家族全員と西の祖母とその子供と孫達というメンバーで、昨年、隣町にオープンしたばかりの温泉付きグランドホテルでお正月を迎えた。
西の家の長男には二人の娘、次男と次女には共に二人の息子がいる。祖母は十人の孫が集まるお盆とお正月を心待ちにしていた。
母方の叔父と叔母は、母に全く似ていなかった。祖母と口を揃えて、「あんな人が母親だと大変でしょう」「昔から世界は自分中心に回っていると思っている人だった」「あんな性分の人はうちの家系にいない」「先日もこんな迷惑を掛けられたが本人はいいことしてるつもりでいるから、手に負えない」と、母のことを言うのである。
母の傍若無人ぶりを話し、笑い合えるのは、彼らとだけだった。その彼らでさえ、母が肉体的暴力を振るうとは思っていないようだったし、そのことだけは言えなかった。その事実は、善良な祖母や叔母たちをとても悲しませると思ったから、私は黙っていた。そのことがなくても十分に、母がおかしな人間であるという共通認識を持ち慰め合えた。
祖母たちは、母が「最近とみに常軌を逸した言動が目立つ」「顔付きも変わってきた。更年期障害ではないか」「いや、あの人は人格障害だ」「精神障害だ」といった物騒なことも言い出した。まるで、自分たちとは血の繋がりがない人のことを話すような口振りだった。
本当はそうではないのか。そうであったら良いのにと思った。そして、私と母の間に同じ血が流れていないことを何より強く願っていた。
母が更年期によって、よりおかしくなったのかは定かではないが、昨年の文化の日に、母は四十四歳になっていた。母の唇の周りには縦皺が入り、意地悪な印象を強めていた。眉間の縦皺と額の横皺の溝は深かった。人目のないところで自然にしているときの表情が、母の額に皺を刻んだに違いなかった。
母は、いつも口を尖らせ、威嚇することが癖になっていた。悪口と不満の言葉を舌にのせる口はへの字になり、顔は醜く歪んでいる。
穏やかな笑みを湛える祖母にある目尻と口角の皺が、母にはなかった。皺というものは、加齢より表情によって作られるものではないかと感じていた。
画一化された美はつまらないと思う私は、美しい皺に魅力を感じる。醜い歪んだ内面を持つ人の顔にどのような皺が刻まれるかを、私は思春期に一番身近にいた女性によって知ることができた。そして、どす悪い心を持つ人でも、肌は美しく保てることもわかった。
肌が美しい人は心も綺麗とは決して思わない。
高校一年の二月に、そのでき事は起こった。
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