モンスターは、実在の人物を元にして作られる場合が多々あります。有名なのは、エドワード・ゲイン。彼の起こした事件は異常性が高く、多くのクリエーターの想像力を刺激しました。その結果、『テキサス・チェーンソー』のレザーフェイスや『羊たちの沈黙』のバッファロー・ビル、『サイコ』のノーマン・ベイツといったモンスターが生まれたのです。
また、『ハロウィン』のマイケル・マイヤーズは、ジョン・カーペンターが大学の精神科の施設を訪れた際に、10代の患者のひとりに見つめられて不安な気持ちにさせられたことから、想像が膨らんで生み出されたものですし、『エルム街の悪夢』のフレディ・クルーガーは、監督/脚本のウェス・クレイヴンが幼い頃に見た醜いホームレスの思い出が元になっています。
その他、俳優からインスピレーションを得て、キャラクターを練り上げたり、エリザベート・バートリーやインホテップと言った歴史上の人物を脚色してモンスターにしてしまうことも珍しいことではありません。
今回は、このようなモンスターのモデルになったとされる人物をio9がまとめていたので、ご紹介します。それでは、以下から詳細をどうぞ。
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■『チャイルド・プレイ』のチャッキーのモデルとなったロバート人形
実話が元になったホラー映画として名前が上がる作品のひとつに、『チャイルド・プレイ』があります。あの作品は、ロバート・ユージーン・オット君と、彼が大事にしていた人形がモデルになっているのです。
ある日ロバート君は、オット家に恨みを持つハイチ出身の使用人から手作りの人形をもらいました。ロバート君は喜び、この人形に自分と同じ「ロバート」という名前を付け、大切にしました。実はその「ロバート」には呪いがかけられていたのです。
「ロバート」人形がオット家に来てから、ロバート君が「ロバート」人形と会話しているのを聞いたり、家族の誰かが「ロバート」人形の悪口を言うと、表情が変化する等といった怪奇現象が起こるようになりました。
「ロバート」人形の呪いは、持ち主だったロバート君が1972年にこの世を去ってからも続いたそうです。オット家が住んでいたフロリダ州キーウェストの家を購入した家主には10歳になる娘がいました。ある日、少女は「ロバート」人形を屋根裏で見つけ、彼女はその人形を自室に飾り大切にしていましたが、ひとりでに動き回ったり襲いかかるようにもなったと泣いて訴えたというのです。
現在、呪われた「ロバート」人形はイースト・マーテロー博物館に置かれています。呪いは今でも続いているらしく、観光客が「ロバート」人形の写真を撮ると、オーブや影、煙といった現象が映り込むそうです。
また、「ロバート」人形の他にチャッキーの直接的なインスピレーションとなったのは、80年代に一世を風靡した「キャベツ畑人形」。脚本を担当したドン・マンシーニは、『チャイルド・プレイ』の執筆当時を振り返り、「殺人人形は使い古された物語だった」と話しています。しかし、キャベツ畑人形の流行と、やっとの思いで手にした人形が持ち主を攻撃するというストーリーが、観客にとって身近な恐怖となり、ヒットに繋がったのです。
■ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』のモデルとなったヘンリー・アーヴィング卿
ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』は、ルーマニア出身のワラキア公ヴラド3世がモデルと言われていますが、実際のところは俳優のヘンリー・アーヴィング卿の影響が強いようです。
当時、アーヴィング卿演じる『ハムレット』の劇評を書いていたストーカーは、アーヴィング卿が滞在しているホテルの部屋に招かれました。そこでストーカーはアーヴィング卿の個性に惹かれ、ストーカーはライシーアム劇場のマネージャーとして働くことになりました。
バーバラ・ベルフォード著『Bram Stoker: A Biography of the Author of Dracula』では、アーヴィング卿のワガママで傲慢な性格が、ドラキュラのモデルになったと書かれています。
そんな彼の元で働いていたストーカーは、長時間労働で妻との時間を持つこともままならず、昼夜問わず呼び出されてはワガママに振り回された為に精神薄弱となっていったそうです。『ドラキュラ』を書き終えたストーカーは、その原稿をアーヴィング卿に目を通してもらいましたが「つまらない」と吐き捨て、ドラキュラ役を演じることを拒否したそうです。
その理由として、ストーカーは、『ドラキュラ』をアーヴィング卿に対する当てつけで書いたと感じたからではないかと言われています。
■『ロード・オブ・ザ・リング』のサウロンのモデルとなったジル・ド・レ
ジル・ド・レ(本名:ジル・ド・モンモランシ=ラヴァル)は、1404年にフランス王国のブルターニュ地方出身のフランス元帥です。彼は、百年戦争でジャンヌ・ダルクの部下として忠誠を誓い、数々の戦闘を共にしました。特に、フランスのオルレアンがイングランド軍に包囲された際には、ジル・ド・レは指揮官とし威力を発揮。
ジャンヌを始めとする1万人の軍を率いて攻め入り、イングランド軍を撤退させオルレアンの街を解放するという活躍を見せました。彼は百年戦争の英雄だったのです。しかし、ジャンヌ・ダルクが敗北し、火あぶりの刑に処されて以降、ジル・ド・レの人生は転落の一途をたどります。彼は巨万の富を浪費し、錬金術に溺れ、美少年を大量に虐殺する大量殺人鬼と変貌していきました。
1440年に彼は、数百人に上るであろうとされる少年の殺害の罪で逮捕され、裁判にかけられました。しかし、言い逃れ出来ない数の証拠があるにも関わらず、ジルは一切の罪を認めようとしませんでした。そこで、裁判官は、ジルを拷問にかけ、口を割らせることにしたのです。
拷問に恐れをなしたジル・ド・レは、すぐさま自らが犯した残忍きわまりない行いの数々を告白し始めました。そして、1440年10月26日、数百人の美少年を己の快楽と欲望のままに殺したジル・ド・レは絞首刑に処されたのです。
このジル・ド・レを元に、サミュエル・ラザフォード・クロケットが『ブラック・ダグラス(The Black Douglas)』のオオカミを操り魔女に魂を売り渡した悪魔主義者で、殺した子供達を自身が所有する納骨堂で保管するという悪役のジル・ド・レというキャラクターを作り上げました。
そして、この本を幼少期に読んだJ・R・R・トールキンは、空想上のモンスターとなったジル・ド・レに影響を受けて、『ロード・オブ・ザ・リング』のサウロンを作ったと言われています。
なお、趣旨とずれるので、ここではジル・ド・レが少年達を虐殺した方法は紹介しませんでしたが、興味がある方は調べてみることをお勧めします。ただ、内容は残酷を極める為、注意が必要です。
■『ジキル博士とハイド氏』のモデルとなったウィリアム・ブロディー
ロバート・ルイス・スティーヴンソン著の『ジキル博士とハイド氏』は、薬を飲むことで別の人格になる男の奇妙な人生を描いた作品です。このモデルとなったのは、ウィリアム・ブロディーという、市議会議員で優秀な家具職人という社会的地位がありながら、ギャンブルの資金や愛人、非嫡出子の養育費を稼ぐ目的で泥棒に手を染めていた男。
ブロディーは、戸棚を作る注文を受けると、その戸棚のメカニズムを記憶した上に鍵を複製しておくという方法で、18年に渡って盗みを働いていました。しかし、1788年、彼はスコットランド間接税務局本部襲撃を失敗して捕まり、処刑されたのです。
スティーブンソンの父親は、ブロディーの作った家具を所有していました。だからこそ、スティーブンソンが受けた衝撃は大きかったのでしょう。彼は、この事件を元に、ウィリアム・ヘンリーと共に、戯曲『組合長ブロディー、もしくは二重生活』を執筆。そして、1886年には、代表作と言われる『ジキル博士とハイド氏』が出版されました。
■『ドリアン・グレイ』のインスピレーションとなったジョン・グレイ
このリストの中では、比較的マイナーなモンスターであるオスカー・ワイルド作『ドリアン・グレイの肖像』のドリアン・グレイ。伝記作家のリチャード・エルマンは、主人公の美少年ドリアンは、イギリスの詩人で、オスカーの友人でもあるジョン・ヘンリー・グレイだと伝えています。
ジョン・グレイは、多くの裕福なファンに愛された美青年でした。そんなグレイとワイルドが出会ったのは、ワイルドがLippincottと月刊短編小説(これが後の『ドリアン・グレイの肖像』)の契約を結ぶ少し前の1889年のこと。ワイルドの関係者の目には、ドリアンがジョンからヒントを得ているのは明らかだったようです。
ワイルドは、親しい人たちとの会話の中で、ジョンのことをドリアンと呼び、また、ジョンもワイルドに宛てた手紙にドリアンの名前でサインしたことがあるほど、その関係性は明白でした。
しかし1892年、Star紙が「ドリアン・グレイは若い詩人を基に創作された」と主張する記事を掲載すると、ジョン・グレイはドリアンというキャラクターと距離を置くようになりました。その拒絶たるや、ジョンがStar紙を相手取って、名誉毀損で訴訟を起こすと脅すほど。
また、『ドリアン・グレイの肖像』を執筆したワイルドも、「グレイはごく最近知り合った人物であり、ナルシストなキャラクターのインスピレーションにはなり得ない」と書いた手紙をデイリー・テレグラフ紙に送りまいした。結果的に、この騒動は、ワイルドとジョン・グレイの友情を壊すことに繋がったようです。
■ゴジラのモデルとなった東宝に在籍していた恰幅の良い裏方
ゴジラのモデルとなったのは、東宝に在籍していた「ゴジラ」と言うあだ名の男性だと言われています。この男性は、ゴリラやクジラのように大柄で、その体格を表現する為に、ゴリラとクジラを足した「ゴジラ」というあだ名が生まれたのだそうです。
この男性は、監督の本多猪四郎氏が死去する少し前に、裏方から広報に移ったそうですが、本多氏は「当時、本当に大きかった。いや、巨大だった。従業員は、その男性がゴリラと同じくらい大きいと言うものもいれば、クジラと同じくらいだと言う者もいた。結局、そのふたつを混ぜて「ゴジラ」というニックネームを付けたんだ」と繰り返し話していました。
しかし、このゴジラと呼ばれた男性は、実在しなかったかもしれないのです。1998年に放送されたBBCのドキュメンタリーで、本多猪四郎氏の妻である本多きみさんが、繰り返し伝えられているゴジラの由来に疑問を持っていると語っています。
「(ゴジラの)名前は、(プロデューサーの)田中さんと円谷さんと夫の間で入念に考えられて生まれたと思います。色んなアイディアを出し合った上でのことだったと把握しています。」
では、田中プロデューサーと本田監督の話とは何なのでしょうか? 「東宝の人たちは、作り話やジョークが大好きなんです」と本多きみさん。実際に、所属部署まで言われているにも関わらず、具体的に誰とは明かされていません。しかし、話し合いの結果生まれた名前よりも、ゴリラより大きな男性が居たという方が夢があるとは思いませんか?
[via io9]
(中川真知子)
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