相も変わらず、男性学関連の記事の再録です。
今回は『現代思想』の特集。元は2019年3月15日に発表したもの。
何というか、90年代くらいはまだちゃんとしていたこの雑誌もこの頃になるともう、変更しきったカルト雑誌という感じです。
因みに今回、この『現代思想 男性学の現在』という一冊の本を指す場合は「本特集」、それぞれの記事を指す時は「本稿」、そしてこのブログ記事は「本エントリ」と表現することで区別しております。
では、そーゆーことで……。
* * *
さて、因みに、ぼくは読む前から、ちょっとした楽しみを作っておきました。
本特集、「兵頭新児」の名は出てくるでしょうか?
可能性は三通りくらい考えられましょう。
1.出てこない
2.名前だけ出てきて、内容には触れないまま全否定
3.上に加え事実誤認がある
ここしばらく「男性学」については何冊もレビューをしてきて、そこには時々、ぼくの名が挙がっておりました。もちろん著作のタイトルだけ挙げながら、内容には一切触れることなく(読んでもいないのでしょう)ただ、「バックラッシュがあったぞ」「女性へのヘイトが広まっているぞ」という彼らの妄想のダシにされていただけでしたが。
が、残念ながら本特集においては1.の可能性が濃厚。これはつまり、同時に彼らがすでに自分たちだけの世界に引きこもり、社会へのコネクションを一切断っていることを示しています。というのも、一般向けの書籍(田中俊之師匠がよく出していたようなの)だと「一般ピープルへの啓蒙」という目的があるので近年のネット言論、つまり「男は損だ」「フェミは悪質だ」に一応、反論を試みていました。むろん、その反論は一兆年一日の稚拙なものであり、啓蒙の目的が果たせているかは心許ないのですが、そんな中、ぼくの著作がタイトルだけ出てくることがたまにあったわけです。一体にこの種の人たちはぼくの著作のタイトルを挙げただけで、勝利のポーズをとるという傾向があり、何が何やらさっぱりわからないのですが。
ともあれ、本特集は仲間内だけでほとんど完結してしまっている、言ってみれば「カルトの機関紙」と同じ。そうした「稚拙な言い訳」すらもがなされないことが想像されるのです。
〇伊藤公男 男性学・男性性研究=Men&Masculinities Studies
さて、巻頭を飾るのは伊藤師匠。そう、渡辺恒夫教授の文章をパクり、自分こそが男性学の創始者であるかのように振る舞っている人物です*1。
彼は2015年に立ち上げた、NGOだか何だかのマニフェストを引用します。
男と女の対等な関係、人間と人間の共生、人間と自然との調和のためには、男性たちは、暴力から脱出する必要がある。
(8p)
あ、もういいですか。
まあ、これが(即ち、男は一方的に絶対的に根源的に全面的に「悪」であるというのが)本特集の「大前提」です。
いつも言うようにここでレビューを終えてもいいくらいなのですが、ガマンしてもうちょっとだけ続けましょう。
「男性学」は(いつも言うように)フェミニズムに入信した男たちの懺悔録、以上のものではありません。そこでは「まず、フェミニズムが一方的絶対的根源的全面的に正しいので、疑いの心を抱くこともまかりならん」ことが前提され、一切の批評が禁じられています。
が、同時に師匠は以下のようなことも言っているのです。
男性たちはむしろ自分たちが押しつぶしてきた感情を取り戻す必要がある。
(9p)
ここだけすくい取れば大変にいいことを言っているのですが、それとフェミニズムの齟齬を認めないので、結果、キミョウキテレツマカフシギなことを言い続ける、というのが「男性学」の全てです。
しかし、ここで注目すべきはそこではありません。
論者たちの「フェミニズムを信じた者たちの作り上げた惨状」に対する「言い訳文学」がいかなるものか。それが当エントリのテーマです。伊藤師匠の論文には「バックラッシュの時代」という節が設けられています。
(一九九〇年代後半から動きを活発化した戦前回帰=日本万歳の極右勢力は、「伝統的家族」防衛の名の下に、歴史認識問題とともにジェンダー平等の動きに強烈に反発したのである)。
(15p)
これが、師匠の「歴史認識」です。
行政に入り込んだフェミニストたちがジェンダーフリー政策や、あまりにも過激な性教育など行き過ぎたことをしたので、そうした問題に疎い保守がたまりかねて声を上げた、というのが実情だと思うのですが。しかし、ではその保守の意見が一般的な大衆の感覚から齟齬のあるものだったかとなると、それは疑問です。フェミニストが非常に往々にして文句をつける「伝統的家族」観を描いた『サザエさん』だっていまだに高視聴率を取っているんですから、「極」という冠を被るべきがどっちかは、お察しです。
ともあれ、師匠は「近年の、ネット世論」については言及しておらず、恐らくそれらもこの「バックラッシュ」のバリアントとして捉えているのではないでしょうか。しかし、少なくともゼロ年代に保守派たちが過激な性教育、ジェンダーフリーを批判したという流れと現時点の弱者男性のフェミニズム批判は、つながっているとは言いがたい。師匠の文章ではそこが無視されているのです。
*1 兵頭新児の女災対策的随想 夏休み男性学祭り(その1:『男性学入門』)
〇多賀太 日本における男性学の成立と展開
多賀師匠、子供に対して悪辣極まる「ジェンダーフリー教育」を施している様について書いていた御仁です*2。もっとも本特集における師匠の文章は、比較的賛同できるものではありました(あくまで「比較的」ではありますが……)。
師匠は男性がジェンダーの問題を語ろうとすると、「男の生きづらさを普遍化して、アンチフェミニズムに向かう」か、「生きづらい男性も結局は女性を支配しているのだとの結論に向かう」かのいずれかしかない、と主張しているのです(24p)。
師匠が前者を全否定しているのはまあ、当たり前として、後者にも問題があるとしているのは、極めて重要です。何しろ、後者は「(彼らにとっての)男性学」そのものですから、師匠は男性学を全否定していると言っていい。まあ、もっとも、結局この問題点についても、「一般の男性に対して希求力がない」からダメだ、と言っているだけなのですが。
また師匠は、フェミニストのよく言う「男たちは自分で自分が生きづらい社会を作っているのであり、それを人のせいにするな」とのテンプレにも疑問を呈しています(30p)。まあ、結局はこの問題についても「何か、社会が悪い」と言ってお茶を濁しているだけなのですが。もう一つ言うと、師匠は「男が支配者」とのジェンダー観をあどけなく信じており、(32p)そうなるとやっぱり彼の主張も「社会≒男」という図式に回収されちゃうんじゃないでしょうか。
いつも言うことですが、「頷けることも言っているのに、フェミニズムを疑い得ない正義としているがため、結局は同じところをグルグルとループしている」のが男性学者たちです。
ただ、師匠は『脱男性の時代』に感銘を受けたとも語っており、この辺は好感が持てました(28p)。
*2 兵頭新児の女災対策的随想 秋だ一番! 男性学祭り!!(その2.『男子問題の時代?』)
〇田中俊之 男性学は誰に向けて何を語るのか
さて、お次に控えしは当ブログでもお馴染み、田中師匠です。
本稿で笑ってしまったのは「オタク」が市民権を得たことを挙げ、
オタクに対する差別・偏見は、「男性問題」のリストにおいてもはや上位にあるとは言えないだろう。
(36p)
と断じている点。ぼくが常に「男性問題≒オタク問題」としてきたのと比較すると、ため息が出るような目利きのなさと言わねばなりません。
ぼくが常々指摘している通り、オタクが市民権を得た(いや、得てもいないのですが)のは「みんなが貧しくなり、オタク的になったから」にすぎない。つまり、今こそオタク問題は語られるべきなのですが、彼らにしてみればそれはむしろ望ましいことになるのです。男性の草食化も貧困も非婚も全て、それらこそが彼らの目的だったのですから。師匠の発言は、「我らの人類征服計画が完了したのだ」という勝利宣言に他なりません。
38pでは「男性が女性を抑圧し、支配していること(という、彼ら彼女らだけの妄想)」を前提すれば男性学は「堂々巡りに陥る」と正直にも告白しています。「男も辛い」と言いたいものの、それを女性様のせいにするわけにはいかぬ、さあ、どうしよう、というわけです。先の多賀師匠も近いことを言っていたように、一般人には見えない縄で、自分で自分を縛ってアヘ顔でこんなことを言のが、男性学のお馴染みの持ちネタなのです。
「知的なユーモア」との節にも笑わせていただきました。
師匠の主張は「ユーモアは大事(大意)」というもの。師匠は近年、どういうわけかやたらとルイ53世とつるんでいるのですが、確かに師匠、相手を失笑させるという意味において、卓抜なユーモアの主であるとはいえます。
何でも攻撃的な「風刺(サタイア)」ではなく、穏やかな「ユーモア」こそが大事なのだそうな。具体的にどういうのかというと、講演でこういうことを言うんだそうです(39-40p。以下は大意です)。
「私も最近では月に十ほど講演依頼が舞い込んできます。全部は出れないので三つほど選んで依頼を受けています……あ、これじゃ今日は来てやった、みたいですね、すみません」
これがギャグだそうです。
髭男爵も太鼓判、らしいですよ。
い……いえ、何しろ講演でじゃぶじゃぶ稼いでいらっしゃる師匠のことです、さぞかし講演慣れしていらっしゃることでしょう。字面を見たらくすりともできなくとも、実際の講演の場ではドッカンドッカンいっていた可能性もあります。
ちな、これは「相手に社会的立場をもってマウントを取りたがるマチズモ」を風刺したものかと思いきや、長時間労働を風刺したものらしい。まあ、どちらも似たようなものとはいえますが、何にせよこれ、ユーモアじゃなくて風刺だよなあ。
以前もさんざん指摘した通り、師匠はマッチョ揃いの「男性学」者たちの中でもことさらにマチズモを振り回したがる御仁*3。上の下りも自分が売れっ子だと自覚なく自慢しているように、どうしても読めてしまうんですよね。
また、「女性社員にお茶くみをやらせるのは差別」みたいなことを言って、場が静まるや、「黙り込むということはみなさん、身に覚えがあるということですね」と突っ込むと聴衆一同、笑いとなる、といった場面も描かれています。ご当人は「男たちに気づきを与えてやったぞ」と大満足なのですが、そんなの、「笑うしかないから笑った」んじゃないでしょうかね。生徒が先生に怒られた時、気まずいんで笑うのといっしょです。また何%かが師匠の思惑通りに「真実に覚醒して笑った」としても、ほとんどの人間は同調圧力に負けて笑っただけでしょう。てか、そもそも、別に「女子にお茶くみさせるとはけしからん」なんて三十年以上前から言われていたことを、今日、言われてハタと気づく人がこの世にいるとは、思えないのですが。
*3 師匠の著作にはいずれも他の「男性学」者と比べても抜きん出た攻撃性が秘められているのですが、特に非道いのは『男が働かない、いいじゃないか!』における中年男性との道を譲譲らぬで争っての揉めごとのエピソードでしょうか。
――さて、他にも深澤真紀師匠のインタビュー記事含め、いくつかあるのですが、すっ飛ばして次に行きます。
〇杉田俊介 ラディカル・メンズリブのために
杉田師匠と言えば、自分だけは縦横無尽に「モテない、苦しい、でもそう言ったらミソジナスだと叩かれる」と被害者意識を発揮して、しかし自分以外の男がそれを言ったら容赦なく叩くというさわやかなダブルスタンダードを発揮した御仁として、当ブログ読者にはすっかりおなじみの人物かと思います。
本稿においてもひたすらフェミニズムへの服従を誓った後、以下のように述べます。
複合差別的状況(ポストマイノリティ的状況)の中では、私たちは被害者意識に陥りやすいからだ。実際、現在はいわば「グローバル被害者意識時代」と言えるものであり、性差別、障害者差別、人種・民族差別などが絡み合って化学変化を起こしつつ、様々な形でバックラッシュや歴史改竄が行われている。差別者や排外主義者たちによって、フェミニズムやマイノリティ運動の蓄積と達成が簒奪され、歴史修正が日々行われてしまっている。だから、「この世にはいろいろな差別がある」という相対主義に陥ることなく、はっきりと強く濃く、男/女の間に性支配という線を引き直した方がいい。そう考える。
(109p)
いや、頭のてっぺんからシッポの先までアンコのつまった、味わい深い名文です。
この文章、前半はかなりいいことを言っています。「現代は状況が複雑だから、誰が被害者かってよくわからないよね」と言い換えるならば、ぼくはこれに賛成します。
一方、「被害者の方がトクな世の中だから、みな被害者ヅラをしたがる」。これも賛成です。人は「トク」を取ろうとする生き物なのだから、それも一概に否定できないと思いますが、不当に「被害者」ヅラをするのはよくない。これは小浜逸郎氏の名著『「弱者」とはだれか』の後半で「ボクもワタシも弱者」との痛烈な節タイトルが設けられている通りです。
とはいえ、少なくともフェミニズムの「被害者ヅラ」には根拠がなく、「男性」が被害者であることには理がある。それを精緻に描破したのが拙著でした。
しかし後半はどうでしょう。
フェミニズムがバックラッシュや歴史改竄の名手である以上、「バックラッシュや歴史改竄が行われている。」との指摘は首肯せざるを得ません。しかし「差別者や排外主義者たちによって、フェミニズムやマイノリティ運動の蓄積と達成が簒奪され、歴史修正が日々行われてしまっている。」というのはどうでしょうか、フェミニストこそがこの地上最強の差別者、排外主義者、歴史修正主義者であると、ぼくには思えるのですが。そもそもアンチフェミが歴史修正したことって、ありましたっけ?
しかし杉田師匠の本領が発揮されるのはここからです。
師匠は「男も痛みや傷、恐怖を手当てし、ケアしてよい(111p)」と言います。
大変よい言葉だと思うのですが、それに続く言葉がよくありません。
男たちはまず一方で、自分たちの中の痛みや傷を問わねばならない。構造的な男性優位にもかかわらず、なぜ男性たちの幸福度は低く、自殺率も高いのか。なぜ多くの男性たちが被害者意識を抱え、闇堕ちしていくのか。
(111p)
いや、つまり、「男性優位」というあなたの所属するカルトの教義が間違っていたということではないでしょうかw
何しろ幸福度が低いというデータまで持ち出しているのにもかかわらず、「それでも男が被差別者であってはならぬのだ」と泣き叫び続ける杉田師匠の態度は、率直に言って正気だとは思えません。
最後の最後には「涙を流せずに泣き続ける「男」としての自分自身を配慮し、ケアし、手当てすること(116p)」などといったフレーズも登場し、これも非常に素晴らしい言葉だと思うのですが、それでもまだなお、師匠はフェミニズムの呪縛から逃れられないでいる。
それは丁度、仮面ライダーV3の味方になって、デストロン首領を待ち伏せていたのに、V3が首領へキックを放つと「首領、お逃げください!」と自らの身体を盾にしてかばってしまう、ライダーマンのように。
――本当に聞きかじりの豆知識なのですが、「カルトは事実をスイッチしている」という話を聞いたことがあります。
カルトの信徒は「1+1=5」というカルトの教義と「1+1=2」という一般常識の二つの世界での生活を余儀なくされる存在であるため、「5であり、2でもある」という支離滅裂な考えを持つのだそうです。恐らくその場その場で5と2をスイッチさせて、その場その場のつじつまをあわせているのではないでしょうか。
本特集にご登場のお歴々の言は、それと同じです。
フェミニストや表現の自由クラスタを見ていると非常にしばしば、彼ら彼女らが「目の前に突きつけられた、明々白々な事実の否認」をする場面に遭遇します。杉田氏の「男性観」を見ても、そこまで言うなら「男は全員悪魔、殲滅せよ」という(一般的なフェミの)思想の方が整合性はあるわけなのに、「男も辛い」というテーゼを持ち出してきたがために支離滅裂になってしまっています。
想像するに「男をも癒す女神のようなフェミニスト」というお気に入りのAVのネタを手放すことができず、こうなってしまったのでしょう。
最後に杉田師匠のありがたい言葉で、当エントリを終えたいと思います。
こうして、ラディカル・メンズリブはつねに、分裂的な二重の問いを必要とする。
(112p)
いや、それはラディカル・メンズリブが間違っているからだと思いますw
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