相変わらず、上野千鶴子師匠のレビューの再録です。
レビューといっても、これは動画でも言及された、爆問の番組に師匠が出演した回を観ての感想。
動画を未見の方は、是非本稿読了の上で、ご覧ください。きっと、百倍は笑えることになりましょう。
では、そういうことで……。
二十年ほど前、バブル経済華やかなりし頃、日本がフェミニズムブームにあったことは幾度も書きました。当時のフェミニストたちはミスコンテストやポルノなどに対して「女性差別だ」と噛みつき、ウザがられ、次第にメディアの表舞台から姿を消して行政に擦り寄るようになっていきました。
そうしたミスコンテスト反対運動の中には、中年フェミニストがレオタードを着てジャズを踊りながらデモをするといった、笑うに笑えないものもあったそうです(ぼくは見たことはないのですが、雑誌で誰かが書いていました)。
一方、一時期『TVタックル』によく出ていたフェミニストの田嶋陽子センセイ。彼女もメディア露出が高かった頃にCMキャラクターとして起用され、確かチャイナドレスの裾から脚をチラチラ見せていたことがありました。『タックル』でも、斜のかかったプロモーションビデオ風の映像を録られていたことがありましたし(拙い表現しかできず恐縮です、アイドルを録るような演出で画を録られていたことがある、ということです)。
さて、今回の表題である『爆笑問題のニッポンの教養』、昨日放送のFILE147:「女と男“仁義なき戦い”」においても、上の二例に負けないグロ画像が放映されました。上野千鶴子センセイのセーラー服姿です*1。
いや、国営放送は結構です。これが民放なら、間違いなく画面はNICE BOAT状態だったことでしょう。
あぁ、テレビは怖いな、と思いました。
思えばフェミニズムの失墜には、田嶋先生のテレビでの言動が大いに貢献していることと思います。
むろん、田嶋センセイの(そしてその他全てのフェミニストたちの)言動は全て支離滅裂のデタラメです。しかし、テレビメディアはその支離滅裂さを論理ではなく感覚で、日本国民に悟らせてしまいました。嫌な言い方ですが、仮に田嶋先生がもしも美少女であったなら、主張そのものが同じでも視聴者の捉え方は全く違っていたはずで、やはり論理以前のイメージで人を裁いてしまうテレビメディアというのは(優れた面もあるものの)やっぱり怖いな、と思い知らされたわけです。
田嶋センセイのグロCMについても、大竹まことさんが「言行不一致じゃないか」と批判するのを、司会の女性(阿川佐和子さん?)が「現場で頼まれて断れなかったんじゃないか」と弁護していたのを思い出します。
「上野センセイも拒否れよ、そんな格好」と思わずにはおれません。
が、センセイ方の本心を勘繰るのもナンですが、彼女らきっと、満更でもなかったのではないでしょうか。
「そんなバカな」と思われるでしょうか?
しかしそもそも上野センセイ、マスコミの取材の前には念入りにお化粧なさっているそうですし。
それに時々、女流文化人がとんでもないグロ画像を流出させ、ぼくたちを驚かせることって、ないでしょうか。
すみません、「ないでしょうか」と言っておいて、ぼくもそれらの具体例をそれほど多く知っているわけではないのですが、しかし頭の中の記憶を思い起こしてみる限り、それらグロ画像は大体、大物写真家によって撮影され、モデルとなった女流文化人は何を担保にした自信か、自らのグロ画像を誇らしげに発表しているように思われます*2。
「男をバッタバッタと叩き斬る」といった芸風でメディアにもてはやされる女流作家を見ていると、どうも彼女らの中では出版社やメディア業界そのものが男性の代償になっているような節があります。内田春菊センセイとか、そうですよね。
大物写真家による「キミのヌードを撮影したい」とのオファーは、彼女ら女流文化人たちの耳には超イケメンの甘い囁きのように聞こえていることでしょう。モテない男からは想像のつきにくい世界ですし、そもそも彼女らを口説こうという気持ち自体が沸かない以上、いずれにせよ想像を超えた世界の話ではあるのですが、しかしそれにしても彼ら写真家、テレビスタッフは一体誰得を狙ってあのようなグロ画像を世に垂れ流すのでしょうか。
それとも「批評」なのでしょうか。
即ち、勇ましいフェミニストたちが実のところ田舎の女子中学生よりも落としやすい、「古鉄の女」でしかない、という。
番組自体は、タイトルからも自明なように爆笑問題の冠番組です。
番組開始早々、ふたりが秋葉原のメイドカフェに出かけていき、「カクテルしゃかしゃか♪」みたいな恥ずかしいパフォーマンスを見物させられます。爆笑のふたりも、もう慣れているのか平然とサービスを享受していました。
(http://pinafore.jp/←ここですね。見せられているぼくも辛かったけど、メイドさんたちも辛かったことでしょう)
と、そこへ上に書いたようにアイドル風のコスプレをした上野センセイが登場。女らしい格好をすれば世間は「女」と認める。ジェンダーとはフィクションなのだ、とのおなじみの説法を開始します。
しかしオカマやオバさんたちが可愛らしい格好をしたところで、AKB48のように扱ってもらえるのかというと、それはそうではない。画面に立ち現れた上野センセイのグロ画像は百万遍の言葉よりも明瞭に、センセイの机上の空論が誤りであることを視聴者に直感的に悟らせてしまう。
映像は、テレビは残酷です。
太田さんはメイドカフェの本質を「処女性」であると喝破します。まあ、あのメイドさんたちが処女っぽいとは思えないんですが、なかなか切り込んだ言葉です。
上野センセイは「男にとっての自分を脅かさない、従順な女」をカリカチュアしたのがメイドカフェであると指摘。「処女を好む男はプライドがもろい、不安が強い」とご高説を賜ります。
そりゃ、そうです。おっしゃっていることに、間違いはありません。
ですが重要なのは「男の処女性へのこだわりは女の童貞への嫌悪と全く同じ、同じ構造の鏡像」ということなのです。今更こんなこと、言わせないでください、恥ずかしい。
続けてセンセイは「男は女ではなく男にこそ認めてもらいたいのだ」とのホモソーシャル論をここでも繰り返します。
そこに流れるBGMは『あしたのジョー』のOP。
ここで視聴者は理屈ではなく感覚で、上野センセイのロジックが「古い」ものであることを悟ってしまいます。むろん、スタッフたちは意図していないでしょう。浅はかで天然なスタッフたちが、何も考えずにBGMをセレクトしただけでしょう。しかしその「浅はか」で「天然」な演出が誰よりも鋭く、上野センセイの古さを「批評」しています。
怖い。テレビは怖いです。
センセイはその次に、2008年に起きた秋葉原無差別殺傷事件を話題にします。
彼女は事件の犯人が彼女を欲しがっていたことに言及。そう、あの犯人は男に認めてもらうことでも社会に認めてもらうことでもなく、女に認めてもらうことで自らのアイデンティティを保とうとした人物でした。おやおやご自分のロジックを一分後には平然と翻して、ご本人はそれに気づいてもいません。
東浩紀センセイがアニメを語れば語るほどポストモダン理論の過ちが顕わになっていくのと、全く同じ構図です。
後は男の子たちに対して、「女の子と人間関係を構築せよ」「生身の女の子とつきあって欲しい」とお説教。『女ぎらい』では生身の女性に振り向かないオタクたちに対して「無害な存在」と肯定的に評価なさっていたはずなのですが。
「この四十年間で女は変わった。男は追いついていない」との上野センセイの言葉に、田中さんは「ジャニーズ人気などを見れば、女も変わってない」と切り返します。
上野センセイの「我々はルール(ジェンダー)に縛られているのだ」との説に、ふたりは「縛られているのではない、楽しんでいるのだ」と反論します。「メイドカフェを楽しむことも人間らしさのひとつではないか」。メイドカフェで楽しむのはゴメンこうむるとの個人的見解は置くとして、至極もっともな意見です。
田中さんは「女にモテる男のタイプはいっしょだ、男だって傷ついている」とも言います。男が女を差別していると言うが、同じジェンダーのルールの上で、男だってワリを食っているのだ、ということですね。
太田さんはかなり上野センセイに対して怒っているご様子で、対応もだんだんとぞんざいになっていきます。
太田「『キミ可愛いね』はセクハラなのか?」
上野「望んでない場合はセクハラだ」
太田「そんなこと言い出したら何も交流できない」
といったやり取りの後、太田さんは「そもそも生きていく上での苦しみがなくなるわけがない、それは誰のせいでもない」と主張します。
「お笑いというのはあらゆる存在を嗤うものだ。嗤っていいのだ。それによって人を傷つけることもあるが、それを恐れていたら何もできない」。
(これは要するに、お笑いが「ブス」を笑いものにしたからといって、それを「セクハラ」扱いされてはたまらない、といった文脈での発言かと思われます)
ただ、いかにも太田さんらしい考えではありますが、これはぼくたちの陥ってしまいがちな「おゲージツ偉い論」で、全面的に首肯するのはちょっと、留保しておきたいとは思いますが。
最後は少し太田さんも折れ、番組としてはまあ、何とかまとまって終わるのですが、彼はかなり上野センセイにお腹立ちのご様子でした。
一方、恐らく上野センセイも納得はなさっていないでしょう。どっかの雑誌で「あのふたりは家父長制に縛られたままだ、ジェンダー構造をわかっていない」的な怨み節が読めるかも知れません。
が、(こういう言い方は「爆問もまあまあやるね、しかし俺に言わせればちょっとね」的な傲慢さが滲み出て恐縮ですが)上の「おゲージツ偉い論」が象徴するように、また、メイドカフェを全面肯定してみせたことが象徴するように、ある種、爆笑のふたりは「ジェンダー全肯定」という立場になってしまっています。
いえ、30分番組の限界でもあるし、上野センセイに対する態度として、ムリもない(ぼくでも同じ立場ならああ言わざるを得ない)部分もありますけれど。
が、それは上に「怨み節」と書いたように、上野センセイからは「強者の論理」と映ってしまうわけです。「わかっていない」と。
ぼくはそれを受け容れた上で、「しかし上野センセイもわかっていない」と思うわけです。
「男女のジェンダーをある程度受け容れた上で、できる範囲で地ならしをしていく」というのがぼくのスタンスであることは、当ブログをお読みの方にはおわかりいただけていることと思います。
そして今の世の中、もっぱら女性ジェンダーばかりが優位で男性ジェンダーが劣位に置かれているということも、みなさんもうおわかりだと思います。
しかし、どういうわけか、信じがたいことに、そうした「男性の劣位性/女性の優位性」をフェミニストばかりではなく、一般の女性たちも驚くほどに理解がない。
そのことのひとつの象徴が、冒頭でややしつこく描写した「上野センセイのグロ画像」だと思うのです。
「AVスカウトマンは性的虐待を受けた女性を見抜き、彼女らをモデルとしてスカウトするのだ」。
ぼくには、それが事実だかどうだかわかりません。そもそも町を歩いている女性を見ただけで、性的虐待を受けたかどうか判断できるものなのでしょうか(その女性によれば「判断できる」のだそうです)。
しかし、彼女の言葉をできる限り肯定的に受け取るのであれば、以下のような「解釈」ができるかと思います。
・性的虐待と言っても、その程度はいろいろある。幼児期のレイプといった重篤なものもあれば、電車の中でいやらしい目で見られた、といった軽いものもある。
・性的虐待を受けた女性は、往々にして自己否定的な、陰鬱な態度を取ってしまう(或いは裏腹に過度に性的な態度を取る)。それは見れば大体わかる。
・そうしたおとなしそうな(或いは過度に派手な格好をした)女性を見て、スカウトマンは「あの女ならやれる!」と判断して、声をかける。
まあ、かなり拡大解釈ではありますが、こうして見れば彼女の言うことも、一理くらいはあるように思います。良心的なAVメーカーがほとんどだと思いたいところですが、かなり悪質なメーカー、スカウトマンもあるでしょうし。
しかし同時に、そこまで拡大解釈が許されるのであれば、「自主的に、自らの意志で天職と信じてAV女優をやっている女性」に対して同様の意味づけを行うことも、可能ではある。
このエピソードは、まさしく「男性から求められる私」という物語を欲する女性が、「しかし、悪いのは私を求めた男性だ」という落としどころをかなりムリヤリに捏造していることの一例でもあります。本当に上の女性の言うことが100%真実であるのならば別ですが、そもそもそのAVスカウトが明らかな騙し討ちをしていない限りは、女性の方も自分を律して判断すべきでしょう。
そしてそれは、もうおわかりかと思いますが、大物写真家に「求められた」ことで自らのグロ画像を邪気なく晒す女流文化人、そして結構ノリノリでコスプレをしてしまう上野センセイの姿と全く、同じです。
上野センセイがもし、最初から最後までメイドカフェを完全否定していたのであれば、(賛成はできないけれど)その思想は一貫していると言えます。それは即ち、冒頭の例に喩えればミスコンテストは女性差別であるとして、レオタードを着ずにデモをする立場でしょうか。
しかしノリノリでコスプレをして、にもかかわらず邪気なく男を批判してみせる彼女は、あまりにも自分が見えていません。
これを男女を逆転して喩えるとするならば、メイドカフェでメイドさんのスカートを覗いて大喜びしながら、一方で「最近の女はふしだらだ」とホンキで憤ってみせるオッサン、みたいなものでしょうか(恐らく彼女らの脳内にはそうしたオッサンが今も生き生きと生息しているのでしょうが、現実世界では既に、絶滅寸前です)。
こうした女性たちの、自らの業、彼女らの業界の言葉で言えば「女性ジェンダー」に対する無自覚さ、無反省さこそが、「女災」の原因であることは、もうみなさんもおわかりでしょう。
ぼくは拙著で今の女性たちを「フェミニズムによって女性性の発揮を阻害された、言わばメイドカフェの店員になり損ねたメイドカフェ難民である」と表現しました。
しかしそのフェミニズムのドンですら、実はメイドカフェ店員になりたがっていたという事実。いいえ、「メイドカフェ店員になりたいけれど、突っ張ってみせる」ほどのツンを見せず、だらしなくデレてしまう軟弱者であった事実。
ぼくたちの言葉は、それを批判するのに全く追いついていない。
ところがそれを、テレビメディアはまさしくぼくたちに「直感的」にわからせてしまった。
やはりテレビは怖ろしい、と言わざるを得ません。
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