戦後日本の曲がり角が1950年代の原子力時代黎明期にあったとすれば、その後に訪れた第二の曲がり角は1995年に起きた「もんじゅ」の火災事故である。しかし、実はその直前の時期に政府内では重大な話し合いがなされていた。

 1985年から94年にかけて、旧科学技術庁の故・島村武久氏が主催した「原子力政策研究会」で日本の原子力政策の展望が話し合われた。その資料を見ると、当時すでに原子力政策の行き詰まりが指摘されていたことがわかる。

 東電は1966年にフクイチ建設を米GE社と契約したが、これは当初から未完成の技術だった。原子炉圧力容器は東芝が受注し、タービン発電機は日立が受注してGE社の技術を模倣したが、当初は技術的な欠陥には気づかず、改良のための研究費は計算に入っていなかった。

 GE社の軽水炉に欠陥があることがわかったのは、1970年代になってからである。この時点で初めて技術的改良のための予算が組まれるが、GE社の設計は当初から地震・津波対策が考慮されていなかった。この問題を解決するには土台から見直しが必要だったが、着工から運転開始までパッケージになったターンキー契約では改善は困難だった。

 計画の見直しはオプションになるので経費が高くつく。東電は地震・津波の危険性をわかっていたが、当初の設計どおりに非常用ディーゼル発電機をタービン建屋の地下に設置した。あちこちの原発がしばしば故障することに私たちは不可解の念を抱いていたが、原因は当初から欠陥品だったからにすぎなかった。政府も東電も、そんなおそまつな事実を国民に知らせることなど、恥ずかしくてできなかったのである。

 結局日本は、原発の基礎研究をおろそかにしたまま急速に欠陥品を導入したため、そのツケは高くついた。島村武久氏は1990年の原子力政策研究会で、日本の研究体制が諸外国に比べて薄いことを指摘して次のように述べている。

外国の状況なんか見てみると、もっと日本のメーカーは自分で勉強しなきゃいかん……全然もう研究の厚さが違う。日本はこんなことでは駄目だ。

 これが「もんじゅ」の事故の5年前の発言である。原発の安全神話というのは最初から存在しなかった。知らぬは国民だけだった。この研究会では、核燃料サイクル計画の実現性の乏しさもすでに指摘されていた。しかし、当時すでに政策転換は不可能であり、実現性には乏しいけれども進めてみようという選択しかなかったのである。

 この手の物事は、やめるならやめるなりの理由が必要なのはもちろんだが、普通はコストがかかりすぎる時点で計画を見直すわけである。しかし、1990年代当時は原子力をやめる理由がないといえばなかった。大きな利権を捨てることは事実上不可能だった。やめる理由があるとすれば使用済み核燃料が増え続けることへの懸念だったが、それも将来的に解決される見込みがあると思っていた。いざとなれば地下に埋める計画に誰も疑問を持っていなかった。

 いま思えばいかにも考えが甘いのだが、私はこれを非難しても仕方がないという気がしている。よく例えられるのは大東亜戦争をやめるタイミングが遅れすぎたという話だが、それと決定的に違うのは、戦後の原子力政策は1990年代まで〝敗戦〟の自覚がなかったことである。というより、いまでもその自覚は薄いのである。

 なぜ薄いか、あなたは考えたことがあるだろうか?