核兵器を1000発持てばとりあえず抑止力になるというのは、20歳のときの私が幼心に考えていたことである。ところが、今日いまさらそれと同じことを言っている学者の講演を聞いて、いったい何十年前の話をしているのかと虚脱感を覚えた。1995年に時効を迎えた核拡散防止条約から離脱できず、おまけに同年に「もんじゅ」が火災事故を起こして高速増殖炉計画が事実上破綻したことで、純粋な意味での自主防衛の目はほとんど断たれたのである。

 それでも私は心のどこかで、日本はひそかに〝計画〟をあきらめていないはずと思っていた。現に高速増殖炉計画はだましだまし続けていたし、米国からの横やりなどは想定内だったはずである。しかし、2年前にフクイチが爆発したとき、その映像が日テレ得意のやらせであってくれと願っているさなかに、あの爆発映像はホンモノだと連絡を受けた。ならば是非に及ばず。風向きを調べて防護服の準備をしながら、これで完全に終わったなと思った。この程度の水準だったか、とため息をついた。終わった以上は、撤退するしかないのである。

 日本の建国の国是は、中華冊封体制に入らず、独自の天子体制を堅持することにあった。ゆえに敗戦にあたって昭和天皇が日本の安全保障を米国に託したのはやむをえない選択だった。昭和天皇が想定した脅威は、ソ連よりもチャイナの共産化である。それが現実のものになって中共が核実験に成功したとき、日本はたとえ米国に邪魔されようとも核武装の必然性を得た。少なくとも潜在的にその計画を進めることに文句を言われる筋合いはなかった。

 これは良いも悪いもない。建国の国是に基づく必然である。日本の宿命である。この計画を進めるにあたって、半世紀前の外務省には、ひとつの青写真があった。いずれ日本は米国の手を離れるという予測に基づくならば、そのときになって急遽核武装の必要に迫られても遅い。だから外務省は戦後も水面下でこの画策を検討し続けていたのである。

 これに関して、世間では表面的に〝半世紀前のツケ〟と解釈されている重大事件がある。それは1950年代に起きた。いまから思えば、日本の運命はこのときに決まっていた。