礼讃

礼讃・第56回「新入社員」

2014/12/18 13:00 投稿

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新入社員

 

 入社式までは、暇があればスーパーファミコンで麻雀を練習した。マリオで懲りていた私は、やはりメカに弱く、ボタン操作がスムーズにできず、切る牌を間違えてばかりいた。

「ファミコンだからうまくいかないのよ。全自動麻雀卓がある雀荘で打ちたい」

と、強気な私に健ちゃんは

「役、覚えたのかよ」と、訊いた。

「うん。テンホーでしょ、チュウレンポウトウ、リューイーソー。あとね、大三元と国士無双」

「あのな、まず出来るものから覚えないと意味ないだろ」

「麻雀は、安い手ばかりであがっていても勝てないって本に書いてあったもん」

「今やっても、花菜は一局も勝てないと思うけどな。見ててやるから半荘してみろよ」

と言い、健ちゃんはファミコンのスイッチを入れた。

「九・一・二と八・九・一はシュンツにならないよ」

「うっ」

「そっちの三枚でコーツ作ってるつもりだろうけど、数字が同じでもマンズとピンズ混ぜたらダメだよ」

「ううっ」

「チー、ポンは出来るのか。早くアガリの形にしたくて鳴いてばっかりいるんだろうけど、じっと我慢して手役を作るのが大事なんだよ」

「うううっ」

「うわっフリテンだ。自分が何待ちでテンパイしてるのかわかってないだろ。フリテンになったらロン上がりは出来ないんだからな」

その後も、ノーテンにも関わらずリーチをかけて、そのまま流局してしまいチョンボになったり、字牌を雀頭にする場合、場と自分の風以外の風牌しか使えないと知っていながら、東場の南家で西を並べ、東南西北ではなく東西南北だと思っていたことが発覚し、呆れられた。

 健ちゃんは、テンパイするとリーチをかける。リーチ後の第一ツモでアガれば、リーチ一発メンゼンツモの三飜アップになるとか、裏ドラやリーチ棒がどうの、相手にプレッシャーをかけられるだの、リーチのメリットを話していたが、真似できそうに思えなかった。

 ツモアガリが多い健ちゃんに、

「どうしてロンよりツモアガリなの?」と訊くと、

「メンゼンツモで一飜役がつくと点数が高くなるし、自力でアガると気持ちいいだろ。ツモでアガって牌を倒す爽快感はたまんないよ」と言った。

 私が今まで点数が低かった原因が少しわかってきた。

自分の手牌さえままならないというのに、他家の動きを読み、守備に回り、他家の手を進めさせず、自分の捨てた牌でロンアガリさせないなんて芸当が出来るはずもない。役は絵で覚え、「何切る?」問題集を解き、計算は出来ないので点数計算早見表を丸暗記したが、点数計算問題集でアガリ形を見ると、符も飜数も得点もわからなかった。

今でも麻雀の点数計算が出来るという男性に会うときゅんとする。点数計算は自己申告なんてことになったら、

「どんな手であがっても、倍満二万四千点ていえばいいんだよねー。そしたら相手はあわてて本当の点数いってくれるもんねー」という西原理恵子の『まあじゃんほうろうき』式で乗り切った。

 すっかり麻雀に魅入られた私は、高いレートで打つようになり、一年後にはNSXを新車で買える程、負けていた。

 

入社式には、ラルフローレンの紺色のツーピースで出席し、高卒組代表で挨拶をした。

大卒組代表は、早稲田大学の政経学部を出た二十二歳の男性で、私と堀井君は本社がある恵比寿の店舗に配属された。

新入社員で携帯電話を持っているのが十八歳の私だけだったことにびっくりしたが、周囲の人の方が驚いていたようだった。

 王子の研修センターに通う日が続いた。

 四月十五日は、開園十周年を迎えた東京ディズニーランドが集合場所だった。研修の一環として、ゲストを楽しませるスタッフの意識と仕事振りを学ぶという名目で自由に遊んだ。

堀井君はビッグサンダーマウンテンとスプラッシュマウンテンに乗りたがったが、高い所は怖いと断ると、ワールドバザールの中にあるアイスクリームパーラーでアイスを買ってくれた。

 ディズニーの世界観で覆い尽くされ、周囲の現実世界から隔離された夢と魔法の王国にぐったりした。

堀井君と手を繋ぎ、おもちゃショップ・トイキングダムや高級婦人服ショップのアップタウンブティックを見て回った。

夕方に現地解散すると、私は堀井くんを待たせ、携帯で雅也君に電話した。

「花菜だけど。今ね、会社の研修でディズニーランドにいるの。もう帰っていいって言われたんだけどね、東京ディズニーランドっていうくせに千葉にあるのよ。東京駅でね、物凄くいっぱい歩いて京葉線に乗ったの。私ね、もう疲れて歩けないのよ。東京駅の長い連絡通路のこと考えたら倒れちゃいそう。迎えに来てほしいの」

私がお願いすると、

「じゃあ八丁堀まで京葉線に乗ってきなよ。ディズニーランドだと待ち合わせが面倒だからさ。舞浜から東京方面に乗ったら八丁堀駅で降りて待ってて」

と、雅也君は言った。

私は京葉線の車内で堀井君の肩を借り、八丁堀っていう駅が近付いたら起こしてね、と頼み、少し寝た。

 雅也君は、横浜の自然観察の森で見た大瑠璃のような美しい青色の車に乗ってやって来た。納車されたばかりのマセラティは二ドアだが後部座席のあるスポーツカーだった。

「ランボルギーニ・カウンタックを手掛けたデザイナーが担当したんだよ」とかエンジンの性能だの、いつもの車談義を聞きながら日本橋をドライブした。

「そう言えば花菜ちゃん、人形町の柳屋に行きたいって言ってたよな。ここから近いから寄ってあげようか」

と言い、念願の鯛焼き屋に連れて行ってくれた。

一匹ずつ鋳物の焼き型で職人が焼いている様は、徹さんが話していた通りだった。一本ずつ焼き型を返す作業は、かなりの体力が必要だろう。職人が体をリズミカルに動かしながらくるりと型を返してゆき、一本釣りしたような鯛焼きが次々と出来上がるのを行列しながら眺め、順番を待っていた。

 車に戻るまでの時間がもどかしく、店の前で立って頬張った鯛焼きは、私が今まで食べてきた鯛焼きとは別の食べ物だった。鯛焼きとは魚の形をした今川焼きだという認識を持っていた私は、一本焼きのパリッとした薄い皮の鯛は天然魚で、今まで私が食べてきた鯛焼きは養殖物だと思い知った。

 

仕事は、王子の研修センターか店舗での実習の毎日だった。新入社員に配布されたスケジュール表に、三泊四日で伊豆の修善寺温泉ホテルに行くことを知り、慰安旅行かと思ったら宿泊研修でがっかりした。

 新入社員は三ヶ月間、様々な研修を受けるようになっており、私は研修だけ受けて辞めたことになり、スパイだと思われやしないかと妙な心配をした。

私が入社した企業は、五十年代にアメリカのケンタッキー州で創業したフライドチキンチェーン店を七十年から日本で運営している会社だった。ガソリンスタンドを経営していたサンダースが、お客さんから近くに美味しい店はないかとよく尋ねられ、自分でフライドチキンを作るようになった。その味が評判を得てレシピを売り、フランチャイズで店舗を増やしていったという。

南部のおもてなしという意味が込められたサザンホスピタリティを学び、カーネルは名前ではなく、国や地域に貢献した人の称号で、店舗前に据えられている等身大人形の立像は、フライドチキンに馴染みのなかった日本でアピールする目的で発案され、アメリカにはないディスプレイだと知り驚いた。

 研修センターではスーツの上に会社から支給された赤いジャンパーを着る。背中に白色でカーネルおじさんの顔が大きく刺繍されたかなり恥ずかしいデザインのユニフォームだった。この恥ずかしさを共有することで連帯感を生じさせようという魂胆なのだろうかと考えたりしながら、真面目に講義を聞いていた。

 3ヶ月と期限が決められている事が不条理な指導をも受け入れる心理的根拠になっていた。それは、次の試合まで、卒業までと、期限が明確な学校の部活での厳しいしごきを耐える生徒のようだった。

 私は本社から一番近い店舗に配属されたので、従業員が千人を超える企業なのに、社長と会って話す機会が多かった。実験的に新商品を導入したり、試作品を調理することもあり、他の店舗に先駆けて体験できるのは楽しかった。

 この時期、日進丸紅飼料と共同開発したハーブ鶏の導入が始まったばかりだった。トウモロコシ主体の餌にオレガノやナツメグなどのハーブを混ぜて育てた鶏が使われていた。

私が衝撃を受けたのは、店で使用している揚げ油が全てショートニングだったこと。一斗缶に入った白いショートニングをフライドチキンを作る圧力釜やフライドポテトやフライドフィッシュを揚げるフライヤーに投入する時の罪悪感といったらない。

 トランス脂肪酸、という言葉が脳裏を過ぎりつつ、どうしてこんなに美味しいんだと文句を言いながら、オリジナルチキンを毎日、食べていた。

 自分で部位が選べるのも嬉しかった。圧力釜から出したばかりのフライドチキンを、あちちっ、はふはふと言いながら食べる一時は至福だった。焼き立てのビスケットを割り、湯気を扇ぎながらメープルシロップをかける幸せ。揚げたてのフライドフィッシュにタルタルソースをつけて、カリッと音を立てて頬張る幸せ。

この幸せとの邂逅は、槇原敬之が『どんなときも』を歌っていなければなかったものだと、彼の才能とCFソングに選んだ会社の人に深く感謝した。

 私が研修で配属された店舗は、パートナーと呼ばれるアルバイトはベテラン揃いだった。アルバイトの履歴書を見ると、ほとんどが現役の学生で、社員も含め、店員で高卒者は私だけと知り、悲しい気持ちになった。

 アルバイトは、階級が書かれたネームプレートを付けているので、ランクがすぐわかるのだが、キッチンかカウンターを習得し、研修中のトレーニーを指導できるスターばかりで、フライドチキンを専属で作っている男性たちは、キッチンとカウンター両方できるオールスターだった。

 マネージャーと呼ばれる店長とアシスタントマネージャーの副店長は三十代の男性で、他に二十代後半の女子大卒の社員が一人いた。

 私と堀井君は、研修センターに通ったり、店舗では全ての業務を覚える為にあちこち動いていたから、働き手の人数にカウントされていなかった。

特に私は、迷惑をかけてばかりいた。コンピューターでの発注を任された時には、五百本入りのストローを三箱注文したつもりが三十三箱届き、地下にある事務所まで階段がストローの箱で埋められ、平謝りに謝った。

いかんせん邪魔なので近くの店舗に協力を仰ぎ、引き取ってもらうことになった。隣の駅にある渋谷店へ持って行くように言付かり、私はどこかで迷子になり、三時間後に恵比寿に戻って、店長に叱られた。

 中目黒の店に運べと命じられた時は、あそこは駅前なんだから迷子になりようがないだろうと言われ送り出されたのだが、電車の乗り方がわからずタクシーに乗り、ストローは無事に届けられた。

 何だか見たことのある景色だわと思い、優子さんに電話すると、家はすぐ近くよと言われ、目黒川沿いのヨハンのチーズケーキを御馳走になり、ちょっとおしゃべりしていると、二時間が過ぎ、店長は近代麻雀の宇佐美編集長の如く、頭から血を噴き出す勢いで怒っていた。

 フライドチキン作りに挑戦したら、鶏肉に秘伝の粉をまぶすのに手間取り、やけに味の濃いフライドチキンが出来てしまい売り物にならず、巨大な圧力釜一つ分のチキンを廃棄することになった。タイマーをセットし忘れて、ポテトを揚げ過ぎたり、ビスケットを焼き過ぎたりして損失を出すたび、店長はぷるぷる震え怒鳴っていた。

 開店準備をしていると、バイトの女の子たちが、

「木山さんって何者なんですか」と尋ねてきた。唐突な質問だった。

「毎日違う男の人の車に乗って帰ってますよね」

私の方が皆より年下なのだが、一応社員なので、アルバイトからは敬語で話しかけられる。雅也君や駿君、哲君らに迎えに来てもらったところを見られていたらしい。

「電車の乗り方がわからないので、堀井君と一緒に帰れない時は、友達に迎えを頼んでいるんです」

と、私は答えた。

「先週店の前で凄く年上の人と抱き合ってキスしていたって噂は本当ですか」

「店の前じゃなくて、横ですけど。凄く年上って言っても、彼とは十歳しか離れてませんよ」

「えーっ本当なんだあ」

「十歳ってかなり年上だよね」

と、彼女たちは、きゃあきゃあ沸き立った。

「次の日、本社に呼ばれて始末書を取られて大変だったのよ。理由が理由なだけに恥ずかしいし、入社一ヶ月で始末書を書く羽目になるなんて」

と、私は嘆いた。

「木山さんて昼休みから戻って来ると、いつも髪が濡れてますよね。どうしてなんですか」

「あっ私も気になってた。ムースやジェルつけてるのかと思ったけど、夕方になると乾いてるし」

「そうそう。昼だけびしょ濡れ」と、姦しい。

「昼食は隣の藤井でおうどん食べて、それからスポーツクラブでプールに入っているんですよ。屋上にプールがあってぷかぷか浮かんでるだけで気持ち良いんです。プールにはいつも外国人のおじさんしかいなくて、空いていて居心地が好いし、歩いて一分かからず店まで戻れるから便利だし」

と、私が言うと、彼女たちは一瞬沈黙し、

「十八で携帯持ってるし、木山さんて何だかすごいですね」

「うん。凄く面白い。昼休みにプール入ってくるなんてあり得ない。この前、渋谷にストロー届けに行く時、タクシー乗ったんでしょ、一駅なのに」と笑うので、

「渋谷へは歩いて行ったんです。タクシーで行ったのは中目黒で、帰りは友達のお母様に送ってもらったんですよ」と、訂正した。

 噂はこんな風に事実が曲げられて広まるのかと思っていたら、後日、研修センターで会った同期の社員に、「毎日店まで彼氏の車で送迎してもらって始末書出したんだって?」と訊かれ、嘆息した。

 

東京の四月は桜が美しかった。満開の少し前の午前中が良いからと、休日の朝から雅也君の実家に呼ばれ、目黒川沿いの桜を見てから秩父へ向かった。

 浅葱色の武甲山を背に、何段も広大な面積に植えられた芝桜を見、羊山公園で初めて枝垂れ桜を見た。

何という風格だろうと驚き入った。

散った桜の花びらが目黒川の水面を流れる花筏の風情も良かったが、春風にひらひらと舞う染井吉野の花びらを浴びながら、迫力がある堂々たる姿の枝垂れ桜は、心の奥底まで染み渡る情景だった。

「少し風があるから花びらがよく降ってるわね」

と、優子さんが弾んだ声で言った。

「風が強いから散るわけじゃないよ。桜の花の寿命は一週間て決まってるんだ。七日経った花びらが落ちているだけだよ」と、雅也君が言う。

「あら、そうなの。知らなかった」

「私も初めて聞いた。枝垂れ桜を見るのも初めてよ。実家の近くは、チシマザクラやヤマザクラが多くて、北国は梅と桃と桜が一斉に咲くから、桜より香りが良い梅の方が好かれるみたい」

「北海道には、エドヒガンがないのかな。でも、福島の三春滝桜はエドヒガン系の紅枝垂れ桜だから、雪国だからないってわけじゃないんだよな」

「染井吉野はあるわよ」

「染井吉野なんて樹齢六~七十年だろ。エドヒガンは、樹齢数百年の木がたくさんある。長い歴史を持つ桜は見応えが違うよ。岡山の醍醐桜は樹齢千年、山梨の山高神代桜は二千年だぜ」

雅也君がそう言うと、

「古い巨木は幹から分かれた枝を何本もの支柱で支えられて痛々しい感じがするのよね。私は染井吉野が好きだわ」と、優子さんが言った。

 それから長瀞で、以前話していた宝登山のツツジを見、阿左美冷蔵のかき氷を食べた。

和三盆糖の蔵元秘伝みつがかかったかき氷には、白餡が添えられており、綿菓子のようなふわふわした氷は、口に含むと一瞬で溶けていった。雅也君の黒落花生みるくと優子さんの苺みつを味見させてもらい、私の秘伝みつも一口ずつ分けてあげた。

お花見をした帰りに、優子さんが銀座のサンモトヤマでフェラガモのスプリングコートを買ってくれた。レザーのバックルにガンチーニが光るレモン色の素敵なコートだった。

健ちゃんと散歩しながら夜桜を眺めていたら、権之助坂の目黒川沿いにある目黒倶楽部というお城のようなラブホテルを見つけ、連れ込まれた。

 健ちゃんは私に借りがあった。健ちゃんの衣類は、晴子さんが買っていると聞いていたが、バッグはどうなのだろうと思い、

「そのカルティエのセカンドバッグどこで買ったの?」と、健ちゃんに訊いてみた。

急にあたふたする健ちゃんを問い詰めると、前の彼女にプレゼントされた物だと白状した。

「私と付き合っているのに、他の女性から貰った物を使い続けるなんてひどいわ」

私はむくれた。

「もう健ちゃんなんて嫌い」

と言って、健ちゃんのマンションを飛び出した。

 武蔵小杉の駅前でタクシーに乗り、目黒までお願いしますとドライバーに伝えた。走りだしたタクシーには、私の後を追ってきた健ちゃんが隣に座っていた。

 タクシーは綱島街道から中原街道を走り、知っている景色が見えてきたと思ったら目黒通りだった。大鳥神社を越えた辺りでドライバーが「目黒駅でよろしいですか」と、言った。このへんに目黒雅叙園があったと思い、私は「次の信号で降ろして下さい」と言った。

 そして目黒新橋から川沿いの桜を見ながら歩いていると、健ちゃんが私の手を取り「ごめんね」と言い、目黒倶楽部へ連れ込んだのだ。

 翌日、私は渋谷の東急百貨店でダンヒルの茶色い革のセカンドバッグを買い、健ちゃんにプレゼントした。カルティエのバッグはゴミ集積所に捨てた。初任給はダンヒルのセカンドバッグと同額だった。

 

 私は三月から毎週欠かさず馬券を買っていた。皐月賞は、初めて船橋の中山競馬場へ行き、ビワハヤヒデに賭け、馬連でとった。春の天皇賞は渋谷のウインズで馬券を買い、ライスシャワーとメジロマックイーンで決まり、にんまりした。

 この日、明治通の並木橋交差点近くの店で喜多方ラーメンに出会い、じゃんがらラーメンと共に十六年間愛し続けた。

 東京競馬場で安田記念を見、ヤマニンゼファーの単勝を当て、浮かれまくり、ダービーでビワハヤヒデの単勝に厚く賭け、涙を呑んだが、ウイニングチケットとの連勝でしっかり稼いだ。

宝塚記念では、メジロマックイーンの単勝を買おうか悩んだ。ワイドや三連単、時には五重勝なんて馬券が買える現在では、万馬券どころか百万馬券が出たりするが、私が競馬にのめり込んでいた時代は四種類しかなく、その中で私は単勝と馬番連勝しか買わなかった。阪神競馬場で行う宝塚は生で見れないし、メジロマックイーンの複勝を買う位なら見にしようと思いつつ、ファン投票した馬の勝ち馬投票券を買わずにファンとは言えないだろう、しかもGⅠレースじゃないかと自分を鼓舞し、大きく張った。

武豊が騎乗する芦毛のメジロマックイーンは、徹さんとよく語り合った思い入れのある馬だ。

 九十二年は阪神大賞典で五馬身差の楽勝。春の天皇賞では、一番人気のトウカイテイオーに圧勝した最後の直線の走りは見事だった。しかし、宝塚記念の前に左脚を骨折し、全治六カ月の診断が下された。ここまでは知っていた。

高校三年の終わりは、競馬どころではないことが私の身に起こっていたので、九十三年の春まで競馬から遠ざかっていたのである。

 九十三年四月の大阪杯に出走したメジロマックイーンは、六歳になっていた。ナイスネイチャに五馬身差で快勝したのだが、同じ月の天皇賞で黒鹿毛の小さなライスシャワーによもやの敗戦。そんな経緯があっての六月の宝塚記念だった。

二着のイクノディクタスを二馬身近く引き離しての勝利で、私は、ほくそ笑んだ。私には才能があるかもしれないと思い始めたのは、この頃だった。

競馬は、寺銭が二割五分と決まっている。二十五%も胴元に取られて勝てる訳がないと言う人もいる。

麻雀は四人対戦のゲームなのだから、一局でアガれるのは一人だけで、つまりアガれる確率は二十五%ということになる。だが、半荘で八局打って必ず2局アガれるわけではないのと同じで、私は確率というものを信用していない。数字に弱くて確率を計算できないという理由もあるが、私のギャンブルは常にインスピレーションとフィーリングで決めている。

 私は、競輪、競艇と手を広げたが、一番的中したのは競馬だった。

 十八歳の私は、ギャンブルの打ち手として生きていこう、と決心した。本気でそう考えた。若かった。

 

ゴールデンウィークは、健ちゃんの実家で過ごし、隣町の富津市にあるマザー牧場へ行った。

五月の終わりに雅也君と優子さんの三人で、伊豆長岡温泉に行った。こういう時はBMWの7シリーズに乗っている優子さんの車を雅也君が運転する。

 伊豆漁協の直売所に隣接したバーベキュー場で地金目鯛の干物やサザエを焼いて食べ、徹さんと川端康成の「山の音」の話をしたことを思い出し、切なくなった。

六月、私は祐天寺の駅前にある三和銀行のロビーに設置されていたホワイトボードに「ピアノ出張レッスン致します。初心者大人歓迎。月謝二千円~ 委細面談」と書き、名前と電話番号を記しておいた。

客が無料で自由に利用できるスペースだった。子犬や猫の里親募集、大学生が家庭教師の生徒募集や主婦が趣味のサークルメンバーを募集したり、様々なメッセージが書き込まれていた。私はピアノを教えて儲けようとは思っていなかったし、上級者は教えられませんよという意味も込めて、月謝は低く設定した。

 富士銀行は紙を貼るタイプの掲示板だったので、雅也君にパソコンでちらしを作ってもらった。グランドピアノと音符のイラストがカラフルな可愛い広告だった。ちらしの下部に名前と電話番号がプリントされた短冊がひらひらして、問い合わせをしたい人がちぎって持ち帰れるようになっていた。

ラブホテルの駐車場の入り口に掛かっているカーテンみたいだなと思ったが、毎日減り具合を見に銀行へ寄るのが楽しみになった。ピアノレッスンの事ではなく、ちらしの作り方の問い合わせが何件かあり、雅也君のセンスに感心した。

 私はお礼に、タクシー通勤で目に入った駒沢通の鎗ヶ崎交差点の近くにあるオートバックスで、羽がふぁさふぁさついた毛ばたきを買った。会社の重役や政治家が乗る高級車を、運転手が毛ばたきをかけて待っているシーンを漫画や映画で見たことがあった。

私が感謝の気持ちを込めてプレゼントした品を、雅也君は、

「こんなので車に触れたら、細かい粒子で塗装の表面が擦れてしまうだろ。車の汚れって、まずは水でゴミを流すしかないから、はたきを使う機会はないんだよね。テレビの埃でも払うことにするよ」と言った。

「ごめんね。車のことよくわからなくて」と言う私に

「こういうのってさ、俺がおふくろにキッチンエイド贈るのと同じなんだよ。花菜ちゃんも知ってるだろ。バタークリームとかクッキー生地とか力のいる作業も、ボウルを取り付けてスイッチ入れるだけで仕上がるっていうあのマシンを、去年おふくろの誕生日にプレゼントしたんだよ。そうしたら、私、電動ミキサーって好きじゃないのよね。マトファーのホイッパーが欲しいのって言われてさ。自分が知らないジャンルや、相手の造詣が深いジャンルの物を選ぶのって難しいって思ったんだ。でも、気持ちは嬉しかった。ありがとう」


と、雅也君は塵ひとつないダッシュボードを毛ばたきで払った。

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