パオロ・マッツァリーノ師匠の卑劣なデマ記事をきっかけにして(だったかどうかもう、忘れちゃいましたが)フェミがいかに平然と男性に冤罪をしかけてくるかについての記事を再録しています。
また、パオロ師匠が近年、赤木師匠同様に脳改造を施され、フェミの改造人間になったと想像できる点については以下を。
今回は前回に引き続き、牟田師匠の愉快な著作についてご紹介していきましょう。
初出は2014年3月7日と、丁度十年前。
この頃からずっとフェミはこうだったんですね。
では、そういうことで。
* * *
大変です、遠い宇宙の彼方からUFOに乗って、エメラルド星人が攻めてきました!
地球防衛軍が出撃しましたが、エメラルド星の科学力には敵いません。
ぼくたちの地球はエメラルド星人に支配されてしまいました!!
後、エメラルド星では人間より犬の方がエラいので、犬を見たら土下座をする法律が作られてしまいました。戦争に負けたのだから、仕方ありません。
――以上、今朝見たぼくの夢の内容についてお届けしましたが、そんなこととは何の関係もなく。
先日、ツイッター上でフェミニスト寄りの男性とケンカになりました。
状況をかいつまんで説明すると*1、彼が(もう旧聞に属しますが)レイシストしばき隊の女性が在特会の男性を「童貞」と罵ったことについて、「差別である」と憤っていらっしゃったことが、話のきっかけでした。しかし、男性を貶めることはフェミの本義です。彼がフェミニスト寄りなら「童貞」との「サベツ用語」に憤ることもないのではないかと思ったら、彼は「件の童貞発言を真っ先に批判したのはフェミニストだ」とおっしゃいました。
もしそれが本当ならぼくの大敗北です。
((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル.しながら問い質すと、それはフェミニストが「童貞云々はヘテロセクシズムに則った発言だから好ましくない」と言った、というだけのことでした!
もうバカバカしくて話にもなりません。
フェミニストたちは非常にしばしば、平然とこうした種類のウソをつきます。
「上野千鶴子師匠も反ポルノ派だ」と指摘した時の「表現の自由クラスタ」、「ホモ雑誌の編集長がホモの子供に対するレイプを称揚していた」と指摘した時のフェミニスト、いずれもあり得ないような認知の歪みを生じさせ、現実から目をそらしました。
一体どうなっているのでしょう。
ぼくが「ウソをつくな」と腹を立てると、彼はこう反論してきました。
「童貞差別はヘテロセクシズムを背景としたものであり、他の差別に繋がるので反対する」という理路が理解できないらしい。
なるほどなるほど。
この後も、彼は思い込みで言いがかりをつけてくるのみでしたが、彼がフェミニズムのイデオロギーに則り、「ヘテロセクシズム」とやらを好ましからぬものであると考えていることは自明です。となると、彼の(考えるフェミニストの)主張は「お前が童貞ということを否定的に捉えるのも、お前がヘテロ男性と言う名のワルモノのマッチョな価値観に支配されているからなのだ」「フェミニズム(というか無軌道で空想的なジェンダーフリー)を受け容れればお前は救われる」といったものであるとしか考えようがありません。
こんなの「貧乏」で困っている人物に「おカネより大事なものがある」とお説教しているようなもので、一般的な童貞、或いは非モテにそのような言葉をかけたところで、何ら意味はありません。
そして、フェミニズムに親和的な「ダンセーサベツクラスタ」が、彼とまるっきり同じ勘違いに陥っていることは、もはや言うまでもなかろうかと思います。
――しかし。
よく考えれば、この地球は既にフェミニストに支配されてしまっているのです。
となれば、ぼくたちが彼ら彼女らの価値観を押しつけられるのは仕方がない。
そう、今まで「ウソ」と繰り返しましたが、もし「フェミニズムは正しい」という前提を導入すると、この「フェミニズムの教義」はウソではないのです。
これを全く立場を変えて、もし仮に「善意100%でホモを電気ショック療法で治療してあげようとしている人」が「俺はホモを差別していない、こんなにもホモのことを思っている」と言っていたらどうでしょう?
ぼくたちの感覚では、自分の価値観を勝手に人に押しつける困った人だなあと感じますが、これが仮に「ホモは悪」という価値観を前提すれば、ホモを治療する彼は人権活動家と言う他ない。
そう、件の彼もそれと同様、ご親切にもぼくたちへと「我々が征服したこの土地で、お前たちが幸福に暮らすにはどうするか」をご教示くださっているだけなのです。
エメラルド星人はぼくたちに屈辱を与えるためにあんなことをさせているのかと思っていたのですが、それはそうではありませんでした。
「エメラルド星では犬の方がエラいので、ぼくたちのためを思って、アドバイスをしてくれていた」だけなのです。
*1 詳しくは「フェミニズムは「フェミニズムは正しい」という前提を導入すると、「フェミニズムが正しい」という整合性を持った思想として、我々の前に立ち現れる。」をご覧になってください。
今回は、牟田和恵師匠の『部長、その恋愛はセクハラです!』もまた、実はそうした「統治下で幸福に暮らすコツ」について我々下々の立場に立ってご教示くださった、情け深いフェミニスト先生の著作であったのだ、という驚くべき事実についてご報告することにいたしましょう。
――ちょっといろいろと書きすぎました。いったん話をリセットして、本書を最初から見ていくことにしましょう。
本書の第一章には「「セクハラは受け手の主観で決まる」のウソ」という節があります。
つまり本書は、「セクハラは受け手の主観で決まる」という女災社会の通念に対する反論を意図して書かれたものであったのです。
が、いざ読んでみると、驚いたことにその一番肝心な点について書かれているのは、上の節の僅か2、3ページのみ。その論拠は、厚労省のパンフ「事業主の皆さん職場のセクシュアルハラスメント対策はあなたの義務です!!」で、
「労働者の主観を重視しつつも、事業主の防止のための措置義務の対象となることを考えると一定の客観性が必要」
「被害を受けた労働者が女性である場合には『平均的な女性労働者の感じ方』を基準とし、被害を受けた労働者が男性である場合には『平均的な男性労働者の感じ方』を基準とすることが適当」
と書かれているということのみです。牟田師匠は言います。
ですから、まったく客観性もないのに、相手の変な受け止め方のせいでセクハラにされてしまうという心配は不要です。(p45)
なるほど、心配ないですね……って言えるかい!!
「平均的な女性労働者の感じ方」なんて曖昧でどうとでも取れる上、このパンフの規定が裁判で反映されるとは思えません。
そう、上のパンフはあくまで厚労省が雇用者などに「均等法が改正され、セクハラなどをチェックすることが義務づけられるようになったぞ」「それを怠るとペナルティがあるぞ」とお達しを周知させるためのものです。本書においてはまず、この2007年に改正された均等法を大前提として、会社の人事課などでの采配などが専ら、想定されているのです。
しかしセクハラの被害者とされる側、加害者とされる側を問わず、会社の采配が不服なら当然、裁判所などに訴え出ることが予想されるわけですが、そこで男性の訴えが聞き入れられるかとなると、それは大変に怪しい。
結局、「「セクハラは受け手の主観で決まる」のウソ」はウソではないか……と考えざるを得ないのです。
が、まず、そこは置きましょう。
ここでは本書が「セクハラは受け手の主観で決まる」という通念に対する反論を意図し、しかしながらその記述は大変に疑わしいのだが、敢えて言えば「事件が会社の人事課などの内々で処理され、そしてその人事課に理解があった」との前提を導入すれば、満更ウソではない、ということを取り敢えず、心に留めておいていただければ幸いです。
それを頭の片隅に置いて、以下、本書へのツッコミをしてみることにしましょう。
前回、ぼくは本書のことを、
つまりそれは「後からセクハラだと思ったらセクハラ」という無茶ぶりの正当化です。
と評しました。
しかしこれは決してぼくの極論ではありません。
何しろ驚くべきことに牟田師匠ご当人がそう「明言」すらしているのですから。
(引用者註・恋愛とは)本人でさえ、「自分の気持ちに確信が持てない」「なんであんな人が好きだったのかわからない」などというのもよくあることです。
(中略)
そうした断りの上ではありますが、恋愛関係だったにもかかわらず関係が悪化して、女性があの関係はセクハラだったと男性を訴えるケースはあると私は考えています。
(p128)
また、女性が恋愛感情などなかったと主張しても、少なくとも一時期はあったのではと思われるケースもある、と師匠は言います。ならそれはあくまで冤罪だろう、と思ったら、恋愛中のさまざまな波風を
そうしたことがらは、恋愛中は耐えられたものの(むしろ関係を燃え上がらせるスパイスだったかもしれません)、関係が終わり、男性に結局誠意がないとわかったとき、一つ一つの経験が、イヤな記憶としてよみがえってくるのです。この状態に至った女性には、過去の思い出は、自分も熱を上げラブラブだった時代のことも、男性にマインドコントロールされてそう仕向けられていたようにさえ思えるのです。
(p134)
言葉もありません。
女には理性的な判断は何一つできません。嫌なことがあったら後づけで相手がマインドコントロールしたのだと言い立てます。しかしそれは全部受け容れられるべきです。
師匠の言い分はそうしたものにしか読めません。
もうおわかりでしょう。
厚労省のパンフには「『平均的な女性労働者の感じ方』を基準と」せよとあるぞ、とドヤ顔の師匠ですが、師匠の主張は平均的な感じ方からは、大きく外れているとしか言いようがないのです。
童貞を追いつめているにもかかわらず童貞の味方をしているのだと言い立て、自分たちが反ポルノ派である事実を隠蔽し、ホモ雑誌の編集長がホモの子供に対するレイプを称揚していても目を伏せ、その編集長を絶賛し続ける「認知の歪み」を抱えたのがフェミニストなのだから、もうしょうがないのですが。
ぼくに(フェミニストでない、一般の)女性のホンネなど、伺い知れません。
が、例えば「いい女を見たら押し倒したくなるのが男のホンネというものだ」程度の意味でなら、ここで語られる「師匠の感じ方」を「平均的な女性労働者の感じ方」であると言ってもいいかも知れない、とも思います。
しかし、あくまで想像ですが上のような記述、普通の女性であれば「それがホンネとは言え、さすがにそこまでの無責任は通らないだろう」と思うのではないでしょうか。少なくとも常識的な女性ならそこまで勝手なことは言わない、と思うのですが。
何故師匠は、いや、全フェミニストはこんな男性にとっても女性にとっても差別的としか言いようのないことを主張し続けるのでしょう。
それは、男女間には絶対的な上下関係がある、だから上に立つ者が常に責任を取るべきだ、という「大前提」がフェミニズムというガクモンにはあるからです。そこまでの絶対的な上下関係があり、男は女をマインドコントロールする能力すらあるのであれば、そもそも女が男を訴えたりできないと思うのですが。
「冤罪はあり得ないか」という節では、「セクハラにも冤罪があり得るのでは」との疑問に対し、そもそもセクハラにおける冤罪は殺人や痴漢などにおけるそれとは性質が違う、と反論します。多くは継続した期間の中で積み重なった多くの事実に対して問われるのだと。確かにセクハラで問われるのは「セックス」なり何なりの「事実」が問われるものではない、その事実を「どう評価するか」だ、との意見は正しいでしょう(つまり合意があったかどうかとの内面の問題だ、ということですね)。
しかし以降師匠は、ハラッサーの言い分と会社などの「組織」の評価とを対立させます。
女性の方が積極的だった、合意があった、だからその性関係は不適切とは言えずセクハラではあり得ない、というハラッサー側の評価と、組織が下した「社員として/教員として、不適切なものだった」という評価が対立しているのです。(p182)
「意味がわからん!」と思われたかも知れませんが、ここで本書はあくまで厚労省の事業主へのお達しを基準に書かれていることを思い出してください。師匠は「ことを決めるのは会社側だ、だから会社が悪いと言ったらそれまでだぞ」と言っているのです。
しかしここでまず問われているのは、「合意があったか否か」などの問いについて「女性の主観」に全てが委ねられるのでは、ということなのですから、これはハナシのすり替えです。
いえ、そもそもそんなに社長がエラいのなら、「女なんか腰掛けだ、ウチは採らん」という判断だって尊重されるべきでしょう。大体、社長なんてほとんどは男でしょうし、となるとハラッサー側の味方をする社長(や、人事課のエラい人)だっていそうなものです。正直、師匠がこうまで雇用者側の判断を信頼している理由が、ぼくにはわかりません。
終章では基本、職場などで女を誘うのはやめた方が無難、との心得が語られます。派遣や契約が相手なら自分の監督下から離れてからアプローチした方が、とも書かれています。
こうなるともう「男女が関わること」そのものを忌避した方がよさそうな感じですが、それは果たして、女性の望むことなのでしょうか。まあ、師匠のありがたいアドバイスを汲むに、企業を守るためにもひとまず現実的な対策として女は派遣や契約という流動的な形で働かせた方がいいようですよ、企業のエラい皆さん。
「今恋愛中、どうすれば?(p192)」は全くわけがわかりません。
恋愛が破綻しつつある男性に対し、師匠は「その彼女はつきあい出した当初より、社会的地位が下がっているのではないか?」と問い質します。
女性の地位が下がったことを男性のせいにするのかと思いきや*2、どうもつきあい出す時に口説き文句として、相手の女性のキャリアを持ち上げてみせたのに、別れの場で相手の地位の降格を本人のせいだなどと言ってはセクハラになる、と言うのです。
意味わかります? ぼくはわかりません。
逆に男性が地位を失ったことを理由に関係を解消する女性は多いでしょうし、それを責める声もないでしょう。てかそもそも本書自体、「男が降格したので捨てたい」と思った女性が、今までの関係を後づけで合意ではなかったと言い立てるためのノウハウ集としても読めます。
が、それを逆にした(上に師匠が書くような)事態がそれほどあるとも思えません。「社会的価値」というよりはむしろ女性の「性的価値」が下落してから女性を捨てるというケースの方がまだあるでしょうし、それをさせない知恵が、(師匠たちが蛇蝎のごとくに憎む)結婚制度だったわけでしょうに。
後、別れる時には自分のせいでその女のキャリアや人生設計がマイナスになってはいないか、女性視点でチェックし、謝罪や応援をしなければならないそうです。ああ、そうですか。
また当然、男性が新しい女性に乗り換えるために今の女性と別れる時には恨まれないように要チェックです。ああ、そうですか。
その後、「そうした誠意があれば女性もセクハラなどとは思わないでしょう」と続きます。これ、要は「そうしなければ後づけでセクハラ呼ばわりするぞ」と言っているだけですよね。こういうのを学術用語で「当たり屋」と呼ぶんですけどね。
ただ、とは言え、この終章、「是非は置くとして、女の怒りを買わないための現実的な処方箋」を提示しているようにも思えます。妙に男性側に同情的なのです。或いは牟田師匠も個人的にはいい人で、この終章を書く瞬間だけはそんな気持ちになっているのかも知れません。本当、そう思いたくなるくらい自然な感じで書いているのです。
むろん悪意を持って見れば「男ども、女に逆らってもムダだ、ざまあみろ」と嘲笑っているようにも読めますが、しかし師匠に悪気はないのではないか……とぼくには感じられたのです。
こうして考えると、先にぼくが書いた「正直、師匠がこうまで雇用者側の判断を信頼している理由が、ぼくにはわかりません。」との一文の謎も解ける気がします。
ぼくは法律などには疎く、改正均等法をどう評価するのが適切かは判断しかねます。
しかし師匠がこうまで雇用者側を信用しているということは、逆説的にこの改正法が、かなり強力な新兵器であると、師匠たちに捉えられているということではないでしょうか。
つまり、師匠たちは既に地球を征服してしまったがため、勝者の余裕でぼくたちに慈悲の心を持って接してくださっているのです。
あとがきを読むと、この想像は確信に変わります。
しかし、本書をお読みいただいた方の中には、私がむしろハラッサーの側に立った見方をしていると思われた方もおられるでしょう。ハラッサー男性に甘すぎる、タチの悪いハラッサーが多数なのに、その悪質さを見落としてかばっていると。
呆れ返るとはこのことですが、上野師匠が主催する「ウィメンズ アクションネットワーク(WAN)」のレビューでも同じようなことが書かれています*3。
フェミニストである牟田先生が、「セクハラです!」というのだから、さぞかし男性へのお叱りが多いと思われるでしょうが、牟田先生の深い洞察力のそのさらに奥のほうに、ハラッサーへの思いやりを感じてしまったのはわたしだけではないはず。
ムカつきますが、冒頭に挙げた例を思い出してみてください。
レイプ犯に目下、襲われている女性に「逆らわない方がいいよ」とアドバイスしたとしたら、フェミニストは怒るでしょうが、レイプの是非は置くとして、助かるためにそのような判断を取らざるを得ない場合もあるはずです。
エメラルド星人に侵略されてしまった以上、無事でいたければ犬に土下座をする他はありません。もし山田君がそうしようとしなかったら、
A.犬がエラいという価値に疑問を持たないエメラルド星人
B.地球人の価値観を慮るべきと考えつつも、母星の決定に逆らえないエメラルド星人
C.エメラルド星人に追従し、何も考えていない地球人
D.エメラルド星人を快く思わない地球人
このいずれもが、山田君に対してはひとまず「土下座しろ」と言う他はないわけです。
本書は「もうどうしようもなく既に決まってしまったルールの中、ぼくたちがどうすればサバイブできるか」についての処方箋である、とひとまずは言うことができます。
ぼくは前回、本書で師匠の想定するケースが専ら女性の被害者性が疑わしいケースばかりであることを指摘し、「眩暈がする」と言いました。
しかしそれすら、上に書いたように「師匠の老婆心」であるかのように思えてきます。
師匠は自分たちの勝ちがあまりにも圧倒的であることを知り、敢えてボーダーラインのケースばかりを採り上げてくださったのですから。
そう、師匠の著書は、
――ゴメンね、犬土下座法が改正されて、犬が100m先に近づいただけで土下座しなきゃいけなくなったのよ。
との、親切心から忠告であったのです。
*2 要は「セクハラ」概念にフェミニズムのイデオロギー的に糾弾したい案件を混ぜ込むため、こういう事態を無理矢理に想定しているわけですね。一応、男が女に「そんなのやめとけよ」と言った些細なことが女にとってはあの男のせいでキャリア上のチャンスを逃したのだとの思い込みにつながる、といった例は書かれているのですが、しかしそれ、本当にただの「思い込み」ですよね。
*3「牟田先生、この著書は事件です!『部長、その恋愛はセクハラです!』牟田和恵」。