男女問わず好きになる人は誰もが心の中に海を持っているような気がする。海に行く頻度が高いとか高くないとか、海の側に住んでいるとかいないとかじゃない。心の中に大切な海があって、いつも穏やかにたゆたっている。それがこの殺伐した時代においてその人に「人間としての清冽さ」や「大らかな優しさ」を保たせているのではないだろうかと。
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コメント
(著者)
>>2
自分は自分なんだからみんなと違ってていい。無理してまで合わせる必要はない。たとえ周囲に嫌な思いをさせても関係ない。そう開き直ることで生きるのがラクになりました。14歳の頃の話ですけど、親はそんな僕のことを理解できずに大変だったんだろうなと思います。
不感症な大人に私はなってしまっているかもしれません。理不尽や矛盾を受け入れてしまっている私がいます。
社会人になり、嫌な大人の代表に自分はなっているように思います。
汚れを落として、心に大きな海を持ちたいなと思います。
(著者)
>>5
でも、そういう本当の意味で「大人」の方たちが社会を支えてくれているんだと政治や行政を見ていると思います。僕はそういう意味では「子供」なので反発することも多いですが。
(ID:12621227)
ものすごく、共感してしまうのは
やはり私が「オトナ」じゃないからなんでしょうか(^^;;
「やりすごす」ことが、苦手です。
しかたなくそうするしかない場面に遭遇したら、
諦めてやりすごすこともだいぶ慣れましたが、
というか、
そうしていかないと、ダメなんだということを
頭では理解するようになりましたが、
自分の中でのたいせつなものや、
譲れないものに関しては、
たとえその場の空気が悪くなろうとも、
まちがってると感じたことをそのままにすることは
どうしてもできなかったりします。
“誰かの為に”
というよりかは、
自分の中の自分のためにある正義?
信念?
みたいなもののためになのでしょうか。
私も子供の頃思った
「こんなオトナになりたくない」
という心の声に
いつも試されながら生きている気がします。