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 先月(10月)の18日、以下のような記事が載りました。

わいせつか表現の自由か
ろくでなし子さん釈放トーク


 もう旧聞に属しますが、3Dプリンタで自らの女性器のデータを配布して逮捕された御仁ですね。

 ――ん? いいよ、ろくでなし子についてはもう飽きた。

 まあ、ぼくもそれには賛成なのですが、問題は掲載紙です。
『毎日変態新聞』……えぇと、『毎日変態よい子新聞』……。
 ではなく……はいはい、やっとわかりました。
 掲載紙は『毎日小学生新聞』でした。
 以下、記事を抜き出してみましょう。

 (前略)アーティストのろくでなし子さんが今月4日、現代美術ギャラリーの「新宿眼科画廊」(東京都新宿区)で「祝・釈放トーク〈ワイセツって何ですか?〉」を開催した。オリジナルキヤラクター「まんこちゃん」の特大着ぐるみと一緒に女性警察官のコスプレで登場し、(中略)ユーモラスに語り、笑いを誘った。
       
 ろくでなし子さんは、性器をかたどってアートにする「デコまん」で知られる。女性器を意味するまんこという言葉が、伏せ字にされたり隠されたりするのはおかしいと疑問を抱いたことが活動の原動カだ。


 以上、記事自体はどこぞのアーティストの前衛芸術同様、毒にも薬にもならないものですが、しかし読者対象を小学生にした新聞でこれは、どうなのでしょう。
 厳密に言うと本記事が掲載されたのは「15歳のニュース」と呼ばれる、毎週土曜に発行される特別版(?)のようなものらしいのですが、にしても『小学生新聞』を取っている者には配達されるのでは? 或いは土曜版はそれだけで独立して契約してるのでしょうか? いや、そもそも15歳にこれを読ませるのもどうなんだって話ですが。
 しかしこれが大した問題になってないってことは、今時の父兄はこういうの、どうでもいい、と思ってるんですかね。

 ぼくはここしばらく、オタク界のトップの流布するラディカル/リベラルフェミニストについての言説のウソについて、あちこちで書いてきました。
 彼ら彼女らは「リベラルフェミニスト」を「ポルノに寛容なフェミニスト」とでも言った意味で使っており、その定義は間違いだ、と指摘し続けてきました。
 そして更に、自らをリベフェミであるとミスリードしたがるフェミニストたちも、実は本当に「ポルノに寛容なフェミニスト」かとなるとそれは違う、オタクフェミニストのトップと言ってよかろう藤本由香里師匠もドウォーキンの主張を肯定的に引用している、といった指摘も、繰り返してきたかと思います*1。
 しかし。
 では、彼女らはオタクたちを騙しているペテン師かとなると、それは恐らく、そうではない。彼女らは自身を「ポルノに寛容なフェミニスト」であると、恐らくホンキで信じ込んでいるはずです。
 ただし、では彼女らがぼくたちの思う「ポルノ」を守ってくれるかとなると、それは疑問なのです。

 ――おいおい、一体どういうことだ?

 はいはい、以下、順を追って説明して参ります。
 ろくでなし師匠は、今見たように小学生に対して「ま○こまん○」と繰り返して恥じない人です。いや、この記事自体は師匠が書いたわけではないですが、当然、掲載にOKを出しているはずですから。
 また、彼女と(過度に同一視するのもよくないとは言え)非常に親しく、スタンスも近しいと思われる北原みのり師匠を見ても、それはわかるでしょう。
 このみのり師匠もまたろくでなし師匠同様、「エロキャラ」的なキャラづけをしている御仁ですが、同時に彼女自身、今回の『毎日変態よい子新聞』に非常に近しいことを行っておりました。
 彼女自身のインターネットラジオ「婆星」における自己申告でしか知らないのですが、彼女は数年前、「過激な性教育」が問題になった時、

(私も)小学校で講演したことありますからね。
「南青山四丁目に住んでいる某という女が、小学校でコンドームとか、チンコとかマンコとか言っていた!」という風に(新聞に)書かれるのも時間の問題なのかしら?


 と自らおっしゃっていたのです*2。
 まあ、揃いも揃って何と申しますか、「アレ」な人々ですね。
 さて、当ブログをずっと見てきてくださった方は、我らが藤本由香里師匠、そして上野千鶴子師匠もこれに近しいことをしたのを、思い出すのではないでしょうか。
 そう、堺市の図書館でBL本の廃棄に反対した件ですね*3。
 ここで、彼女らはBL本を小学生が借りられるような状況にせよと主張しました。
 これではフェミニストたちが男児への性的虐待をスルーしてしまうのも、無理はありません。

 ――おい兵頭、結局彼女らは(言動の是非は置くとして)エロには寛容であり、その意味ではオタクの味方とは言えるんじゃないのか?

 いえ、それは疑問です。
 ろくでなし師匠は一連の事件の直前、

(´-`).。oO(性器のアートはじぶんの身体性をとりもどしたくてやっている。とことんじぶんのため。欲望の対象として性を表現してる人に「僕も女性器をモチーフにしてるので仲間」と言われても、全く話がちがうんだよなぁ
https://twitter.com/6d745/status/483375281122455552


 といった発言もしています。
 そもそも一連の事件がオタク界隈で失笑を持って迎えられたのは、つい最近もみのり師匠がオタク系のエロ表現を批判していたからです*4。
 しかしそこへ持ってきてろくでなし師匠が逮捕されたとあっては、ブーメランという他ない。それが一般的なオタクの反応だったと思います。

 ――おい、結局、フェミニストたちはエロが好きなのか嫌いなのかどっちだ? まさか二次元の非実在の美少女への性的虐待はまかりならんが、三次元の実在の子供への性的虐待はOK、というスタンスではあるまい?

 フェミニストたちの行動は矛盾だらけで、(オタクも含め)一般的な人々は混乱してしまいますよね。
 彼女らの本心を一言で説明すると、「自分たちのようなジェンダーフリーや男女平等の観念を理解している者の性表現はOKミソジナスな悪者たちの性表現はNG」という辺りが、正直なところではないかと思います。
 一応、左派であるフェミニストたちは、理念としては「法による規制は好ましくない」と考えていると思います。また、藤本師匠などは(これはあくまで善意に基づいた想像ですが)恐らく男性向けの性表現と言えど、守るべきと考えていると思います。
 が、同時にそうしたポルノを作る男性の性意識そのものを変えてしまいたい、というのが彼女らの本心のはずです。
 ――つまり、フェミもエロは好きだが、その「好み」はぼくたち男性とは違う、としか言いようがないわけです。
 ぼくの主張に反対するリベラル様が上の図書館のBL本の件を持ち出し、藤本師匠はオタクの味方だ、と強弁していましたが、この時にフェミニストたちが持ち出したロジックは「図書館の振る舞いはホモ差別だ」というものでした。ろくでなし師匠を擁護する『毎日変態よい子新聞』の記事同様、ポルノ全般を守るのには使えないレトリックなのですね。

*1 『快楽電流』(http://blog.goo.ne.jp/hyodoshinji/e/d651c19304ede601658c165183f4fab2
 ちなみにこの問題については、その藤本師匠とも少々やり取りしたのですが、残念ながら残念な結果に終わってしまいました。詳しくは前回記事(http://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar636635)をご覧ください。
*2 ご当人のサイトにまだ残っているかどうか不明ですが、「みのりっちの華麗な世界(http://www.nicovideo.jp/watch/sm15751861)」の2分50秒辺りから聞くことができます。
*3『今さら堺市立図書館BL本問題』(http://blog.goo.ne.jp/hyodoshinji/e/85d3a25b43042c67bb2c6af106d99632
*4 ロリコン大国日本の現実 業者も「思考停止しないと…」(http://dot.asahi.com/aera/2014062300056.html


 ろくでなし師匠に立ち返りましょう。
 上の記事の引用でもわかるように、そもそも彼女の目的は「女性器が手足と同等の意味づけしか持たない世界を作ること」です。それは言わばポルノの解体――否、女性器に欲望を喚起されられるという、ぼくたちのセクシュアリティの根源的な解体への志向です。
 乙武洋匡さんは『五体不満足』で自らの学園生活を振り返り、「慣れ」が大事だと述べています。当初はぎこちなかったクラスメートたちと、乙武さんは次第に打ち解けていき、「対等なガチのケンカ」までするようになった、というのです。
 つまり、乙武さんは自らのような性格の悪い障害者が社会進出することで、社会の「障害者=聖者論」に穴を開けようとしているのです。
 同様にろくでなし師匠の戦略は自ら「ま○こアート」を晒すことで女性器や女性への嫌悪感を催させようというモノであると言えましょう。
 しかし、乙武さんの主張は大変に素晴らしいと思いますが、果たしてろくでなし師匠のそれは、素晴らしいことでしょうか。
 まず、問題は彼女らがどれだけ「女性器への欲情を止めよ」とすり込もうとしても、それがそう簡単に受け容れられるとは思えないこと。
 そしてまた、セクシュアリティの根源的な解体というのが具体的にはどういったことなのか、あまりに壮大すぎて、あまりに空論すぎて想像もつかないのですが、それを果たし終えた後の世界が、そんなに素晴らしいものだとは思えないこと。
 そもそもそうなった後の世界では、二次元美少女に「萌え」るぼくたちの心性自身が「解体」されていないとは考えにくく、その意味でやはり彼女らがオタクの味方だとは考えにくいこと。
 こうして見てくると、やはり師匠のやろうとしていることは机上論であると共に、あまり素晴らしい未来図を描けるものとは思えません。


 更に――ずっと当ブログをお読みの方はもうおわかりでしょうが、これは「ジェンダーフリー」と全く同じ構造を持っています。
 フェミニストたちはゼロ年代、行政に入り込み、強引なジェンダーフリー教育を推進してきました(それで主夫が増えたという話は寡聞にして聞きませんが)。また、同様に推進された「過激な性教育」があまりに非道いということで保守派の逆鱗に触れ、それが一時期のフェミニズム批判へとつながったことは記憶に新しいかと思います。
 まず、人間のジェンダー、セクシュアリティが根源的に間違っているので、それを完全にリセットしなければならない、というのがフェミニズムの世界観です。
 ならば、それを正すにはまだ脳への書き込みが十全でない子供に、「正しい価値観」を植えつけてやるのが早道です。彼女らを放置すれば、幼い子供を相手に人体実験を始めるのは必然だったのです*5。
 茶化してしまえば彼女らは初物狙いの「処女厨」であり、そもそもペドファイルと親和性のある存在であった、と言う他ありません。
 ――つまり、フェミもエロは好きだが、その「好み」はぼくたち男性とは違う、そしてその「好み」はぼくたちよりも反社会的なモノなのではないか……としか言いようがないわけです。
 藤本師匠もまたセクシュアリティの、家庭の解体を強く指向していることは、以前ぼくが語った通りです*6。
 つまり、オタクの怨敵であるみのり師匠と、オタクの味方であるはずの藤本師匠。
 この両者には、全く差違がないように、ぼくには思われるのです。
 両者のスタンスに違いはほとんどありません。
 それをぼくたちはまず、認めましょう。


*5『宇宙刑事シャイダー』に出て来る悪の組織「フーマ」は宗教的手段でもって地球人が自分たちを崇め、自分たちの価値観を受け容れさせるように仕向けることで地球を侵略しようとしますが、何だかそれを連想させます。
*6『私の居場所はどこにあるの?』(http://blog.goo.ne.jp/hyodoshinji/m/201204


 さて――そして以下も、毎度おなじみの指摘なので、もうおわかりの方も多いかと思いますが――そうした「セクシュアリティの解体」を、それでは本当にフェミニストたちが望んでいるのか、となるとそれは大いに疑問です。
 それは多くの腐女子たちが美少女キャラにも「萌え」ることが普通であることを、藤本師匠が『セラムン』に「萌え」ていたことを思い出した時、容易に理解できるはずです。
 上にも書いたように、ろくでなし師匠に、みのり師匠に「エロキャラ」として取材を受ける、男性インタビュアーにちやほやされることに対する快感がないかとなると、それは疑わしいでしょう。『デコまん』*7でご紹介したように、取材を受けて「私はアイドル!」と喜ぶろくでなし師匠の無邪気な姿は、あまりにも無防備です(上野師匠辺りの世代はかなりツンデレだったのが、彼女らはかなりデレている、チョロイン化しているように思います。これ自体は皮肉でも何でもなくいいことだと思うのですが)。
 ここまで世の中をシッチャカメッチャカに引っ掻き回しておきながら、フェミニストたちが自らの主張するロジックを信じているかとなると、ぼくは恐らくそうではないと思うのです。
 ――つまり、先ほどから言ってきたことを訂正するならば、フェミもエロは好きであり、その「好み」はぼくたち男性と同じである。しかし「ツンデレ」でその本心を否認するために「レトリック」で誤魔化している、そしてその「レトリック」はいつしかぼくたちよりも反社会的なモノになっていった……というのが正しいところであるように思えるわけです。
 ただし、彼女らの中にそうした自覚は一切なく、自分の口先から出て来る言葉を、本人たちも信じ切っているように思えるのですが。
 何と言いますか、小保方さんがこれだけ日本中を引っ掻き回し、あと十年もしたらテレビの「あの人は今」で「小料理屋の女将」として紹介されている、みたいな図をつい、想像してしまいます。
 もっとも、女将に納まれるのは彼女ら「強者女性」だけで、彼女らに引っ掻き回されるだけ引っ掻き回された世の多くの男女たちは結婚も敵わず、一生を孤独に過ごすことになるかと、思われるのですが。

*7『デコまん』(http://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar595540