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 みなさん、ご存じですか?
 これからは「男性学」の時代です。
 ぼくたち男性は、知らず知らずのうちに「ジェンダー」というものに縛られ、生きています。
 ジェンダーとはぼくたちが社会から刷り込まれた、「男らしさ/女らしさ」という悪しき価値観。
 しかしこれからの時代、「男らしさ」より「自分らしさ」です。
 自治体の方々、年度予算の捨て場に困ったら、市民セミナーで私の「男性学講座」などいかがでしょう?
 高齢者からお年寄りまで、ためになる講義をご提供できること請けあいです。
 ほら、蕎麦打ちの講習とかもういいでしょ? 子供の養育費も払わなきゃいけないし、ね、お願いっ!!

 ――というわけで、以前から繰り返しているように、バブルのちょっと後くらいに「メンズリブ」というのが少しだけ流行した時期がありました。彼らは「男の生きがたさについて考える」と称しつつ、しかし結局は「フェミニズムに平身低頭すれば、お前たち罪深き男性も救われるぞ」という結論しか用意しておりませんでした。
 言ってみれば「脱成長」ならぬ「脱男性」。いや、事実そうしたタイトルの本が、この当時にあったのです。
『エヴァンゲリオン』の上映会に行ったら、ヘンな宗教に誘われた、といった感がなきにしもあらずです。恐らく当時はフェミ予算が潤沢で、事業拡大のために荷物持ちが欲しかったんでしょう。
 そんな「メンズリブ」運動では当時、伊藤公雄師匠が「男性学」の第一人者と自称しておりました。
 が、実際に日本で一番最初に「男性学」を構築しようとしたのは渡辺恒夫教授だったのです。彼は『男性学の挑戦』という本も編みましたが、しかし「男性の生命が女性のそれより遙かに軽視されていること」などを指摘し、フェミニストたちにバッシングを受け、表舞台から姿を消していったのです*1。
 むろん、この「メンズリブ」の流行は数年で過ぎ去り、フェミニストたちも「フェミニズムは男性をも救う」などとはすっかり口にしなくなりました。
 ところが実は、去年辺りからこれがまた、復活の兆しがあるようです。 昨今は「メンズリブ」という呼称は聞かれず、「マスキュリニズム」と呼ばれることが多いような気がしますし、本書においては専ら「男性学」とのフレーズが連呼されていますが。
 しかしここまでフェミニズムが撤退戦を続ける中、何故男性学がまさかの復活を遂げたのでしょうか……?

*1 千田有紀師匠『ジェンダー論をつかむ』では

日本で男性学を提唱したのは,伊藤公雄です。

 と書かれていますが、さすがにこれはアンフェアだと思います。
 ただし、先に挙げた「脱男性」を唱えたのはこの渡辺恒夫教授でした。今にして思えば彼も左派寄りではあったのですが、しかしその思想は決して男性を憎悪するものではありませんでした。


 さて、そんなわけで今回ご紹介するのはつい先日に出版された、田中俊之師匠の『男がつらいよ』。ですが、まあ、何と言いますか、先に挙げた伊藤師匠の90年代の著作、『〈男らしさ〉のゆくえ』とキホン、言っていることは変わりません。
 例えば、「男は黙ってサッポロビール」、「24時間戦えますか」といったキャッチコピーを持ち出し、「そうした頑固さ、マチズモアピールは古い」と腐すなど。若い方はご存じないでしょうが、それぞれ70年、80年代のCMのキャッチコピーです。しかし実は、この論調は既に二十年前の「メンズリブ」で盛んになされてた「古い」モノであり、このこと自体が彼らがこの二十年間一歩も先に進んでいないことを雄弁に物語っています。
(ただし、バブル期に打たれたリゲインの「24時間戦えますか」のCMが今風に改訂され「3、4時間」になったこと、本書がそれに好意的に言及していることなどを見ると、彼らのまさかの復活の裏事情も、何とはなしに透けて見えてきます)
 この種の本の通例通り、師匠は男性への苛烈な憎悪を隠そうとはしません。
 師匠は「男は好戦的だ好戦的だ」と繰り返し、ガンの飛ばしあいに終止符を打つべく、「目があったら微笑みかけよう運動」というものを提唱します。しかし、見ていくと好戦的に他人へと攻撃を仕掛けているのは師匠自身の方であるように、ぼくには見えるのですが。事実、この運動について書かれた箇所でも「誤って女性がやると軽くストーキングされる恐れがあります。ご注意ください。」と男性を犯罪者扱いすることを忘れません。
 オッサンの間で「最近の若年男性は草食系男子だからオヤジがモテるぞ」との風説が流布しているが(してるんでしょうか?)真に受けるな、女の子に若いと言われたあなた、うぬぼれるな、今の子は優しいからお世辞を言っているのだ、などと根拠のわからぬ断定をしたりします。

言葉通りに真に受けて積極的にアプローチすればセクハラ間違いなしです。
(中略)
アルバイト先などで問題が起こらないように。女子学生には中高年男性に年齢を聞かれたら、語気を荒げて「年相応だよ!」と答えるように指導しています。(p166)


 これ、ぱっと見では「女の子が自分の年齢を聞かれた時」と読めるのですが、どうも文脈からするに、「オッサンが女の子に自分がどれくらいの年齢に見えるかを聞いた時」という状況を想定しているようです。しかしこんな「指導」では起こらなくてもいい問題が起こるだけだと思うのですが、今の子は聡いですから、こんな愚かしい「指導」は黙ってスルーすることでしょう。

 私は大学でジェンダー論を教える立場ですから、講義で学生に、「女性が男性を無意味に持ち上げてしまうから、いつまでたっても男女平等が実現しない面があると伝えました。(p41)


 すると女子大生から「女が男に『すごい』というのはバカにして言っているのだ」とのコメントを頂戴し、「目が覚めるような思い」がした師匠は、


「すごいね」の後ろに隠された「バカだね」を省略せずに、「すごいバカだね」とはっきりいってあげるのは有効な手段だと思います。(p44)


 と絶叫するのです。
 一つだけ言えるのは今時、他人に無用なケンカを売って歩くマッチョな男は絶滅危惧種ですが、田中俊之師匠こそがその貴重な一人である、ということでしょう。
 すごいバカだね(ニッコリ

 暗澹たる想いでページをめくり続けると、二章は「仕事がつらい」と題され、男の幸福度が女のそれよりも低いという『平成26年度版 男女共同参画白書』の調査を持ち出します。
 ん? 少しは期待できるかな?
 が、師匠は

性別よりも就業状態が幸福度に大きな影響を与えているのですから、この数字は男性が不幸かどうかを判断する上で、それほど参考にならないといっていいでしょう。(p74)


 と断言してしまうのです。
 失業者の幸福度が最も低く、男女差があまりないことを論拠にしているのですが、おかしな話です。パラメータに「主婦」の項がある以上、ここでいう女性の失業者は未婚女性に限られるはずだし、主婦の幸福度が高い(正規雇用者の倍近い)こと、また女性においては「退職者」の幸福度が主婦と同じくらいに高い(当たり前ですが、男性のそれは極めて低い)ことを考えると、全く非論理的な主張と言うしかないでしょう。

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 上の図は本書からの引用ですが、これを見ても一目瞭然であるように、また師匠も指摘する通り、正規雇用者以外は全て、圧倒的に女性の幸福度が高いのですから、誰がどう見ても、「女性は男性よりも幸福である」、「働くことは幸福にはつながりにくい」という結論以外はないはずです。
 どうもこの「男の方が不幸だ」という数字がNHKの番組で話題になったようで、この箇所自体、その火消しのために大慌てで書かれたもののようです
(それにしても「主婦」の項と「退職者」の項があるということは、女性のそれは旦那のいない一人暮らしのみの数字なんですかね)
 その後は日本の就労形態はおかしい、「社会人」という呼称はおかしいなどのご高説が続きます。要は「日本人は働きすぎだ」というアレですね。なるほど、それ自体は異を唱えるつもりはありません。となると、女性に対しても盲目的な社会進出をよしとはしないのかな……と思っていると、「女の非正規の方が多い、女の方が大変」などと言い出しており(102p)、まあ、お察しです。

 一方、SMAPのバラドル路線を称揚していることが象徴するように、本書はキホン、「若者たちの味方」といったスタンスを取り続けます。
 しかし、いかに師匠が草食系男子を持ち上げようとも、当の女性が草食系男子を愛さないのは事実です。女性誌の特集におけるそうした傾向を腐している辺りはまあ、評価できるのですが、この種の論者に共通の致命的欠陥で、師匠には女性こそ伝統的ジェンダー規範から一歩も動かず、その旨味を存分に味わっている側だ、という視点が決定的に欠落しています。そこを見ずに男性ジェンダーだけを腐し続けたところで、解決する問題は何一つないでしょう。
 読んでいて奇妙なのは、『スラムダンク』*2の木暮君を持ち出し、彼に人気がない、女性のみなさん、ファンになってやってくれと哀願する箇所です(節タイトルは「木暮君の良さを理解してもらいたい」です)。

 地味です。確かに地味ではあります。しかし、魅力的だなと思った女性もいるのではないでしょうか。そうした判断をもっと信じてください。世間でいわれている理想の男性像がどのようなものであっても、自分と相性があうかどうかは全く別問題なのです。(p144)


 木暮君にここまで萌える人というのを、ぼくは初めて見ました。
 ここは、「草食系男子」という概念に萌える森岡正博師匠が「女性たちよ、目覚めて(草食系男子のよさをわかって)くれー!!」と哀願し続ける奇書、『最後の恋は草食系男子が持ってくる』を想起させます*3。
 何と言うか、女性に「本当は俺のこと、好きなんだろ? 素直になれよ」としつこくつきまとうストーカー男みたいで、見ていてキモいです
 彼らから見て取れるのはフェミニスト村で村の掟を盲信して育ってきた者たちが、いよいよその掟と現実との齟齬を無視できなくなり、どうつじつまあわせをしていいか悩んでいる、痛ましい姿です*4。
 事実、第3章は「結婚がつらい」と題され、男性が女性の「優しくて、自分をリードしてくれる人がいい」というダブルスタンダードな欲求に苦しめられていると指摘しており、まあまあここは評価できますが、「今まで男が勝手だったのだ」などと言い逃れるのは忘れません。以降も「女に夢を見すぎるな、お前の女に対する理想は本当のお前のものではない(メディアなどにすり込まれたものだ?)」との珍妙なお説教が続きます。

*2 師匠は妙に『スラダン』が好きで、わざわざ「今の若い子に『スラダン』の話は通じない」と嘆き、また

 ただ、若い人にいいたいことがあります。このマンガを読んでいないなんて人生を損しています。上司と話をあわせるためにも、ぜひ学生のうちに全巻読破しておいてください。よろしくお願いします。

 とまで言っています。あまりに唐突な『スラダン』推しが奇妙でつい引用してしまいましたが、田中師匠、ご当人自身が嫌悪している「ウザいオヤジ」そのままではないでしょうか。
*3 『最後の恋は草食系男子が持ってくる』
*4 時々、ぼくはリベラル寄りの御仁でフェミニズムの欺瞞に気づきつつ、捨てきれない人々をライダーマンに準えてきましたが、その意味で彼らもまた、ライダーマンであると言えます。


 いえ、とは言え、「若年男性を誉めてるんだからいいじゃん」といった評も可能かも知れません。
 90年代当時の「メンズリブ」では論者たち(多くは団塊の世代だったでしょうか)が目上の「老害ジジイ」どものマチズモを叩き、返す刀で若者たちをも一刀両断、裏腹に自分たちだけは男の中でもマシな部類だと強弁する(彼らのヒーローであろう健さんがCMなどでソフト路線になったことを持ち上げるなど)という醜悪奇怪な論調が目立っておりました。本書のスタンスは、それよりマシだとも言えるでしょう。
 事実、第4章「価値観の違いがつらい」ではオタクについても語られていますが、キホンは肯定的です。
 なるほど、田中師匠はオタクの理解者なのだな。
 ……いえ。
 実のところ、ぼくが田中師匠の著作を採り挙げるのは、これが初めてではありません。
 随分昔、『男性学の新展開』という本についても採り挙げたことがあります*5。
 しかし……ここで師匠は、「オタクはホモじゃないのでケシカラン」と書いておりました。いえ、これはかなり大幅な意訳ではあるのですが、要するに「オタクは男性のヒエラルキーの中では下だ。しかし同性愛者のような真のマイノリティとは違い、しょせんは罪深きヘテロセクシャル男性の一味なのだ」といった摩訶不思議な「評論」がなされていたのです。
 さすがに今回、そうしたdisがナシなのは、オタクの社会的地位の向上の結果ではあるでしょう。
 が、もう一つ、理由があると思うのです。
 昨今、「脱成長」を唱えたい左派が、貧困に喘いでいる人に「清貧を貫け」と心ない言葉をぶつける傾向があるように思います。これは「弱者」と称する金蔓からの既得権益が捨てがたく、今更「弱者地図」のアップデートができない人々にも、全く同じことが言えるでしょう。
 それは上野千鶴子師匠の子分である古市憲寿師匠が「牛丼福祉論」を唱えたり、或いはオタクブロガーの海燕師匠が「オタクはリア充だ、不平を言うな」と絶叫したり、或いはまた弱者男性の「このままでは死にます/一生童貞です」との訴えに、左派やフェミニストが「はい死んでね/童貞でいてね」と返していたりといった状況として、顕在化しています。
 それこそが目下、いきなり「男性学」が復活してきたことの原因ではないでしょうか。
 本書の第1章の節を見ていくと「競争を宿命づけられて」「競争の果てに残ったもの」と題され、とにもかくにも競争原理が悪しきこととして否定されています。第3章「結婚がつらい」では「結婚ばかりが幸せではない云々」と下らないお説教が続きます。先に引用した女子学生への「指導」は男女関係を破綻させるものではあっても、豊かにするものではありません。第4章「価値観の違いがつらい」では、よりにもよってオタクの生き方を「アトミズムだからエラい(大意)」というトンデモない理由で称揚しています(192p)。
 自分以外の男性には「脱男性」を説きつつ、自分一人だけは無反省にマチズモを振り回す「脱男性ニキ」、田中俊之師匠。
 そして、自分以外の人々には「脱成長」を説きつつ、自分たちだけは既得権益を守ろうとする「脱成長ニキ」たち。
 脱成長ニキたちから「男たちよ、成長戦略はもう止めよ」と言ってほしくて、脱男性ニキにおこずかいが行っている
 想像ですが、それこそが「男性学」復活の原因なのではないでしょうか。

*5 『男性学の新展開』