礼讃

礼讃・第80回「バイブと巨根」

2015/02/28 13:00 投稿

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1974年に北海道で生まれ、十八歳で上京し、二十歳までの出来事を、2012年の七月から一年がかりで綴ってきた。出版社が自由に書かせてくれたので、メインになるはずの大人になってからの恋愛話を端折ることになってしまった。ペース配分を考えなかった私のミスである。後半生の主な出来事を記しておこうと思う。

 

九十五年は一月の阪神・淡路大震災で始まった。

一ヶ月近く、メディアは震災のニュース報道一色となった。九十三年に改装工事を終えたばかりの阪神競馬場も損壊した。

二月に大黒摩季が「恋愛中ってもっと楽しいと思ってた、好きになるのは簡単なのに輝き持続するのは……ららら~」と、歌っていた。

旅打ちに出掛けると、健ちゃんに、

「ららら~今日と明日はあなたに逢えない」

と、電話で歌い、ホテルの湯船に浸かりながら

「ららら~やっぱり今日も明日もあなたに逢いたい」

と、健ちゃんのことを考えながら歌っていた。

まだ純粋に健ちゃんを将来の旦那様と心のどこかで思っていたから、

「ずっとずっとずっと……一緒にいようね」と、本心から思っていた。

ただ、何しろ私は二十歳だから、

「あっという間にもうこんな年齢だし、親も年だし、あなたしかいないし」と歌う大黒とは違った。

世の中には多くの魅力的な男性がいて、まだ自分の知らない楽しい世界もたくさんあると気付いたばかりだった。

板尾さんの世界の人を怖いと感じなかったのは、美空ひばりの話を聞いたことがあったからだ。美空ひばりの母は、所属するプロダクションの副社長だった山口組の三代目組長を介して小林旭との結婚をお膳立てし、離婚会見にも組長が同席したという。

1960年代の話とはいえ、男性に因果を含ませる為に、綺麗に別れさせる為に、日本一のヤクザを使うとは女としての度量が違う人だなと思ったことがある。

いざという時に、こういう人脈があると便利だなと思っていたところ、板尾さんとの縁があった。

四月の上旬、奈良と京都に四日間滞在した。一日にはまだ蕾で、四日にソメイヨシノが咲き始めたと聞き、六日に東京駅から新幹線に乗った。

ひらすら桜と寺を巡る旅だった。桜尽くしで一生分の桜を見た。

奈良に住む小沢さんの友人との三人旅だった。レンジローバーを運転する舟木さんの車で、寺から寺へ移動した。

舟木さんは、ロンジンの腕時計をしている人だった。Aランゲ&ゾーネのユニークな時計を愛用している小沢さんとは、三十年来の付き合いがあるという。舟木さんは、自動車会社グループの金融統括会社の常務役員をしていた。

私はこの旅行で初めて日本酒を飲んだ。

「正確に言うと八歳の時に八海山をお猪口で飲んだことがあるんですけど、それ以来日本酒を口にしたことないですね」

「どうして八歳のときに?」

舟木さんは、不思議そうな顔で言った。

「初潮のお祝いに祖父が飲ませてくれたんです」

「八歳で初潮とは早いな」

「それは初耳だ」

小沢さんも目を丸くした。

「やはり酒米は山田錦が旨いね」

 と言い、小沢さんは、日本酒の醸造の方法、生酛や山卸し廃止の手法についても説明してくれたが、ちんぷんかんだった。

俵屋で、山田錦を三十三%まで削り醸造したという沢の鶴の春秀を飲んだ。

「米の削り具合や酵母が出す香りを競っても、米の種類や栽培方法にこだわる蔵元は少ない。粒が大きくて削りやすく味がいい山田錦が最高という評価に揺らぎがないのは、米は田んぼで作るからだろうな。米は葡萄ほど差が出ないから、フランスのワイナリーのように原料生産から一貫して手掛ける蔵元は少ないのかもしれない。葡萄は産地によって色も味も香りも全然違うものができるだろう。産地の緯度の差は、日照時間や気温の差になるし、降雨量やどんな風が吹くか、気候風土によって糖度や酸の量が変わるし、太陽の当たり具合によって葡萄の皮に色がついたりつかなかったりする。ブルゴーニュがいい例で、狭い地域で、造り手も品種も同じなのに、ぜんぜん風味の違うワインが出来るだろう。場所によって違う畑の向きや地層の構造、傾斜と標高が影響しているんだよ」

「傾斜まで関係するんですか」

「傾斜によって日照量と水はけが違うだろう」

「田んぼのように平らな畑で作れば良いじゃないですか」

「寒い地方はわざと傾斜で作るんだよ。北半球の緯度の高いところは太陽の光が垂直には当たらないから傾斜が必要になる。平地と比べると葡萄の成熟度合いは違ってくるし、葡萄の出来によって、値段が十倍違うこともあるだろう。ワインを本当に理解するには畑を見ないといけないだろうし、ワインは葡萄の出来次第というところがあるけど、日本酒は同じ銘柄で畑や年によって味や値段が何倍も違うなんてことはないからね。田んぼが違えば日本酒の味も違う、とは聞かない。越淡麗とか五百万石とか、酒米も色々あるけど山田錦よりネームバリューがある酒米はないだろうな」

小沢さんがそう言うと、舟木さんがグラスに新しい日本酒を注いだ。

「これは菊理媛の十年もの」

「日本酒にもヴィンテージがあるんですか」

「日本酒は、前の年度以前にできた酒は古酒になるんだ。味わいがなめらかになって、熟成した香りが楽しめる」

私は古酒より加熱殺菌していない生酒のフレッシュな香味の方が好みだった。

小沢さんが、

「俺はやはり、自前の田んぼで育てた米で酒造りをしてる蔵元を応援したいね。旨口の濃醇な地酒の味を知らずに、水みたいにサラサラ軽い清酒が日本酒だと思っている人が多いだろう。甘口と旨口の区別もつかんような」と言った。

「私もその区別わかりませんね」

「まずは、色んな種類の日本酒を飲んでみることだな。純米酒しか造っていない蔵元でも四合瓶で三千円超える酒はまずないから、ワインに比べたらずっと安いだろう。洋酒は一本数十万のものも珍しくないけど、日本酒は有名蔵元の最上位商品でも一升一万円前後で買えるからね」

「私は生酒の冷酒が好きです」

と言って私は、アルコール度数十九度の生酒をぐびぐび飲んだ。

「花菜ちゃんは上戸だな」舟木さんが言うと

「本当に強いな」と小沢さんも肯いた。

嵐山の吉兆で伏見と灘の酒が出た。三ヶ月前の阪神・淡路大震災で、灘の酒蔵も被害を受けたという話を訊いた。

俵屋では軽く一升飲んだと思うが、二日酔いという症状は全く出なかった。私は今までの人生で一度も二日酔いというものを経験したことがない。

「私ね、日本酒というと藤沢周平の『蝉しぐれ』を思い出すんです。あの本は私が初めて面白いと思った時代小説なんです。十五、六歳の若者の恋や友情の物語ですけど、大人になってから再会してね、お福が『この世に悔いを持たぬ人などいないでしょうから。はかない世の中……』って言って俯くと、盃のお酒を吸って身体をすべらせて、彼の腕に身を投げかけて、二人は抱き合って唇を重ねるの。きゃーっ」

「花菜ちゃん酔ってるのかな」

「かなり興奮してるな」

「花菜ちゃんは藤沢周平読むのか」

「高校時代にウェーバー読んだって話してたぞ。面白い子だな」

二人のおじさんはごにょごにょ言っていた。

「ヴェルディの椿姫でもヴィオレッタが、いつも自由にお酒を飲んで、毎日楽しく過ごそうって歌っているじゃないの」と言って、私は杯を重ねた。

 

京都から戻った私は、織部さんとのデートの約束があった。彼とは赤坂のホテルのティールームで知り合った。私はその日、僧侶の大倉さんと昼に待ち合わせをしていたのだが、急な法事が入り会えなくなった。

大倉さんは私とのデートをドタキャンする唯一の人で、その理由がいつも、突然、檀家が亡くなり、お経をあげに行かなくてはならないというものだったから、私も了承した。

五十代とおぼしい織部さんは、私の隣のテーブルで人を待っているようだった。彼も待ち合わせ相手に約束をキャンセルされたらしかった。

彼は私の方を見て

「お嬢さんも待ち惚けですか」と、言った。

「ええ、相手の都合が悪くなって」

「それでしたら、私と食事をご一緒願えますか」

彼は、上物そうな濃紺のスーツに落ち着いた柄のネクタイをしめ、銀縁の細い眼鏡をかけていた。温厚そうな紳士然として、洗練された身ごなしが板についている人だった。

大倉さんの為に一日空けていた私は、織部さんと食事をした。赤坂のホテルのレストランで御馳走してくれるのかと思いきや、

「韓国料理は苦手かな」

「いえ。好きです」

「今日は、カムジャタンを食べることになってたんだ。付き合ってもらえるかな」

「ええ。喜んで」

私は、彼の運転するベントレーで、新大久保のコリアンタウンにある牛丼屋ではない松屋に連れて行かれた。昼間から骨付きの豚肉と、じゃが芋がごろごろ入った辛い鍋と大きなチヂミを食べながら、ボートの話をした。

「慶応の体育会に所属する部は、それぞれ早稲田との対抗戦を行っているんだ。早慶戦て聞いたことあるだろう?」

「野球ですか?」

「野球だけじゃないよ。四十も部があるんだから。その早慶戦で、一年の最初に行われるのが、今月の早慶レガッタだよ」

「ガレット? お菓子みたいな名前ですね」

「レガッタ。ボート競争だよ」

「へえ。大学の部活にボートがあるんですか。知りませんでした。私よく平和島に行くんです」

「……あのねえ、花菜ちゃん。モーターボートじゃないよ。困ったねえ。ボート競技を知らないのかい。漕艇部は有名大学には必ずあるよ」

こうして私は織部さんと早慶レガッタを見ることになったのだ。思えば私は、団体競技に全く興味がなかった。初めて見るボート競争に感動した。

ボート部のクルーの息の合わせ方に興奮した。一瞬で形勢逆転することはない。オールにかけた一本一本でじわありじわりと追い詰めていくスリルは、他のレースでは見たことのないものだった。

織部さんとセックスしたのは、出会ってから三ヶ月程経ってからだった。

「私は前立腺癌を患って、去年、全摘除手術を受けたんだ」

私は前立腺と聞いて、アナルプレイしか思い浮かばなかった。

「勃起神経は残せたけれど、精管を切断して前立腺と精嚢を摘出したから、射精が全くできないんだ」

「えっ、勃起しても射精ができない?」

「そう。手術をしてから、尿道を閉じておく尿道括約筋がダメージを受けて、術後は尿失禁が続いて辛かった。癌の進行度によっては、勃起神経も犠牲にしなければいけない人もいるらしいからね。それを温存できただけでもありがたいんだけど。性機能にこだわって放射線療法受けたら、後で手術はできないと聞いて、私は手術をしたんだけど、放射線や内分泌療法でも勃起障害は起こり得るし、実際勃起するかどうかは術後になってみないとわからないとも言われてね」

尿漏れと勃起障害は、おじいさんの悩みだと思っていた。ぱりっとした背広を着てベントレーに乗ってる渋い紳士に、そんなことが起きるとは想像するのも難しかった。

「できるけどしないのと、できないのでは、精神的に違う。まだ五十代で勃起できないのは辛いと思った。勃起神経を取ったらバイアグラも効かないからね。同じ病気でポンプ式の器具を使っている人もいるけど、自分がそれを使うことを考えると情けない」

彼は、いじけてしょんぼりしているのだが、その理由がよくわからない。

「織部さんは勃起神経を温存したんですよね」

「そうだよ」

「射精できないことに、寂しさのような感情があるんですか?」

「それもあるかな」

「他に何か?」

「射精はできない、尿漏れして、勃つかどうかもわからないんじゃ恥ずかしくて、いざしようとしてもできないんだ」

彼の男性性への思いに打たれ、私から誘った。

織部さんは、私の中に入ると目を潤ませた。

織部さんからお小遣いを貰った。封筒を受け取った時に、厚みを感じた。

 

私は愛人稼業を始めて間もなく、定額制をやめた。

あるゴルフコンペで諜報機関に勤める男性と話をした時に

「情報を流してもらう相手への謝礼を定額にすると、情報が必ず荒れてくるんだよ」

と、聞いたことがきっかけだった。

私は愛人稼業に置き換えて考えてみた。確かに一回十万と決められていると、十万円分のサービスしかしなくて良いんだな、サボっても頑張っても、十万円貰えるんだなという安心感がセックスの内容に波を立てる。しかし、良かったから、誕生日だから、年末だからと言って五十万円くれたりすると、対価性を感じない部分が、人としての信頼関係になる。だから私は、自分を鼓舞する為に、男性に快くお金を払ってもらう為に、意図的に男性との関係性の中で、お金が絡まない領域を作った。

一回にいくら、月にいくらと金額を決めた契約もやめた。金額については、自然と決まっていった。男性が自ら上げてくれた。

愛人として男性と過ごす時間の中で、お金が絡まない時を持つことは、お互いにとってメリットをもたらした。私の生き方に関わるようなアドバイスを与えてくれるのは、いつも男性だった。

織部さんはジャズが好きな人だった。ベントレーの中で流れる音楽は、古いジャズばかりだった。マイルス・デイビスの奏でる楽器がサックスかトランペットかもわからなかった私は、マイルスがジャズトランペッターだと教わり、

「チャーリーパーカーとジョンコルトレーンもトランペッターですか?」と、訊いた。

「二人ともサックスだよ」

「サキソホーンですか」

「そう。サキソホーン、サキソホーン」

と、なぜかからかわれた。

「最近だとケニー・ギャレットがいいね」

と言い、ジョン・スコフィールドのエレキギターとケニーギャレットのサックスを聞かせてくれた。195060年代のビル・エバンスやチックコリアのピアノも良かった。

織部さんが趣味で吹いていると言うトランペットを、早慶レガッタを見た川辺で聞かせてくれた。マイルス・デイビスの凄さがわかった。

彼がよく連れて行ってくれた夜中まで営業している太子堂の蕎麦屋にもジャズが流れていた。間接照明を配したジャズの流れる店で胡麻だれ蕎麦を食べるのはなかなか乙なものだった。

 

小沢さんの家に、ピアノの出張レッスンがてら遊びに行くと、美樹子さんがクリスタルガラスのような透明感のある寒天の中に練り切りで作った色鮮やかな花の入った冷たい和菓子を出してくれた。涼しげで夏のお茶請けにぴったりの生菓子だった。

私はピアノのレッスンに来る生徒に出すお菓子をいつも探していた。今年の夏はこれを出そうと思い、美樹子さんに菓子箱に入っていた説明書きをもらって帰った。「錦玉羹」と書かれていた。

私は、冷蔵庫で冷やした錦玉羹をクーラーボックスに入れ麻雀に持って行った。

「これ、小沢さんの奥さんに教えて貰ったきんたまかん、凄く美味しいから召し上がって。きんたまかんって、お花が透けて見えてとっても綺麗でしょう。夏らしいお菓子よねえ」

何人にもそう言って勧めてきた。

読み間違いを指摘してくれたのは産婦人科医の藤村さんだった。

藤村さんは大人のオモチャをリーガロイヤル早稲田に持って来た。真面目な顔でアダルトグッズの封を開け、

「電動バイブレーターの歴史は古くて、十九世紀末のイギリスで発明されたものなんだよ」

「ヴィクトリア朝時代ですね」

「第二次産業革命の頃に、ロンドンの産婦人科の老医師が女のヒステリーは、どうしたら治るのか考えていた。女が短気ですぐ泣いたり、卒倒したり、不眠や情緒不安定や不感症になるのは、子宮が原因のヒステリーと思われていたんだな」

「えーっ」

「当時は流行病と思われていたらしい。金持ちの貴婦人が通う産婦人科で、この年になっても夜になると雑念がもやもやして、と訴える婦人を仰向けに寝かせて、長いスカートを穿いた股を開かせ、目は合わせずに、オイルを付けた指で陰部に触れて激しくマッサージする」

「それ、治療ですか?」

「老医師が編み出した真面目なヒステリー治療法だよ」

「へえ」

「婦人はオーガズムに達して、ああスッキリしたわと帰って行く。そこの婦人科に勤める見習い青年医もこのマッサージ療法をすることになった。すると若い彼はご婦人たちの人気者になり、マッサージし過ぎで腱鞘炎で腕が動かなくなってしまう」

「奉仕精神のある人ですね」

女性を手でオーガズムに導くには、技術も時間も体力もいるものだから、器具の必要性が高まった。中世には、ヒステリーの治療として、既婚女性には夫との性交が勧められ、未婚でやむを得ない場合には、助産婦による性器のマッサージが推奨されていたという。

フランスでも十九世紀には、水力や電力によるバイブレーターが治療に用いられていたという歴史がある。

「その青年医が、友人が発明した電動ホコリ払い機を見て思いついたのが、電動バイブレーターだよ」

「本当ですか」

藤村さんは真剣な表情で肯いた。

「電動バイブレーターは、医療電気製品として初めて特許を獲得したものだよ」

「十九世紀のイギリス人って、最大多数の最大幸福を説いたジェレミー・ベンサムと、幸福の方程式のジョン・スチュアート・ミルが有名ですよね。彼らの功利主義や自由主義って、快楽とか幸福とか性的快感の度合いや質を論じているでしょう。ミルの奥さんは、女性の参政権を認める必要を説いて、イギリス初の国会議員になった人ですものね。大英帝国にはそういう人たちがいたから、女性のための性具を作ろうという発想が出来たんでしょうね」

「日本はその時代に電動性器具を作ろうなんて技術の革新はなかった。もっとも江戸時代には、水牛の角で作られた張形や瓦形と呼ばれるものがあったけれど、電動ではない。小間物屋の行商が扱っていた物も、明治、大正時代には風紀を乱すとの理由で取り締まりの対象になって、セルロイド製の電動バイブが売られるようになったのは昭和三十年代の半ば。それは、万年筆のような細長いものだった。ペニスの実寸大電動バイブは、昭和四十年代に発売された熊ん子が最初だろう。だから百年以上前に振動する性具を開発したというのは凄いことだよ」

「二人の医師がしていたことって要するに性感マッサージで、電動バイブレーターは欲求不満のヒステリー女性を効率良くさばくための機械ですよね。起源を知るとますます使いたくないわ」

「花菜ちゃんのように相手に恵まれている女性は多くないからね。不憫な女性に推奨できる商品を探すために協力しておくれ」

と頼まれ、私はウィンウィンブンブンジージーうるさいローターやバイブを試用しては、感想を伝えた。

女性の膣は挿入自体では感じないことを知った。

アメリカでは、二十世紀に入ってすぐに電気掃除機や電気アイロンよりも早く、家庭用電器製品としてバイブレーターの特許を取った会社がある。

二十世紀後半に入るとバイブレーターはヒステリーの治療具としてではなく、純粋に性具として人気を博すようになった。日本製でも、快感どころか痛みしか残さない粗悪な物も多い。ラブホテルの自販機で売っている使い捨てにすることを前提に作られたような物は、害しか与えない。

バイブ先進国のドイツ、スウェーデン、イギリス、カナダといった欧米の一本二万円近くする物の中には性能が高いものも確かにある。しかし、所詮おもちゃである。プレイとして楽しむ人には便利なグッズなのだろうが、バイブが蔓延している世の中は気味が悪い。ヒステリー女性が多いということなのだろうと、私は思っている。

道具への依存心や怠け心は、最後に裏目に出るのが物事の道理である。ひみつ道具を使って勝手なことを始めたら、結局、ろくなことにならないのは、のび太が教えてくれている。

ドラえもんとの別れで、安心して未来に帰ってもらおうと、のび太はジャイアンと戦い、ぼろぼろにされながらも自分の力だけで勝つ。あの達成感と感動は、道具を使っては得られないものだろう。

 

1995年四月十九日、東京外国為替市場で円は一ドル七十九円の高値を記録した。これは事件だと小沢さんは言っていた。

「学校がね~ 今までは第二だけだったのに、第4土曜日も休みになって一週間おきに土曜が休みになったんだよ~ っふう~」

美穂が電話口で大きく息を吐いた。

「今どこにいるの?」

「二階だよ。あっ、やばいっ。お母さん階段上ってきたから換気しなきゃ。じゃあまたね」

ピッとコードレス電話のボタンを押す音がして切れた。実家の改築のため、高校の近くにある二階建ての一軒家で仮住まいをしているという。

高校に入り、煙草を覚えた美穂は、二階の子供部屋で一服するのが習慣になっているようだった。足の不自由な母が、煙の匂いに勘付き、鼻をクンクン言わせながら階段を上ってくるという。

「お父さんの書斎の灰皿を掃除してた」というのが美穂の言い訳だ。紙巻きと刻みでは、全く匂いが違うので、通用するはずないのだが、すばしこい美穂は、母が二階に来たら一階に駆け下りて外に逃げている、と綾子から聞いていた。

四月の終わり、地下鉄サリン事件の統括指揮を担当していた村井秀夫がプスッと刺され、板尾さんたちは「巧い」と褒めていた。

青島幸男が東京都知事に、大阪では横山ノックが府知事に当選した。

地下鉄サリン事件後に、全国各地の駅でごみ箱が撤去され、不便した。スポーツ新聞さえ5月に麻原彰晃が逮捕されるまで、一面にずっとオウムやサリン関連の記事が載り、この事件は嫌でも目についた。

 

ある事がきっかけで私は突如転居した。

思い立った翌週には、祐天寺と同じ目黒区にある中町のワンルームマンションに引っ越したので、夜逃げかと心配された。荷造りもしてくれた引越し業者のお兄さんにお礼を言った。

「もしかしてだけど、ここで俺との同棲生活始まっちゃうんじゃないの」

とは歌ってくれなかったけれど、親切な人達だった。

「一日でも一時間でも早く引っ越したいんです」

と言い、引越し料金と同額のチップを渡したので、かなりの訳ありだと思われていたようだった。家賃10万円のアパートから9万円のマンションへの引っ越しだった。

引っ越したのはゴキブリという虫を見たからだ。二十歳になるまで見たことがなくて、怖くて逃げた。北海道にはあんな虫いない。その後、十七年見たことがなかったのに埼玉で再会して気絶しそうになった。

FEEL YOUNGで『ヘルタースケルター』の連載が始まった。美容整形は決してしないと改めて心に誓った。りりこが言う「あたしすっごくさみしぃさみしぃなぁ」という言葉が整形する女性の心の叫びなのだと思った。全ての渇きはそこからくるのだろう。

大正七年七月生の雅也君の祖母芳子さんが七十七歳になるというおめでたい日に、目黒雅叙園でお祝いの会が開かれた。私は伊東さんが贈ってくれた辻が花の着物を着た。

 雅也君に「とても似合ってる。可愛いね」と言われた。雅也君に可愛いと言われたのは初めてだった。

この月、PHSサービスの営業がスタートした。PHSは地下で通話が出来、音質が良く、通話料が安いと話題になっていた。

九月にオープンしたインターコンチネンタル東京ベイの御蔭で、旧芝離宮や浜離宮恩賜庭園を知った。都心は案外緑が多いなあと思いながら、男性と手を繋いで散歩した。

 十月から週刊プレイボーイでものすごく面白い連載が始まった。ポパイや週プレは今まで雅也君の友達の家で読む雑誌だったけれど、中場利一の連載が楽しみで発売日に自分で買うようになった。

 実録『岸和田少年愚連隊』だった。タイトルは『一生遊んで暮らしたい』。

 

私は2010年にやっと取調べから解放され、ゆっくり読書ができると嬉しくなり、まだ接見禁止だった私は弁護人を通じて家族に本の差入れを依頼した。

筆頭に中場利一の『一生遊んで暮らしたい』を記したリストを作り、家族に叱られた。結局、差入れられたのは、多分、いや間違いなく、母や弟妹は知らない作家の本だけだった。

中場利一の本は家族の検閲にパスできなかったが、イタロ・カルヴィーノの『見えない都市』やトマス・ピンチョンの『メイスン&ディクスン』といった本は送られてきた。私は特にピンチョンが好きというわけではない。勾留という状況では、多少難解な本でなくては時間を持て余してしまうという理由が主である。

本当は、中場利一の『カオルVSイサミ 岸和田頂上作戦』を読んで笑っていたいのだ。

この連載は、小説ではなくエッセーというところが凄い。暴力団事務所がコンビニの数より多そうな大阪の西成地区で知り合ったような人たちばかり登場する。

著者の中場という人も、新幹線で行楽帰りの乗客が持ち込んだ、さらし首のようにぶかぶか浮いているミッキーマウスの風船をひとつずつ丁寧に割りながら、席へと歩き、彼の指定席で、靴を履いたまま涎を垂らしてジャンプしていた子供に、買ったばかりのスチール缶入り静岡茶を思い切りぶつけ、動きを止めさせるという男気のある方だ。

私は連載初回の『28センチとトウモロコシ』というエッセイが印象に残っている。

彼の知り合いに「チンポのタケシ」と呼ばれる人がいて、戦闘前の状態で二十八cmというペニスを持っている。自分のペニスの横にハイライトを置いた写真を肌身離さず持っている。

「どや! どや! どやねん。何か言うてみィ」と言うのが口癖らしい。自分のペニスを人に見せては、相手が驚くのを見るのが大好きという人なのだ。こういう人はたまにいる。

そのタケシ君が中場とフェリーに乗った。フェリーの風呂場で、20個以上の真珠を入れたとうもろこしみたいなペニスを持ったおじさんと出会う。

「そんなもん、数多く入れたらええと違うぞ、オッサン!!」

「大きかったらエエちゅうもんと違うぞ、若いの!!」

「オレのは凍らせて釘がうてるんやぞ」

「わしのは叩いてドレミファソラシドが出せるんやぞ」

「重たいから勃てへんやろ、ソレ」

「先まで神経いってないやろ、ソレ」

大阪の人は面白い。男性は、ペニスのサイズを気に病む人が多いけれど、深刻さの度合いで言えば間違いなく大き過ぎる男性の方が上だと思う。

さすがに私は二十八cmのペニスは見たことないけれど二十cmの人と付き合っていたことがある。

「ペニスの根元にタオルを巻くからっ優しくするからっお願いっ」と、土下座された。

大き過ぎるペニスの持ち主では風俗店でも断られる。商売道具が傷物になるからと相手をしてもらえない。恋愛でさえ巨根とわかれば拒否されることが多いという。平常時に二十cm以上のペニスがでろんとぶら下がっていたら、本人も不便である。ショートパンツで過ごすこともできないのだ。オナニーすれば手首どころか肘が痛くなる。肩も凝る。

「愛があればペニスの大きさなんて関係ないわ」

と言えるのは、ペニスが小さい場合だけである。

「ペニスの大きさなんか気にしないわ」

と言える女性は、本当に大きなペニスを知らない人だろう。

太股がペニスの置き場所になっているレベルの巨根の人の苦悩は、本当に気の毒としか言いようがない。そう感じる経験を二十代で何度かした。


 

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