パールバック著「私の日本人観」を読めばわかりやすいのであろうが、この内容では理解できないので、略歴を調べてみた。 *1892年生まれで、「生まれと祖先」は米国人、「同情と感覚」においては中国人と語っている。 *1927年 南京事件に遭遇し、日本の雲仙に身を寄せた。 *1934年 中国を離れ、二度と中国に戻らなかった。 *1960年 「津波」撮影のため5月に来日し、12月末まで滞在した。 1960年は、安保の時であり、私も鮮明に様々なことを記憶している時代である。少なくとも1960年に受けた感覚ではないでしょう。この時代感覚は、親中派の彼女が、全半生の中国時代に植え付けられた日本に対する中国人の「同情と感覚」から生まれ出たものと理解すべきでしょうか。 パールバックは、中国で前半生を過ごし、中国に米国的なものを見出していたとみられる。彼女は、「引きこもり的性格」があり、見方考え方の内面は日本的なものに「美を見出し愛していた」と感じられる。「侵攻」という言葉が本当に発せられたのであれば、中国に対する「同情的感覚」から発せられたものに違いないと思う。
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孫崎享チャンネル
(ID:18367902)
パールバック著「私の日本人観」を読めばわかりやすいのであろうが、この内容では理解できないので、略歴を調べてみた。
*1892年生まれで、「生まれと祖先」は米国人、「同情と感覚」においては中国人と語っている。
*1927年 南京事件に遭遇し、日本の雲仙に身を寄せた。
*1934年 中国を離れ、二度と中国に戻らなかった。
*1960年 「津波」撮影のため5月に来日し、12月末まで滞在した。
1960年は、安保の時であり、私も鮮明に様々なことを記憶している時代である。少なくとも1960年に受けた感覚ではないでしょう。この時代感覚は、親中派の彼女が、全半生の中国時代に植え付けられた日本に対する中国人の「同情と感覚」から生まれ出たものと理解すべきでしょうか。
パールバックは、中国で前半生を過ごし、中国に米国的なものを見出していたとみられる。彼女は、「引きこもり的性格」があり、見方考え方の内面は日本的なものに「美を見出し愛していた」と感じられる。「侵攻」という言葉が本当に発せられたのであれば、中国に対する「同情的感覚」から発せられたものに違いないと思う。