2014年03月06日発行 第0787号 特別
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 ■■■    日本国の研究           
 ■■■    不安との訣別/再生のカルテ
 ■■■                       編集長 猪瀬直樹
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「追悼・山口昌男先生――対談集『ミカドと世紀末 王権の論理』から」

 昨年3月10日、文化人類学者の山口昌男先生が逝去された。山口先生は「中
心と周縁理論」「トリックスター論」で1970年代から日本の思想に多くの功績
を残された。一周忌にあたり、メルマガでは山口先生と猪瀬直樹の対談集『ミ
カドと世紀末 王権の論理』(小学館文庫)からの抄録を、お送りします。

 同書は、猪瀬が『ミカドの肖像』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞した87
年に平凡社から出版されました。→ http://goo.gl/kf73c2 

○都市と天皇制○

猪瀬――『ミカドの肖像』で、銀座と軽井沢が一直線に結びつくと書きました。
西武グループは、日本の欲望のベクトルをよく知りぬいていますね。

 軽井沢を開発したのは、ほんとうは西武の先代の堤康次郎ではないんです。
軽井沢には開発者にまつわる二つの銅像があります。片方は台座しか残って
いないから正確には二つとはいえないけど。台座だけのほうが当然ながら古
い。
 新しい銅像の人物が古い銅像に顕彰されている人物を駆逐するために壊し
たのではなく、戦争中に鉄や銅の供出が強制されて弾丸や戦車として消費さ
れてしまっただけです。
 でも、新しい銅像の人物、すなわち堤康次郎ですが、彼が古い銅像を壊し
てしまったような印象を受けるのです。古い銅像のほうは軽井沢にカラマツ
林をつくった雨宮敬次郎という人物です。雨宮の開発は文明開化的な色彩の
強いものでして、生糸商人としてアメリカ大陸を通ったとき、不毛な原野が
開墾によって見事に変貌していくありさまを目撃していたんです。そこで、
一種の理想主義でしょうが、浅間山の麓(ふもと)の海抜一千メートルの高
原を開墾しようと考えた。
 いろいろなものを植えたけれど、どれも生育しない。ようやくカラマツで
成功したんです。公的使命感と西洋的ピューリタニズムに裏打ちされた事業
です。明治時代のことです。
 その軽井沢に大正時代に乗り込んでくるのが、堤康次郎です。すでに旧軽
井沢は外国人宣教師たちの避暑地になっていました。軽井沢の気候だけでな
く雨宮のつくった風景が外国人には心地よかったんだと思います。堤が進出
したのは沓掛(くつかけ)でした。いまの中軽井沢ですね。こちらはまだ開
発されていない。土地の値段も安かった。
 沓掛の村長はなかなかのやり手の人で、このままだと同じ宿場町なのに沓
掛だけが寂れ、軽井沢は新しい時代のニーズを呼び込み発展していく。沓掛
はおいてけぼりを食う、と危機感を抱いていました。そこで堤に安く土地を
供給する。堤を通じて都市資本が導入されれば、沓掛も栄えると考えた。
 堤はたいして金を持っていたわけではなかったんですが、沓掛を軽井沢の
一部とみせて、五百円という破格の安い値段で別荘を売りに出す。旧軽井沢
に別荘を持てる人種よりいちだん低い顧客に焦点をあてたんです。つまり中
流向きの粗末な別荘をつくった。

 時代の読みはあたっていました。大正末期から昭和初頭にかけて、都市風
俗が新興階級によってつくられはじめていたんです。

 そして雨宮家の土地をどんどん買い取ったり騙し取るのに近いようなかた
ちで、一帯を西武の傘下においていくわけです。しかも中軽井沢にあった旧
朝香宮の別荘を戦後すぐに買い取って、プリンスホテルとした。
 そこに夏、皇太子(現、天皇明仁)一家が泊まる。いまの軽井沢駅の南側
にある、僕たちが泊まることができるプリンスホテルは後から建てられたも
のです。つまり、皇太子に別荘を提供することによってブランドを借用して
いるわけですね。

山口――あの軽井沢のもっている何となく胡散臭い感じというのは、結局ス
ノビズムに由来することが『ミカドの肖像』でよくわかったね。
 僕は昨年(1986年)、軽井沢でテニスをやりました。厭なところだなあと
思いながら。この厭な感じのよってくるところは何だろうと考えたけど、そ
もそも、成り上がりと成り下がりが交叉しているところじゃないのか、とか。

猪瀬――あそこでミッチーブームが起きるというのは流れとしては正しいん
ですね。本来なら那須にしか御用邸がないのに、皇太子は軽井沢のプリンス
ホテルを目指すんです。銀座と軽井沢が一対になっている。そのふたつを結
び付けたのが、天皇家の存在と西武グループの先代堤康次郎ということにな
ります。
 そのあたりを歴史的にさかのぼってとらえていくと、さらに面白い問題が
出てくるのではないでしょうか。

○明治の東京大改造○

山口――たとえば明治において、東京が再編成されていく過程を考える前に
江戸を振り返ってみると、だいたい江戸の秩序の中心は江戸城から西ですよ
ね。四谷、赤坂を含む部分です。ここがいちばん地盤がしっかりしていたか
らです。そこに武家屋敷をつくって、全国の諸大名の人質を監禁しておく。
 そうやってあらかじめ反乱を防ぐようにしておきながら、一方では、築地
のあたりを埋め立てて運河を通す。このあたりは地盤がものすごく柔らかく
て、だいたい銀座の付近も初めはさびしいところであったんですね。

 それに較べるとまだ上野から浅草のほうは東北との接点であり、江戸の郊
外です。あそこから神田川の流れ筋を迂回していって池袋に至る一帯、さら
にその東北に当たる部分というのは、小塚原も含めて丑寅の方角だし、まさ
に暗黒の部分として猥雑なエネルギーも含めて保存されていたようなところ
があるわけです。
 それから、南は、風水論からいってもある程度開いておいて固めるという
地勢上の下部構造があった。
 ところが、結局、開国し、ヨーロッパを背景にして秩序を再編成すること
になって、まず横浜が、あらゆる新しいものが流入する場所になっていきま
す。それが横浜・新橋(汐留)間の鉄道の開通につながっていく。
 だから、まず新しい時間はそこを通って横浜から汐留にくる。それがさら
に運ばれて、金融の中心である日本橋を通して日本全国に散らばっていくと
いう構造が出来上がってきたと思うんです。

 ですから、小木新造が『東●時代』(NHKブックス、1980年)などで述べ
ているように、江戸からトウキョウではなくてトウケイへというふうな問題
で考えることができる。
 結局、江戸時代の金融、経済の中心は、むしろ鴻池などがあった日本橋で
しょう。初めは日本橋に日本銀行がつくられたりして金融の中心であったけ
れども、そのうちに、新橋との関係からしても、銀座の価値が再び見直され
るわけです。(※編集部注 ●は「京」の「口」が「日」)

 というのは、江戸の街であれだけ広い通りがずっと南北につながっていく
ところは少ないんです。パレードの場所としてはいちばんいいわけです。前
田愛が「ベルリン1888年――都市小説としての『舞姫』」(『文学』1980年
9月号)において分析した、ブランデンブルク門に通じるベルリンの菩提樹
通り(ウンテル・デン・リンデン・シュトラーセ)に相当するような、パレ
ードの場所になった。そこで、明治政府は強引に銀座通りを開発し、そこに
空間の重点を移したわけです。

 銀座通りは、東を見れば築地などの居留地をつくれる。江戸に外国人が直
接入ってこないように、とにかく居留地をつくって、そこに閉じ込めてしま
う。それで日本の新しきものは、立教でも青山学院でもミッションスクール
はまずそこにつくる。そうやってまず東を固める。銀座通りの西にはもちろ
ん鹿鳴館と宮城があって、北を見ると金融の中心がある。
 東京は小さな風水論を形成したことになります。それで南に向かっては東
海道が開かれている。そういう意味では風水論からいってもちゃんと成り立
ってくるような空間があった。その中心である銀座通りをパレードするとい
うわけだから、銀座は国家の中心的な劇場としての要素を充分に帯びたわけ
です。

 明治天皇は上野の博覧会に行幸するときも、銀座通りを通ってパレードし
ながら上野へ行くんですね。

 その銀座の中心、銀座四丁目の角、服部時計店の前のところの辻において、
「角切り」というのをやるわけです。斜めにね。辻というのは宮田登が『妖
怪の民俗学』(岩波書店、1985年)に書いているけれども馬で辻を曲がった
瞬間に何が起こるかわからないという危険空間なんです。

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 角を切るというのは、銀座が日本の都市ではいちばん初めだったんです。
そのことによってそこで情報が交換されるかもしれないし、広場性も獲得し
てくる。そういうふうな空間に仕立てていきます。さらに近代の時を刻むシ
ンボルとして、服部時計店があそこを買収して時計塔を建てていくというか
たちで、名実ともに銀座が日本の近代的な秩序の原型になっていって、そこ
を天皇がパレードするわけです。

 銀座はすべて新しいものが始まるところになったんでしょう。
 たとえば「鞄」(かばん)という字は中国語と意味が違うんです。これも
珍しい。包むのは風呂敷でやっていたわけで、革で包むというので「鞄」と
いう字を作った。銀座のカバン屋の看板に書いてあったんですね。これはE・
サイデンステッカーの『東京 下町 山の手1867-1923』(安西徹雄訳、T
BSブリタニカ、1986年)に出ているのだけれども、あるとき、天皇が馬車
で銀座を通ったときそれを見て、「あの字は見たことがない。あれは何だ」
というので、馬車を止めて侍従が行って聞くわけです。
 その商人は恐れ入って、それからルビを振るようになったと言われている
んです。明治天皇が極めて好奇心の旺盛な人間であった例として挙げられて
いるわけです。

 そういう話が伝えられているけれども、そこで現れてくるのは、銀座を意
図的に国家的な祝祭空間としてつくっていったということ、それから明治天
皇のある種の積極性です。そうして上野でやたらに博覧会などを開くことに
よって、南の汐留からくる物流をそこで一回日本化する。たまり場をつくっ
ていくというかたちで空間の再編成をしながら、都市がつくり変えられてい
くという過程がうかがわれるのですが、それが天皇制のイニシアティヴにお
いて行われたという事実が見えてくる。

猪瀬――そして田園調布の街並みが大正時代に登場する、これが西洋のいろ
いろな……。

山口――そういう問題があなたの西武の問題にだんだんつながってくるわけ
です。だから、僕がいま出したのは、その西武の問題に対する伏線としてな
んです。都市の持っている天皇制と直結する部分と、後で述べるように、反
秩序というよりも反天皇制的なものを潜在的に持っている東宝の小林一三の
スタイルと、それから天皇制の裏腹にピタッとくっついた猪瀬さんの言うと
ころの西武的なイメージ。そういうものがしだいしだいに形成されていく前
提が用意される過程としての大正時代、という問題があると思うんです。

 そういう明治の秩序形成に対して、大正は一種のデカダンスというものを
都市に導入してきた。


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〔編集部より〕

 本書は1986年12月、『週刊読書人』新年特大号のために行った対談をきっ
かけに、数度にわたる対話をまとめて翌年、平凡社から刊行された。

 90年、昭和天皇崩御を受けた新たな対談と脚注を加えて新潮社から文庫化
された。さらに98年に刊行された小学館文庫版では、英国のダイアナ元妃を
扱った対談を巻頭に加えて収録した。また山口さんが亡くなった直後の昨年
4月には、改めて小学館文庫版が増刷され、入手可能となっている。
アマゾンはこちらから→ http://goo.gl/kf73c2  

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