5~6世紀の加羅諸国と倭国の関係や、7世紀にいきなり〝日本〟が現れる経緯というのは、自国の話にしては何か人ごとのように語られるのが常である。いまだに邪馬台国がどうしたとやっているのもその類いで、古代史というジャンルの罠にはまるとそうなってしまう。

 歴史は現代の問題であり、政治の問題でもある。純粋な歴史を突き詰めると年代測定だけになってしまうというのはジョークのような話だが、遺物から見出だせる光景なり人の動きなりを記述しなければ歴史にならないとすれば、結局のところ歴史は物語の形を取るしかない。

 そして物語の形を取る以上、多かれ少なかれフィクションとなるので純粋な歴史記述というのはないのであるが、日本史の場合はその端緒において〝記述〟そのものがないのである。もちろんさまざまな物語は書かれている。だが、歴史上に突然〝日本〟が現れることに関しての説明はない。これはつまり、そこの説明はなくてよいという合意がなされた結果である。

 すると問題は、誰がそれに合意したかである。日本以前の火山列島にいた複数の首長層は、中華体制に対峙する新たな中華機構を作ることで合意した。大和政権の最高首長のもとに自分たちの出自を消して〝日本人〟になったということがひとつある。ただし、これは本来、民間人にはまったく関係ないことで、当時の民間人の多くはあいかわらず狩猟や漁業に従事して、これまでと同じ地域のルールで取引していたわけである。

 ところが、初期日本つまりヤマト政権は、海の向こうから多くの亡命者を受け入れて東国に送ったという記録があるので、民間の地域ルールも変容を余儀なくされたのである。よそから人が流れてくれば、土地の所有の問題が出てくる。言葉が違えばコミュニケーションの問題も出てくる。そのなかで新たな豪族となったよそものが支配のルールを作っていく。

 このプロセスが歴史であるが、〝日本〟という枠組みは支配する側がいきなり持ち出したルールである。その点を忘れて最初から〝日本〟があったという前提がスタンダードになってしまうと、もともと日本人がいて日本のルールがあったかのように思われてしまう。世に言われる〝日本史〟はたいていその幻想のなかで泳いでいる。最初から日本の固有史があったことを前提にして日本以前の歴史を日本史に含ませている。これは倭国や三韓の歴史を消しながら吸収した『日本書紀』の方法と同じであるが、ほとんどの日本人にその自覚はないだろう。

 近代日本の明治政府が藤原史流の『日本書紀』を根拠に朝鮮半島の〝失地回復〟をテーゼとしたのも同じ錯覚に基づいている。最初から〝任那日本府〟があったという前提で、面倒な問題を散らかしたまま現代に至っている。明治維新で成金的に復権した公家たちに現実的な歴史の自覚などあったはずもないのだが、そのような彼らの本当の素性はいったい何者なのかという問題すら、多くの日本人は無自覚のまま過ごしてきたのではないだろうか。

 その結果が、フクイチ爆発で大量の難民を生んだことにまでつながるのである。原子力政策というのは戦前の国体官僚機構と財閥が進めて戦後にそれを継続したものである。つまり明治政府から続く支配層の国策であって、その中核にいる人々の系譜は基本的に古代から変わっていない。だからその歴史経過を見るために、私はやむを得ず時間をさかのぼってみるだけで、好奇心だとか古代史ロマンだとかは関係ない。大きな遺跡が見つかったから邪馬台国かもしれないといった視野狭窄のゲームとはいっさい無縁のことである。

 たとえば、日本を守ると言ったときに、それは日本の何を守ることなのか。これを即答せよと言われたら何と答えるか。日本人の命か。日本の国土か。日本の伝統か。日本の歴史か。歴史はあやふやだぞ。あやふやなものを守るのか。人命も国土も伝統も歴史も分けられるものではないから、そのすべてを指したところの日本という答えもあり得るが、ならば果たして日本の支配層は日本を守っているか。

 日本を守るふりをして、何か別のものを守ろうとしていないか。この疑念が少しでも頭をよぎったことのある人は、どんなときに、どんな局面でそれがよぎったかを、あらためて考えてみると、どういう問題が浮上するだろう。

 例として、こんな問題がある。

 福島県双葉町の元町長・井戸川克隆氏が、今年7月の参議院選挙に出馬したとき、東京・新宿での街頭演説で次のように述べた。

2011年津波のあった年の、3月3日。3月3日に、地震津波のあることを日本政府は知ってました。知ってたんですよ、8日前に。地震津波の8日前に、知ってました。しかし、それを止めたのは、政府と、東京電力と、東北電力と、日本原電が、発表を止めてしまったんです。