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 暇空茜の国家賠償請求訴訟に勝訴した件がほとんど報じられず、『トランスジェンダーになりたい少女たち』や松本人志がキャンセルされつつある現代の日本。この異常極まる事態はいずれもが一本の線でつながっている……という記事を、『WiLL Online』様で書かせていただきました。

 どうぞ、応援をよろしく。

暇空茜氏のネガキャン――一本の線でつながっている!?【兵頭新児】


 さて、ここしばらくフェミニズムによる「冤罪」についての記事を再録していますが、今回から三回に渡り、少々お堅いフェミの理論書についてのレビューをお届けします。
 何と五年前、本note第一回の再録になりますが、これをお読みになることでフェミニズムの論理的過ちが、必然として冤罪を生んでいること、つまりフェミニズムとは冤罪そのものであることが、ご理解いただけるようになりましょう。
 では、そういうことで……。

     *     *     *

 先日、処女出版『矛盾社会序説』を物し、また「キモくてカネのないオッサン」「かわいそうランキング」「お気持ち案件」などの造語を次々にヒットさせ、ツイッター界では大きな影響力を持つ白饅頭ことテラケイこと御田寺圭氏。
 ぼくもまた、彼については基本、スタンス的に同じ人物として信頼感を持っておりました。
 ところが、ネット上で牟田和恵師匠が炎上した時、彼が師匠の『実践するフェミニズム』を称揚し、「かつてはまともだったのに」と述懐している*1のを見て、驚きました。
 さらには青識師匠、借金玉といっしょに持ち上げ合戦までしている始末*2
「かつてからダメだが、それでも今よりはマシであった」というのならわからないでもないけれども、「読書会をしよう」と言い出すなど、手放しの誉めよう。おいおい、まずくないか。フェミの著作がまともだなんてこと、そもそもあり得ないことであり、また師匠の悪辣さは以前、ぼくも採り挙げたところです*3
 ご当人に繰り返し、リプを送ったのですが、見事にスルー。この人、対話ぐらいはする人だと思っていたので、いささかショックでした。
 まあ、でも、確かにぼくもこの本自体は未読だったので、図書館で借りてきてようやっと読了しました。
 というわけで今回から数回に渡って、兵頭新児の一人読書会、お届けしましょう。

*1(https://twitter.com/terrakei07/status/1042613516274827265
*2 「反フェミニズムの人すら名著と推奨する「実践するフェミニズム」が高すぎて買えない件について
 借金玉についてはスタンスをよく知らんのですが、青識師匠は典型的な「自分をアンチフェミだと思い込んでいる一般フェミ」と称するべき人。まあ、結論を書いておけばテラケイ師匠もそうだったということなのでしょう。
*3『部長、その恋愛はセクハラです!』。
ぼくのレビューは(http://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar471284)(http://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar476779)。
『実践』は2001年の出版なのに対し、『部長』は2013年。以降、本稿では『部長』を「後の本」と呼ぶことにします。

 さて本書、前半(第1~2章)で「セクハラ」を、中盤(第3~4章)で「性暴力」を、後半(第5~6章)で「ポルノ(売買春)」を扱うといった具合。まずは「セクハラ」から見ていきましょう。
 が、テラケイ師匠おススメの本書、第1章の枕(リード文的なもの)からおかしな話の連続なのです。
 99年、均等法の条文に雇用主のセクハラ防止配慮義務が加わった。しかしこれは「防止義務」ではなく、被害があっても企業が防止規定を作ったり研修をしたりしていれば、「配慮はしていた」と責任逃れができ、また加害者も法的責任が問われない、と牟田師匠は嘆きます(2p)。
 しかしそもそも雇用主、企業側が個人の行いの責任を問われること自体、どうなんだという感じです。「加害者も法的責任が問われない」と文句を言っているのですが、強制わいせつで訴えればいいんじゃないでしょうか。
 この謎の主張は、本文でも延々延々、延々延々と繰り返されます。

 痴漢や一般の性暴力、夫婦間のレイプなどと比べてみるとセクハラの問題構成の「有利さ」がよくわかる。街路や電車、映画館で不幸にも痴漢やレイプの被害に遭った場合、責任を加害者本人以外に求めるのは困難だ。
(中略)
しかし、係員や駅員に助けを求めた場合は別として、個々の事件の加害責任を鉄道会社や映画館に追わせることは不可能だ。それは公道における痴漢や性暴力も同じで、例えば警察や行政機関は、明るい街灯をつけて予防する責務があるとは言えても、県道で起こったレイプや痴漢の責任が県にあるとはとても言えない。
(31p)


 いや、何を当たり前のことを、としか思えないのですが、しかし師匠はこんなことを言い出すのです。

 予防や救済という点でも、加害者本人以外に責任主体を設定しうることは大事な鍵になる。
(32p)


 すごいとしか。
 ここまで男性側や公側に責任を負わせながら、女性側には一切責任がないとするのが師匠、いや、全フェミニストです。
 16pにおいては「両者の合意があればセクハラにならない」としながらも、しかる後、「しかし相手が偉ければ断れないじゃないか」と言い出します。この後者にこそフェミニストたちは力点を置く傾向にあります。
 ここで牟田師匠は東京都労政局の金子雅臣師匠*4の発言を引用し、「加害者たちは、問題が表面化し、場合によってはそのために処分を受けてからも、自分のしたことがセクハラであると理解できないケースが少なくない」としています。それは単に、男性の視点からは合意だったように思えたということじゃないでしょうか。裁判においては、そこを中立的にどちらが正しいかをジャッジしていただかなくては困るのですが、「フェミ裁判」においては男性の言い分は常に間違っているというのが不動の、絶対的根源的大前提的「真理」なのです。
 何しろここではマッキノン師匠の「女性は沈黙をもって拒絶の意を示す傾向にある」との説が紹介されています。「見かけは喜んでいるように見せて巧みに男性の面子を立ててや」るのだと(18p。強調ママ)。いやあ、マッキノン師匠ってポルノ以外でもスゴい人だったんですねえ。
 ちなみに本書、テラケイ師匠が絶賛してます
 要するに「女は拒絶しにくいジェンダー規範を押しつけられている」のだから、「そのような社会にした男が悪い」わけです。もっとも、ちょっとだけ「女もはっきりと拒絶の意志を示すべき」と言ってはいるのですが。
 先にも述べたように、ぼくは以前、師匠の『部長、その恋愛はセクハラです』をレビューしました。そこでは「女が嫌だと言っていなくても、外からは喜んでいるように見えてもセクハラ足り得る。その時はOKしても後からセクハラだと判断することもあり得る」とシリメツレツなことが書かれていましたが、その「元ネタ」がマッキノン師匠にあったことについては、多言を要しないでしょう。
 もう一つ、師匠はこんなことも言っています。

たとえば、女性も男性と同じように仕事をこなし、上司に対しても遠慮せずに意見を言えるような雰囲気の会社があるとする(たくさんあるとは思えないが)。そういう職場で、対等な関係が根付いているならば、上司からの性的誘いがあっても、強圧的な「脅かし」にはなりにくいだろう。
(中略)
ところが権威的な上下関係があって言いたいこともなかなか言えないような職場なら、体を触られても「やめて下さい」とは言いにくい。
(34-35p)


 カッコをつけて(たくさんあるとは思えないが)と補足しているのがケッサクで、そもそも「上司に対しても遠慮せずに意見を言えるような雰囲気の会社」なんて男女問わずそうそうないでしょう。いえ、「遠慮せずに意見を言える」というのはまあ、程度問題で、どの程度ならば自由な雰囲気と称するべきか、測る物差しは存在しません。しかし原則論として、上司に異を唱えることに対して、ある種の遠慮が働くのは当たり前のこと。そこを師匠は、「女だけは上司よりもエラいという扱いにしろ」と言っているだけです。
 事実、少なくともセクハラという言葉の浸透した後の社会にあっては、女性の「やめてください」は水戸黄門の印籠のような切り札になったのです。

*4 ぼくの著作をお持ちの方は、ちょっと取ってきてください。金子師匠には『壊れる男たち』という著作があり、そこではフェミニストにこびへつらい、「男性は自らの本能をコントロールできない、人間以下の獣であるというプライドを欠いた主張を認めるかどうかがスタートラインとなると言っても、言い過ぎではないと思う。」などと男性を酸鼻を極める舌鋒で罵り倒しています。しかし『男女平等バカ』においては一転、「あなたの職場は大丈夫? ジコチュー女が仕掛けるセクハラ冤罪の構図」という、かなりラディカルに女災を批判した記事を書いておいでです。著作でも大いにからかいましたが、考えてみれば後者が本音とも思えますし、「正味の話、その両方が共に全く正しい」と考えるところからしか、話は進んでいかないというのが、本当のところなのではないでしょうか。

 また師匠はセクハラの概念が拡大されすぎていると嘆き、こんなことを口走ります。

たとえば女性を「オバさん」扱いして職場で軽視するのがセクハラであるのなら、中高年の男性上司のことを、「脂ぎったハゲ」「オヤジは臭い」などと陰口を聞くのもセクハラだ、という具合だ。
(中略)
女性社員の発した「チビでハゲ」などという無礼な言葉に男性の上司や同僚の心が傷つけられたとしても、それはセクハラではない。
(46p)


 非道い、とお思いでしょうか。
 一応つけ加えておきますと、師匠は「だから言ってもいいのだ」と主張しているわけではありません。「人を傷つけてはいけない」ということ自体は常識なのだから、

そんな「子供のしつけ」のようなことを会社や大学からされねばならないのだろうか?
 言うまでもなく、そんなことはナンセンスだ。
(47p)


 まさにその通り! しかしそれならばセクハラも同様でしょう。そんな「子供のしつけ」のようなことを会社や大学からされねばならないというのは、言うまでもなく、ナンセンスです。
 いえ、もちろん師匠は反論するでしょう。「ジェンダーの何やらかんやらで、そんな子供のしつけのようなことが、今の男たちには必要なのだ!」と。しかしその理屈は、そうした男性へのハラスメントがセクハラよりも遥かに少ないのだとの前提があってこそ成り立つことです。ツイッター上でフェミニストらしき女性が「女は常に男からの暴力に晒されている、男たちはそんな危険に晒されていない」などと言っていたのに対し、dadaさん辺りが「ほとんどの男は男から殴られた経験があるぞ、フェミはそれに頬かむりしているだけだ」と返していたことを思い出します(記憶で書いているので、細かい点には差異があるかもしれませんが)。
 結局、フェミニズムの主張は、「個人的なことは、女性にのみ限り政治的である」との前提を導入しなければ、絶対に成立し得ないのです。
 さて、とはいえ、です。
 セクハラというのは言うまでもなくセクシュアルハラスメント、性的嫌がらせの略です。先の例でいえばハゲや脂ぎっているというのは男性にこそ多い特徴であり、その性的な弱みを攻撃するのは語義的にはセクハラと呼ぶしかない、とも思えます。
 しかしこの言葉、本来は労働用語でした。歴然とした力関係が横たわり、断りにくい中で性的関係を強要される。そうしたパワーをかさに着た強要行為こそをセクハラと呼ぶのです。
 そして、上の例は「男性上司」が対象として仮想されており、「上司だからセクハラじゃない」ということは一応、言える。理屈は一応、通っているのです。だから一応、師匠も女性上司に性行為を強要された男性がいれば、それはセクハラ被害者だと認めてはいます。
 その意味で、一応の筋は通しているわけですが(一応ばっかりだな)、しかし「ハゲ」であることと「上司」であることは直接の関係はないのだから、恣意的な「実例」を挙げることで、自分たちの言い分を正当化しているようにしか、読めない(仮に師匠が「女性上司にブスというのはセクハラにあたらない、というのでしたらこれまた一応のつじつまはあうのですが)。一体、どうしてこのような論理展開を、師匠はしているのでしょうか?
 師匠は日本のセクハラ裁判の事例を挙げ、勝訴した事例も「性差別」そのものが裁かれたものではないのだ、と嘆きます。
 どういうことかおわかりでしょうか? 確かにセクハラは裁かれたが、それは「性犯罪だから有罪」なのであって、「性差別だから有罪」のわけではない、そこがけしからぬ、と師匠はお嘆きなのです。
 まずそもそも、「性犯罪」が「性差別」を必ず内包しているという考え自体が、フェミニズムの歪んだイデオロギーに生み出された誤謬でしかない。彼女らはよほど女性差別があってほしいのか、レイプは女性への憎しみによって行われる、などと繰り返します。そしてそれは、それこそ見知らぬ暴漢に襲われる類のものであれば(必ずしも正しくはないでしょうが)理解できなくはないものの、彼女らは決まって「男性側は合意だと思っていた関係」をこそ裁こうというのだから、もう何が何だかわかりません。
 いえ、一兆歩ほど譲ってそこは措くとしても、ぼくはヘイトスピーチ同様、差別そのものは法で裁かれるべきではない、と考えます。当たり前です。差別そのものも人間の考えの一つなのですから。そして考えそのものではなくあくまで、それを発露することがけしからぬというのであれば、なおのこと行為を行為としてのみ裁くしかない。しかし、牟田師匠はどうしてもそこが許せないご様子。

 アメリカの場合とは違って、日本におけるセクハラ裁判は、「性差別」にあたるかどうかが直接に問われてきたのではない。
(52p)


 同趣旨のことを、師匠は幾度も幾度も幾度も幾度も幾度も幾度も繰り返します。事件の違法性が問われるのみで、セクハラが性差別に当たるかどうかは問われていないと。当たり前のことです。裁判所はフェミニズムのイデオロギーについて云々する場ではないのですから。

 マッキノンが詳述しているように、セクハラを不法行為法で裁くことは、加害者個人の言動にのみ焦点をあてて問題を個人レベルにとどめることになり、事柄の本質が性差別であることを曖昧にする(マッキノン、一九九九年、二六六-七頁)。
(55-56p)


「不法行為法」って言葉、スゴいですけど法学用語とかであるんですかね。上の文章、そのまま取ると「不法行為じゃなくても裁け」って言ってることになりますもんね。
 ちなみに(マッキノン、一九九九年、云々)というのはこれがマッキノン師匠の著作を引用しての主張であるという意味で、とにかく本書では延々延々延々延々とマッキノン師匠の主張が引用されます。しかし、性犯罪がそもそも個人的なものであるのは当たり前のことでしょう。本書の枕にもあるように、セクハラ関連の法は会社側に防犯義務を課すなどさせるようになってきていますが、そこには師匠たちのこのような思惑が働いていたのですね。

 マッキノンによれば、「不法行為法は、女性のセクシュアリティに対する権利侵害を女性の置かれている社会的状況という背景から切り離す点でセクシュアル・ハラスメントの問題を扱う概念枠組みとして不適切である」(マッキノン、一九九九年、二六六頁)。女性がセクハラを受けるのは、たまたま彼女の事情から、彼女の周りの環境や上司が「運悪く」「ろくでもないやつ」だったから起こるのではない。それらは要因の一つではあるとしても、セクハラの起こる根本の原因は、その女性が女性であるゆえに、性的圧力を受けやすくヴァルネラブルな(引用者註・傷つきやすい)立場に職業上立たされてしまいがちなことだ。セクハラは、偶発的で特異な逸脱行為ではなく、女性という集団への権利侵害であり、構造的な性差別に基づいている。女性が女性であるゆえに、社会経済的に無力で従属的な位置に置かれているからこそ、雇用と結びついた性的圧力にさらされ同意を強制されがちだし、社会における性的な位置づけのために、女性は社会経済的にも雇用上でも低い地位に置かれがちなのだ。
(56p)


 後半を書きとりながら、頭がくらくらするのを抑えられませんでした。
 何しろセクハラはそれを行った個人の問題ではないのですから、男は全員悪者であり、そんな悪者を放置するこの社会は根源的に間違っているわけなのです。

ましてや、受付係やエレベータ案内係などに典型的なように、女性の仕事につねに「若く」「親しみやすく」「感じよい」魅力をふりまくのが欠かせない要素がある限り、社員や客から性的な接近をされやすいことは当然すぎるほど当然だ。
(57p)

 このような意味でセクハラは、単なる個々の女性への被害ではなく、性差別なのだ。したがって、セクシュアル・ハラスメントは本質的に、不法行為法の問題としてではなく、女性という集団への権利侵害、つまり性差別の問題として扱われるべきなのだ。不法行為法とは、権利侵害を受けた個人に損害賠償をするものだから、たとえ損害賠償の網を広げようとも、根本的に社会的に根絶されるべき問題を、個人的なものであって損害賠償によって解決できるとみなしている。そうではなく、セクシュアル・ハラスメントは、社会的に根絶されるべき性差別による権利侵害なのである(マッキノン、一九九九年、二六七頁)。
(58p)


 それって泥棒だって同じじゃないでしょか。殺人だって、損害賠償によって解決はできないんだから、社会的に根絶されるべきと言ってしまえばそうでしょう。
 結局、後の本をご紹介した時の「なんでこんな企業に権限を持たせたがるんだ」という疑問に、本書は明快に答えることになっています。
 結局、師匠たちにとって、セクハラなどどうでもよかった――とまではいわないまでも、ある種のダシであったのです。つまり、「女性差別」という形のないものを違法化せよ、ということこそが、真の目的だったわけですね。
 だから、企業社会が女性の意を全て組むようになるまで、セクハラは企業側が(女性差別をした連帯)責任を負え。性犯罪を裁くのではなく、その根底にある(と彼女らが思い込んでいる)女性差別をこそ裁け。
 先にはマッキノン師匠が、「不法行為法で裁く」ことがダメと主張していましたね。しかしそれならどうすればいいのか。「遵法行為」か「不法思想」のいずれかを裁く以外の選択は、論理的にあり得ない。そして、その後者を裁けというのが、即ち人の思想を統制せよというのが、師匠の、全フェミニストの真意でした。
 結局、セクハラという概念は、最初っから、成立したその時点から、それこそが目的だったのでした。少なくとも彼女らの願望が叶った世界では、「表現の自由」は根源的に否定されていることでしょう。
 ちなみに本書、白饅頭師匠が絶賛してます

 ちょっとページを戻ってみると、師匠は「ジェンダー・ハラスメント」と呼ばれる概念を紹介しています。

「女には大事な仕事はまかせられない」「女は若いうちが花」「キレイな女性の入れてくれたお茶はうまい」……。
(24p)


 何か、そんなんが「ジェンダー・ハラスメント」だそうです。「そう思われること自体は止めようがない」と思いますが、まあ、できるかぎり最大限、師匠に有利に解釈するならば、「口にすることがけしからぬ」ということなのでしょう。しかしそうなると結局、「A子ちゃん可愛いよね」といった会話すらもがセクハラにならざるを得ないし*5、「当然そうなのだ」というのが牟田師匠に限らず、フェミニストの一般的な考えであり、事実、会社社会は既に、そのようになってしまっているのです。つい先日やっていた『トネガワ』でもありましたが、ドラマなどでは男側が「セクハラになる」とビビり、女側が「私は気にしませんよ」というのがお約束になっているように思います。

ジェンダー・ハラスメントとセクシャル・ハラスメントは、必ずしも別ものではなく、どちらとも区別つきがたい言動もあるし、どちらも、女性への蔑視と差別意識から来ている点で同根である。
(26-27p)

私たちはジェンダー・ハラスメントを含めたセクハラ問題の解決に取り組んでいかねばならない。
(27p)


 はい、師匠の真意はもう明らかですね。
 ジェンダー規範が女性たちをモノも言えないほどに縛り、信じがたいほどの抑圧に押し込め、男性とは比べ物にならないほどの苦境へと追い込んでいる。そうしたフェミニズムの世界観を守ることそのものが師匠の目的でした。そして、そんな絶対的に間違った社会を改めるには、ジェンダーフリーによってジェンダー規範を壊滅させるしかない。本書のどう考えても首肯のしようがない奇怪な主張の数々は、そうした師匠たちの歪んだ世界観が前提されてることの、何よりも明白な証拠なのです。
 ちなみに本書、御田寺圭師匠が絶賛してます

*5 こうした意見への反論が本書にも書かれているのですが、それは「例えば、『そんなことを言ったら美人が台なしですよ』など、その言葉が女性である相手の発言を否定する意図でなされたらどうだ(大意)」などとわけのわからないもの(23p)。果たして、「否定する意図」がなければセクハラにならないのか……(否定する意図で「ブス」とののしって相手をひるませたというならわかるのですが)とにかくここに限らず、師匠のロジックはわけのわからないシチュエーションを想定して「さあどうだ」とドヤるものが多すぎです。

 ……まあ、本書は毎ページ毎ページがこの調子で、キリがありません。
 もう既に相当な文字数を消費して、ようやっと冒頭で述べた「前半」を紹介し終えたところなのですが、続きはまた次回ということにして、そろそろお開きにしましょう。ただし、最後にトンデモない爆弾が控えていましたので、最後にそれを投下して。

 男性が女性上司から意に反した性的要求をされるような場合、上司―部下の力関係のために断りにくい圧力がかかることは同じでも、男性上司から女性の部下に行われるのとでは意味は同じではない。なぜなら性的な攻撃に対するヴァルネラビリティ(傷つきやすさ)が男女で大きく違うからだ。たとえば職場の飲み会の後、上司とふたりきりになってしまい、「前から好きだった……」と迫られるとき、上司が男性であるのと女性であるのとは大違いだ。
(48p)


 え……?
 ここでは「物理的に男の方が力が強いから断れる」という(上司部下の関係を無視した)詭弁と、「男であれば女にモテたことは武勇伝だ」との詭弁が語られます(女だって自慢にはなるだろうに)。
 もう、語るに落ちるという他ありません。
 師匠が男性というものをの徹底的に軽視、侮蔑、憎悪していることが、よくおわかりになるかと思います。
 女性は地位が低い→だから性被害にあいやすいとのわけのわからん短絡もなされていますが、これもまた、フェミニズムの特徴です。それがもし本当ならば、貧者さえ救済すれば、性犯罪も激減するはずですが。
「女性だから性犯罪にあいやすい」も「地位が低い者だから性犯罪にあいやすい」も真理ではありましょうが、両者はイコールではない。そこを雑にいっしょくたにしているのが、フェミニズムです。
 男女のジェンダーの非対称性(女性は性的な働きかけをされる性であり、それ故性犯罪の被害者になりやすい)を、ある時は無視し、ある時は過剰なまでに押し出すダブルスタンダードによって、彼女らは利を得ようとしているのです。「女/男はいかなる場合にも被害者/加害者」と言っているだけなのです。
 ちなみに本書、「キモくてカネのないオッサン」問題の提唱者が絶賛してます
 バブルの頃からずっとフェミニズム批判を続けている小浜逸郎氏は、『男はどこにいるのか』において、ポルノを男性支配社会のイデオロギーの産物であるとするフェミニストの主張を

 男と女の性的な磁場の本質からその否定的な現れのみを抽象して、そこに政治的意図を新たに塗り込めたところになりたっている。
(草思社版47p)


 と批判しました。女性ジェンダーのネガティブな面ばかりを恣意的に抜き出して、本質をずらした文句のつけ方ばかりをしている、ということです。これ以上に優れた、ラディカルなフェミニズム批判を、ぼくは寡聞にして知りません。
 そして、テラケイ師匠、青識師匠たちはこの醜悪奇怪な書を盲讃しました。
 それは彼らと彼女らが、仲よしのお友だちだからです。
 その辺についてはまた、おいおいと語っていくことに(というか、以前からずっと言っているのですが)しましょう。