連休の前日に動画をうpしようと思っていたのですが、ちょっと間にあいませんでした。
仕方がないので、ちょっと予告編でも。
https://x.com/Frozen_hyodo/status/1727197743008174547/
それと、再録です。
前回、海燕師匠の面白コラムをご紹介しましたが、考えるとそれに先んずるこれ(初出:2013年1月3日)を再録しないのは片手落ちでした。
まあ、今になってみれば馬に食わせるほど巷に溢れている、「彼女がいないからって嘆くことはまかりならん、オタク如きが弱者を称するなど死罪である!!」という左派のありがたいありがたいお説教なのですが、海燕師匠はこうした傾向をかなり先取りしていた方であろうとは思います。
では、そういうことで――。
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さて去年のクリスマス前、このニコブロの中でトップクラスの人気を誇る海燕さんが、上のようなコラムをアップなさいました(http://ch.nicovideo.jp/article/ar23559)。
有料だったのでしばらくスルーしていたのですが、どうしても気になって先日読んでみました。そこで展開されていたのは
非モテとか非リアのルサンチマン語りという芸風そのものが何とも古くさいものに思える。
というのも、いまの時代、リア充だけが楽しい人生を送っていて、非モテなり非リアはつまらない人生を送っているのかというと、決してそんなことはいえないと思うんですよ。
たとえば20年前、30年前と比べても、日本の「幸福のかたち」は多様化していて、ひとつの「幸福のかたち」を手に入れられなければそれで不幸になるかというと、決してそんなことはない。そもそも不幸じゃないのに不幸なふりしてどうするんだと思うわけです。
結局のところ、恋人なり伴侶がいるひとだけを「リア充」と呼び、それだけがしあわせな生き方であると考えることはいまの時代に合っていないのではないか。ぼくはそう思います。
といった論旨でした。
彼の「非モテとか非リアのルサンチマン語りという芸風そのものが何とも古くさいものに思える。」という指摘には、一応、頷けるものを感じます。
しかしそれは――皆さんお気づきかと思いますが――要するに不況のおかげでみんな貧乏になったから、ということでしかありません。なるほど、「リア充」を「DQN」と読み換えれば、いかにもビンボーくさい、あんまり幸福でなさそうなイメージが喚起されます。
そうなると彼の主張は「みんなどーせビンボーで不幸なんだからいいじゃん」とも解釈でき、だとするならばそれはいささか無神経です。
そもそもぼくたちは「そもそも不幸じゃないのに不幸なふり」をしているのでしょうか?
彼の目から見てどう考えてもそう想像せざるを得ない何かがあって、そのように裁定しているのでしょうか?
読む限りそれはそうではなく、「価値観が多様で“なければならない”から不幸を感じては“ならない”」という論理(否、イデオロギー)が先行しており、そんなリクツでこっちに「感じ方」を押しつけられてもなー、何とかジニーじゃあるまいし、と思ってしまいます。
仮に上の「みんな貧乏になったから」論を受け容れたとしても、DQNと非モテ、彼女がいるだけ前者がマシということにしかならないのではないでしょうか。「あのDQNどもの連れて歩いている女とつきあうくらいなら一生童貞でいい」と思うのも一面の真理ではあるけれども、一方、「でも彼女が欲しいよな」と思うのも事実であり、そもそもそうでない限り、萌え産業がここまで発展するわけがないのです。
実のところこうした物言いは、オタクを鼓舞するためのものであれば有効であると思います。
「障害者の抱える障害は決して“障害”ではない、“個性”だ」などという言い方、欺瞞以外の何ものでもありませんが、障害者自身が自らを鼓舞する意味では「有効」だと思います。
彼は「好きなもの(趣味)を持っているオタクこそ真のリア充だ」とも言っていて、そもまた、そうした文脈から見ればわからないものではありません。
そう、それはまさしく本田透さんが『電波男』において「オタクは現実に勝った!!」と勝利宣言したように。
――だがちょっと待って欲しい。それなら海燕さんも同じことを言っているんだから、それでいいはずではないのか?
――海燕さん自身もオタなのだから、仲間同士で自らを鼓舞しているのではないか?
まあ、そうとも取れるのですが、不思議なのは上の文章を読んでも、海燕さんが本田透さんがお好きだとは、あまり思えない点です。
そもそも、この文章はよりにもよってこれがクリスマスに向けて書かれたものです。そこにはやはり、少なからぬ意味があると考えざるを得ません。
本田さんは当初、『電波男』を「オタクが何をしたってんだよ~、チクショ~」といった調子の泣き言本として出そうとしていた。それが酒井順子師匠の『負け犬の遠吠え』など、女性ライターのオタクを見下したスタンスにムカつき、論調を転換した、といった経緯があったはず。
やはりそれは一種の「鼓舞」に他ならない。
しかしそもそも「鼓舞」するということは、その裏にはやはり、ルサンチマンが深く深く潜んでいるはずです。
それは本田さん自身が同書の中で「アニメの美少女は部屋の掃除をしてくれない」と嘆いている点からも、KEYといった「家族」をテーマに据えたゲームを発表するメーカーを盛んにリスペクトしている点からも伺えます。
好きな人がモニタから出て来てくれない限り、基本的にぼくたちは充足できない存在なのです(とは言え、ならば美少女アンドロイドが生まれればぼくたちは満たされるんでしょうか? 造形のみならず行動パターンなどあらゆる点において「不気味の谷」が立ちはだかっている気がしてなりません)。
クリスマスに戻りましょう。
ぼくは海燕さんのコラムを読んで、二人の人物について思い出しました。
一人はSF作家の星新一、もう一人はタレントの伊集院光です。
星新一に関してはクールでニヒリスティックな筆致のSF作家、というのが多くの人のイメージかと思います。てか、それで正しいんですが。ですが、その才能は彼が世に出た高度経済成長期の宇宙開発ブームの頃より、それが一段落した後のことさらSF色のない作品でこそ十全に発揮されたのではないか、というのがぼくの個人的な感想です(などと、通ぶったことを言ってみる)。
が、それよりも更に星新一の鋭い視点を味あわせてくれるのが、彼が書いたエッセイです(と、更に通ぶる)。これもまたショートショートに負けず劣らず皮肉の効いた文明批評が展開され、極めて味わい深い……えぇ~い、面倒だ。
ぼくが言いたいのは、そんな彼が珍しくセンチメンタリズムに満ちたエッセイを書いていたことがあった、タイトルなどは忘れたが、感じとしては「さよなら、クリスマス」とでもいったものであった、というようなことです。
クリスマスとは、彼の世代にとっては敗戦後の圧倒的なアメリカ文化の豊かさの象徴でした。しかし、エッセイが書かれたのがいつかは判然とはしませんが、察するに高度経済成長に翳りの見られた70年代後半頃のことでしょうか、この辺りになるとそうした「物質的豊かさ=人類の幸福」といった図式が揺らぎ出してしまったわけです。
星さんはいつものクールさもどこへやら、「クリスマスさん、君もとうとう役目を終え、おわコン化してしまったんだね、今までありがとう、さようなら」みたいな感傷的な文章を書いていたのです。
さて、とは言え、ぼくがそのエッセイを最初に読んだ時の感想は、( ゚д゚)ポカーンというものでした。
無理もありません。
ぼく自身が幼かったこともあるし、読んだのは確かバブルの頃だったはず。
この頃はこの頃で、男の子が女の子とのイブを過ごすために一等地の何かすんげー高いホテルを予約してどうたらこうたら……みたいなことがメディアでさも当然のごとく語られていた時代です。
そう、この当時、というか80年代全般はその躁病的恋愛資本主義社会の象徴としてのクリスマスが、言わば恋愛の神として君臨していた時代でした。
さて、実は去年のクリスマスイブにも実は、極めて象徴的なことが起こっていました。
クリスマスイブの夜は月曜日。
そう、月曜の夜と言えば?
伊集院光がラジオをやる日ですよね。
ところがこの日のトークで伊集院さんは「ここ数年、クリスマスって俺たち非モテがやっかんでいた、リア充がよろしくやる日ではなくなってきているよなあ」といった主旨のことを言っていたのです。
伊集院さんと言えばまさにバブルの絶頂期、周囲の若い連中が躁病的に女の子たちと浮かれている中に青春時代を送った、深い深いルサンチマンの主です。
その彼のクリスマスおわコン宣言は、星新一とはまた違った意味で象徴的です。
海燕さんのコラムが伊集院さんの感想と近しい心理に端を発するものであることは既に書きましたが、一方で星さんのエッセイでもわかるように、戦後のクリスマスはアメリカの圧倒的な豊かさの象徴でした。そしてまた日本に輸入されてきたファミリードラマにも同じことが言え、そこでは豊かさを享受する「幸福な家族」の姿が繰り返し描かれていたのです。
そうした登り調子の時代では当然、子供が未来の担い手として尊ばれます。クリスマスは豊かになりつつあった高度経済成長期の日本で、子供が高価なオモチャを買ってもらえる日でもありました。『勇者ライディーン』では高価なオモチャであるジャンボマシンダーが売られる時、CMで愛川欽也を起用して「アカガマキンニコ」と唱えさせました。「赤ちょうちんを我慢すれば(オモチャを買えるから)息子のキン坊がニコニコだぞ」とのお父さんに向けたCMです。
星さんと伊集院さん、二人のクリスマスおわコン宣言はそれぞれ「家庭」、「恋愛」による大量消費というビジネスモデルの終了のお知らせであり、それは最早、景気がよくなることを期待できなさそうなこれからの日本にとって、不可避なことなのかも知れません。
が、だからと言ってそれを幸福と感じるか不幸と感じるかは、また別な問題です。
「家庭」、「恋愛」。
いずれもオタクが手に入れることが叶わず、それ故に拘泥し続けてきたものであることは、もう本田さんの著作を引いて説明するまでもないでしょう。
それを「必要ないのだ、それ故オタクは不幸ではないのだ」と主張しても、首肯する人はほとんどいないのではないでしょうか。
何となれば「萌え文化」というものはオタクによる、上の星さんに負けないほどに哀切を極めた表情で「家庭」、「結婚」のおわコン化を惜しむ歌なのですから。