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 しつこいようですが、この本についてです。
 前回の件については、小山エミ師匠とツイッター上で長い長い議論になってしまいました。
 それら議論は以下のリンクで読むことができます。

ジョン・マネーの「双子の症例」の否定は、フェミニズム理論の否定にもつながるか?
上野千鶴子師匠は「双子の症例」を否定したか?

 一つ目は小山師匠のお友だちがまとめてくださったものです。
 小山師匠のお友だちは、

「ボク、全然知識が無いから詳しく説明してよ!」
「英語は読めないふぇぇぇぇぇん(><)」
「上野千鶴子は欺瞞が多いので、上野千鶴子が紹介するマネーの業績全部が欺瞞?」
「嘆き」

 などと下品な見出しをつけることで相手を貶めるのみならず、
「マネーのトランスセクシュアル研究はジェンダーフリー教育などで利用すべきか?」

 など、どう考えても議論と関係ない見出しをつけてもいます。
 フェミニストへの信頼感が、いや増しますね。
 二つ目はその後のやりとりをぼくがまとめたものです。
 ぼくの方も下品な見出しをつけてバランスを取ろうとしたのですが、情けないことにやり方がわかりませんでした
 結局、議論としてはぼくの方が(ちょっと本業が忙しくて……)放り出してしまった形になり、悔いの残るものになりましたが、それだけではあんまり中途半端なので、ここでちょっとまとめめいたことでも書いておこうかと思います。

 さて、小山師匠とぼくとの論点は、「マネーの『双子の症例』は前世紀末に否定された。それ以降、果たして上野千鶴子師匠はそれを正しいものとして引用し続けたか、否か」という点についてでした。
 前回のブログ記事で、ぼくは上野師匠の著作『差異の政治学』を調べ、「上野千鶴子師匠はそれを正しいものとして引用し続けた」と結論しました。
 ところが、小山師匠の意見では、「それは違う」という。
 両者の争点をでき得る限り価値中立的にまとめるなら、

 兵頭:確かに上野師匠の著作に「双子の症例」についての言及はない。しかし「マネーがジェンダーアイデンティティは後天的に決定されることを実証した(大意)」と言っているではないか。これは「双子の症例」を論拠にしている証拠だ。
 小山:いや、違う。マネーは「双子の症例」とはまた別な、性同一性障害者の臨床例などからそのようなケースを見出した。上野本で述べられているのはそれらの例についてだ。

 といったことになるでしょうか。
 確かに、上野師匠の本はやや曖昧な記述ではあるものの、確かにそのように読めなくはありません。「双子の症例」が否定されたことについても明示されてはいないものの、それを指し示したらしき記述もあります。また、『バックラッシュ!』におけるインタビューも、小山師匠の解釈の妥当性を揺らがせるものではありません。

 ただ、とは言え、ぼくには疑問が残りました。
 結局、「性同一性障害者の症例」を一般的なものとして敷延できるのか。前回にも書いた通り、「性同一性障害者のジェンダーは男脳/女脳という先天的な要因に左右されている」と考えた方がいいのではないか、と思えるのです。
 しかし小山師匠は(やや、言葉としては曖昧に思えましたが)取り敢えず、性同一性障害者の症例を敷延することに問題はない、という立場のようです。
 正直、疑問ではあるものの、ぼくもその辺りについてどう考えるのが妥当なのか判断し兼ねます。
 この辺り、ちゃんと調べてみようとも思ったのですが、なかなか時間も取りにくいので一応、ペンディングにしておこうかと思います。

 一方、「とは言え、前世紀まではフェミニストが『双子の症例』を大いに論拠にしていた」こと、「上野師匠は置くとしても今世紀に至ってもいまだそれを続けているフェミニストだっている」こと、この二点は動かしがたい事実であるように思います。
(この二点については、残念ながらお答えをいただけませんでしたが……
 以上のような理由から、上野師匠の例を除き、やはりぼくは前回の記事について訂正の必要を覚えないのですが、いかがでしょうか。