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 チンポ騎士団の皆さん、コンニチハ。
 相手の発言を捏造することでしか守れなくなった正義、いまだ皆さんの糊口をしのぐ道具にはなっているのでしょうか?
 そうしたマネで食べていけるご身分、大変に羨ましゅうございます。
 それにしてもアレですね、呼べば来るお友だちが大勢いらっしゃるのも羨ましゅうございますな。
 確かことの発端はぼくが「ホモソーシャル何たら」といった物言いを批判したことにご立腹になり、しかし有効な反論ができず、こちらの発言を捏造して叩き始めた、ということでしたが、きっと皆さんのご関係は「ホモソーシャル」とは根源から異なる、「真の友情」なのでしょうね(この辺のことは前回前々回記事を参照。「星新一」に惹かれてやってきた方は飛ばしてくださって差し支えありません)。
 さて、そういうわけで今回のテーマは「ホモソーシャル」です。
 以前、ぼくは映画『テッド』をレビューしました。

 一方、ジョンとデートしても、コブのようにテッドがくっついてくる。ジョンとテッドがギャグを飛ばし笑いあっているのにロリーが乗っかると、いきなり冷める両者。女のギャグと男のギャグのジェンダーギャップが原因で、ホモソーシャルな二人に阻害される女性、といった図式です。

 以上に評したように、『テッド』はのび太君を巡っての、しずかちゃんとドラえもんのバトル、言ってみればヘテロセクシャルとホモソーシャルのバトルを描いた話でした。全体的には疑問符もつくものの、上に挙げたシーンはなかなかよくできていたと思います。
 で、そうなるとどうしても、ふと疑問を覚えずにはおれません。

「女のギャグって、なんであんなにつまらないんだろうなあ」

 ――と。
『エンタの神様』とか、その意味で想像するに「視聴者は女だけ」と設定して成功した例なのではないでしょうか。何にせよ女性に受けるギャグというのは「あるあるネタ」で、彼女らは笑うと言うよりはそれを聞いて共感することに他者とのつながりを感じ、安心感を見出したいんじゃないでしょうかね。
 となると、男のギャグの本質は一体何なのでしょうか。
 随分昔、とあるCMで六、七歳くらいの男の子が笑いを取ろうと過剰におどけた仕草をしているのを見て、ムカついて殴り殺してやりたい衝動を抑えるのに苦労したことがあります。そのクソガキの「どう? 面白いでしょ?」とこちらに媚びる顔が不快でならなかったわけですね。しかし考えるとそもそも、子供は大人に媚びることが仕事です。女の子はその可愛らしさでずっと、下手をすると一生周囲に愛される。しかし男の子はかなり早い時期からそうした方策を放棄して、何らかの工夫をもって媚びねばならなくなる。
 端的に言えば、男の子はかなり早い時期に「お色気タレント」から「お笑いタレント」への転換を迫られる存在なのです。
 それを踏まえて件のCMの男の子の過剰な媚びを考えてみると、何だか切なくなってきますね。あの少年を、抱きしめてやりたい衝動に駆られます(どっちやねん!)。
 また同時に、男同士でギャグを飛ばしあうのはある種、事態を笑いに転化することで自己を守るA.T.フィールド的なところがある。シリアスな状況を茶化して誤魔化す、というようなことですね。
 ギャグとは物事の本質を茶化し、距離を取ることであり、また距離を取った相手との間合いを計る(お色気タレントとして売れなくなったので、お笑いタレントに転向してまた自分の番組を見てもらうための)方策なのです。
 しかしそうなると「女のギャグがつまらない」理由も明らかになってきます。
 それは彼女らはお色気タレントでお笑いタレントではないからであり、(あるあるネタが象徴するように)融和的で距離を取る必要がないから、なのです。
 となると、フェミニズムとはお笑いの苦労を知らない女性の、「突っ立っているだけで笑いが取れないとは女性サベツだ」との無理難題であるとすら極言できますね。

 さて、ちょっと思ったのですが、こうなると「ギャグデレ」という新ジャンルの開拓が可能ではないでしょうか。
 ツンデレとは素直じゃない女の子が「ツン」という仮面を被り、またそれを脱いで「デレ」るところが醍醐味の表現です。
 距離を取るという意味では両方とも、本質は同じです。
 と、探してみると……はい、ありました。
 今回ご紹介する「宇宙の男たち」がそれです。
 星新一のショートショートの一編です。彼の作品は言うまでもなく皮肉を効かせたストーリーがキモなのですが、しかしそんな中、ぽつぽつといわゆる「いい話」もあります。例えば「鍵」、「箱」、「午後の恐竜」などはそうした「いい話」であり、この種の作品はファンの評価もどうしても高くなりがちです(比喩として適切かどうかはわかりませんが、『ウルトラセブン』の中でも異色作の「ノンマルトの使者」が語られがちなのと近いですね)。
 が、本作はそんな中でも、今一語られることの少ない、マイナーな話に属すように思われます。それは恐らく「いい話」であると共にある種、星新一らしいアイロニー全開の話でもあるからではないか……という気もします。更に言えば皮肉に皮肉を重ねた後に泣かせどころへと持っていく話なんて、いかにも今風な気もしますが。
 さて、以下、ネタバレを含めストーリーをご紹介することにしましょう。

 タイトルを見てもわかる通り、お話はSF。
 登場人物は若い男性と老年に差しかかった男性の二人だけ。
 若者は広い宇宙を駆け巡ることを夢見て、地球圏近辺で「宇宙タクシー」的な仕事に就いています。老人は木星の衛星で長らく働いてきたが、老境に差しかかり、余生を地球で送ろうとそのタクシーであるロケットに乗った人物。
 二人は常にギャグを飛ばしあっています。親子ほども年齢の離れた二人がどういうわけか馬があって、仲よくしているシーンは読んでいるだけで楽しくなってきます。
 が、何故そこまで二人はギャグを飛ばしあうのか?
 宇宙船での航行は非常に退屈極まるモノであり、それをしのぐためには誰もが自らピエロとなって相手を楽しませねばならない、それが宇宙の男たちの流儀なのだ、と説明されます。突発的な事故が起こってもジョークを言う二人は頼もしいと共に、何だか諦念(大げさに騒いでもどうにもならないと知っているその覚悟)をも感じさせます。
 が、同時に星新一は度々、エッセイなどで当時(高度経済成長期)の日本人が欧米人に比べジョークで相手を楽しませるサービス精神に欠けていることを嘆いており、これは彼の理想像でもあったのでしょう。

 しかし……この「ギャグ」の応酬はストーリーの進行に伴い、また異なる機能を持ってきます。
 このタイミングで申し上げるのもナンですが、本作は「ホモソーシャル」のお話です。
 いえ、それは違いました。正確には「ホモソーシャル」という概念がいかに醜いかということを暴き立てる物語なのです。
 ある時、ツイッターでフェミニスト男性が秀逸なことを言っていました。
「ホモソーシャルという概念に対し、レズソーシャルなどという言葉をぶつけてくる輩がいる。女同士の方がつるむ性質が強いぞとのドヤ顔での指摘なのだが、とんでもない。フェミニズムがホモソーシャルを批判するのはそれにより男たちが女性たちを排除し、利益を独占しているからなのだ(大意)」。
 語るに落ちるというか、語ってしまうと必ず落ちるのがフェミニズムであるということを、この男性の発言はよく現しています(逆にフェミニストはそこをわかっていて寡黙である気がします)。
「ホモソーシャル」という言葉が使われる時、基本的には「会社社会などが女性に対して排他的である」という文脈で使われます。むろん一度誕生してしまえば言葉というのはその焦点がぼやけ、今では「叩きたいがリクツでは敵わない相手が『ガンダム』とか言った時、その発言をねじ曲げて叩く」などといった時に使われる言葉となっておりますが。
 しかし「男たちが不当な方法で利益を独占し、女性たちを排除している」という彼女らの主張が事実であるのなら、正々堂々とそこを指摘すればよいのです。そんな事実がないからこそ、「そうした事実を生んでいる男たちの傾向」を捏造し、バッシングするという迂回路を辿らねばならないのです。「ミソジニー」もそうですが、もはやフェミニズムの用語は「非実在サベツを捏造するためのロジック」以上の意味を持たないところにまで堕ちてしまっています。
 本稿の目的も、この「ホモソーシャル」というこの世でもっとも醜い概念を、この世で最も美しいお話を紹介することで粉砕するところにあります。
 さて、ストーリーの紹介に戻る前にまず、星新一についてちょっと解説をしておきましょう。
 星新一は年齢の離れた亡父に強い影響を受けていました。彼の父親は星製薬の社長として一世を風靡しながら官憲に弾圧され、非業の死を遂げた人物です。彼は大正の生まれであり、当然、父親は明治の生まれ。星新一にとって父親は厳格で、自分から遠い存在でした。その意味で「父子ほどに年の離れた人物がギャグを飛ばしあう」という本作は、著者の父子観からは遠く隔たったものであることが想像できます。
 星新一はそんな亡父に若くして会社を継がされて様々な苦難を経験し、そのため父親に複雑な感情を抱いていました。ぶっちゃければファザコンだったわけですね。
 一方で彼はまた、若い男の子に執心していたフシがあります。
「追及する男」という作品では女性的美少年が登場して、

 男でも、いや、男ならなおさら、一瞬、息をのむような気分になる。

 などと記述されます(強調引用者)。
 これはホモ趣味でももちろんなければ、小児愛でもない、オタク的な男の娘、ショタともちょっとニュアンスの違う、まあ、敢えて言えばオッサンのナルシシズム的な少年愛でしょうか。いや、例の件以降、「少年愛」という言葉は大嫌いで使いたくないのですが(小松左京、筒井康隆などとの対談では星新一には「美童趣味」があるとして、郷ひろみなどの話題で盛り上がっている箇所があります)。
 ともあれ、青年期に余人に伺い知れぬ屈折を経験してきたが故に、彼には父子関係、或いは青年に対する、妙なこだわりがあるわけですね。

 さて、お話の紹介に戻りましょう。以下、クライマックスまで全部バラしてしまいます。
 上に書いた通り、この老人と若者の楽しい旅路は、ロケットに隕石がぶつかってしまうという突発的な事故によって危機を迎えます。
 二人は救命信号を発し、助けを待って人工冬眠状態に入ることにします。が、とは言え、それは形だけのもので、実際に救出される可能性は限りなくゼロに近い。若者は遺書をしたためます。
「お父さんお母さん、志半ばですが、憧れの宇宙で死ぬことができ、ぼくは後悔していません云々」
 老人は若者が署名をしないことを訝り、その理由を尋ねます。
「署名しない方が宇宙で死んだ息子を想う多くの親たちの慰めになるでしょう」
「いや、しかし君のご両親のためにやはり署名をすべきだ」
 ここで若者は、実は自分が天涯孤独の孤児であることを明かします。遺書は自分とは縁もゆかりもない、地球に大勢いるであろう「宇宙で息子を亡くした親たち」のために書いたものだったのです。老人もその趣向に賛同、宇宙で稼いだ僅かばかりの財産を遺書に添えることを提案します。彼もまた、宇宙での労働に生涯を捧げ、財産を遺すべき家族を持たない人物でした。
 そうして「父を知らない若者」と「息子を知らない老人」の二人は人工冬眠に入りますが、眠りにつく間際、本当に最後の最後の会話を、ここに抜き出してみましょう。

「ああ、眠くなってきた。なんだか、わしにはおまえが息子のように思えてきたよ」
「わたしもあなたが……。いや、もう冗談はよしましょう。あなたは息子とはどんなものか知らないんですし、わたしも親とはどんなものか知らないんですよ」
 それから、どちらからともなく声をかけあった。
「さよなら」

 最後の最後までホンネを明かさず、冗談交じりの二人。
 その会話は洒落ているようにも、何だか切ないようにも思えます。
 先に書いたように、星新一にはどこかアメリカンなジョークを交わす人間関係への憧れがあると同時に、父親とそのような対話を持った経験があるとは、とても思えない。
 そしてまた、先に「ギャグデレ」と書きましたが、正確にはこの二人、デレられないままです。
 ギャルゲーなどで「疑似家族」オチというのがよくありますよね。孤独を抱えたキャラクターたちが運命に導かれて集い、「ぼくたちは家族だよ」とか言って終わるヤツ。
 しかしこの二人は屈折を抱えたまま、そうしたオチにたどり着けないままでした。
 何故か。
 言うまでもなく、それが男性ジェンダーというものだからでしょう。
 ジョークとは「相手が何者かもわからない七人の敵がいる家の外で、相手に害意がないことを示すためのツール」であり、「自己を守るためのA.T.フィールド」でした。それは危機と隣りあわせであるが故の、鎧です。村社会で気心の知れあった者同士で固まる日本人と異なり、アメリカ社会は雑多な人種のカオスであり、コンベンションと呼ばれる同業者の集まりが盛んに行われ、そこで語るパーティージョークなどの本に一定の需要がある……といったことも確か、星新一のエッセイで得た知識でした。
 先に『テッド』について述べました。テッドとジョンは気心の知れた幼なじみ同士ですから、こうした分析には当てはまりませんが、それでも男同士の競争社会(それは子供社会でもそうです)でそれなりに練られたジョークとしての洗練度が、ロリーとの齟齬を生じさせました。
「ホモソーシャル」とは、「危険な外界で戦うために男が命懸けで獲得したものを、安全裡に、無償で引き渡せ」と要求するためにフェミニズムが捏造した概念でした。
「BL」とは、「危険な外界で戦うために男が命懸けで獲得したものを、安全裡に、無償で物陰から覗き見てマスターベーションをする行為」でした。上に「ギャグデレ」と書きましたが、極言すれば「ギャグ」は「ツンデレ」であり、「BL」とは男同士の「ツンデレ」な愛情を「二次創作におけるセックスシーン」で補完しようという試みなのです。原作が「ツン」でBLが「デレ」なわけですね。
 ぼくは以前、『神聖モテモテ王国』を論じた記事で男同士の友情を「冷蔵庫の隅に残った大根の尻尾」と評しました。男は「家庭の主となる」ことが宿命づけられた存在であり、友情というのはある種「そうなれなかった弱者」同士の寄り添いのようなところがある、との意味でした。
 が、それはいささか甘かったようです。
 弱者男性からは大根の尻尾を奪う。
 強者男性からは、まさに上の老人が僅かばかりの財産を捧げたように、生命を賭けて獲得したものを強奪する。
 それがこの、「ホモソーシャル」という惨憺たる概念の本質であったのです。