SOHIKO BLOMAGA

小池壮彦 怪奇探偵ブロマガ vol.28

2013/09/27 20:00 投稿

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  • vol.28倭国大王位継承問題その2
  • 歴史と社会
 なぜ中国は王朝の興亡を繰り返し、日本は万世一系の建前を堅持できたか。理由はいろいろあるが、簡単に言えば、いちいち滅びていては商売にならないからである。王朝というのはマーケットの元締めであるから、モノとカネが集まる名義はできるだけ統一されていた方がいい。「あの人はやめました」「あそこはつぶれました」の連続ではうまくない。

 ところが、古代中国のマーケットは「つぶれました」の連続だった。戦争ばかりやっているし、商売も汚い。わからずやで付き合いきれない。昔の漢族はまともだったが、鮮卑族が漢人に化けてからはロクなものではない。なんとかならんものか……という需要に答えて、日本が出てくるのである。「うちは神代から続いている国ですよ、安心な投資をしませんか、オ・モ・テ・ナ・シ……」と言ったかどうかは知らないが、ざっと言えばそういうことだ。

 そうなった背景に、前回述べた皇位継承問題の大もとになる出来事があった。日本が現れる前の5世紀の倭国の事情を見てみると、現在の大阪に倭国王権の重要拠点があった。鉄器加工施設の遺跡がこの地に集中しているが、これは要するに軍事施設の痕跡である。加羅諸国から瀬戸内海を通じて物資を輸送するから大阪湾沿岸に施設が集まる。

 中央集権的な王朝というものはこの時代の日本列島にはないので、大阪の拠点を河内王朝と呼ぶことにどれほどの意味があるかは疑問である。王朝交替があったとかなかったとかいう発想は、倭国時代の日本列島に単一の王権がずっとあってそれが別のものに変わったか変わっていないかという発想を前提にしているが、その前提そのものが最初から違うのである。

 前回述べたように、この時代は各地の首長が独自の交易ルートを持っていた。グローバルな世界のなかで複数の国がゆるやかに連合しており、それが外から見れば倭国連合と認知され、最高首長としての大王を倭国王が代表していたというぐらいの話である。つまり日本の固有史というものはまだ始まっていないのだから、日本の王朝交替という話も成り立たない。これと同じことが近代にもあって、たとえば中共が大東亜戦時のことで日本に文句を言ってきたら、「戦時中におまえの国なんぞ存在しなかったわけだが」と言えばすむことなのだ。

 さて倭国王は中国南朝の宋王朝から安東将軍の称号を得ていた。これは倭国が軍事王権として認知されていたことを物語る。大陸から見て朝鮮半島の背後に位置する日本列島は、半島を挟み撃ちにできる最東の砦として地政学的に重要だった。朝鮮半島最南部の加羅諸国から物資を運んで日本列島で加工するシステムを支えていたのは百済の先進技術者だったが、その百済が高句麗に圧迫されて滅亡の危機に立たされたときも頼りになるのは倭国だった。

 高句麗のバックには中国北朝の北魏が控えている。一方の倭国は弥生文化を伝えた大陸の江南利権とつながっていた。つまり中国南北朝の抗争が朝鮮半島の情勢を緊迫させたとき、半島の後ろにあって南の宋王朝と結ぶ倭国の軍事力はどこから見ても重要だった。いわゆる倭の五王というのは宋王朝のお墨付きを得た倭国王の系譜である。ところが、このバランスが崩れたのが5世紀後半の情勢だった。

 倭国が危機に陥ったのは、北魏に侵攻された宋王朝がついに滅亡したときである。これが479年のことで、倭国は中国南朝の後ろ盾を失った。北魏は南まで支配の手を伸ばし、その威勢を借りた高句麗は百済を滅亡に追い込む勢いだった。百済王は自衛のために北魏に冊封されることを望んだが、北魏はこれを拒否している。そして一方の倭国は宋が滅びた後、北魏に頭を下げることはなかった。偽漢族の王朝である北魏には敬意を表さなかったのである。
 

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