘夷をしない、というこの考え方は、いまの日本にもおおいに参考になるとわたしはおもいます。米国のもたらした平和のなかで、ゲンパツのデンキを日本史上最大にくらいまくりながら生きてきて、いま、口先だけの反米反原発をほざいている爺さんたちには、それがわからないのでしょう。
なお、伊藤が韓国併合をすすめていたと勘違いしている馬鹿がときどきいますが、はなしは逆で、伊藤は、朝鮮のような貧乏国をできるだけ併合したくないと考えていたのです。
ところで、伊藤と同じ頃を生きて、思想としての攘夷をつらぬいた朝鮮の政治家・思想家に崔益鉉という人がいます。この人は、朝鮮が無力に右往左往し、時には浅はかな政治工作にかまけていたがゆえに、かえって個人としては思想の純粋さを貫けたという、まことに朝鮮の思想家らしい人です。その生き方を知れば、一種の感動を感じはしますが、日本がそういう人を生み出す国でなくて本当に良かったと思います。