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 目下、『Daily WiLL Online』様でオープンレターについての記事を連載しております。
 第二弾は現時点で第五位!
 力の入ったものなのですが、どうもタイミング的に「炎上」の谷間に入った感があり(何しろ訴訟沙汰を起こしているので、また話題としては再燃必至なのですが)、どうぞ本件を世間に周知させるためにも、応援をよろしくお願いします。

 さて、今回は『3D彼女』。
 萌えブーム最盛期から収束期までを駆け抜けた、リア充女子向けの「何か知らんがアキバブームとか言ってるから乗っかっとけ企画先行漫画(個人の感想です)」。
 本作そのものはどうと言うことはないのですが、むしろ『モテキ』との比較のために、今回発掘してきました。
『モテキ』は、「ヤンキー女」を至高の存在とする「サブカル女」が、自分よりも格が下だと信じる「オタク男子」にマウントしてマスターベーションする漫画でした。
 では本作はとなると、「ギャル」が「知らないけど、何かオタクが流行ってるらしいから乗っかった」漫画。
 実はネットで定期的に盛り上がる、「オタクはオタクに優しいギャルを求めるが、そんなのはいないぞ」との物言いは『モテキ』の作者が本作を見て、本作がオタクを見下していないことが許せず、泣きながらあちこちで触れ回っていることなのではないか……。
 では、そういうことで……。

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 ど~も~。
 今日も「ツイフェミ」とやらいう非実在フェミを相手に「萌えフォビア」とかいう、「この世に存在しない言葉」を武器に、みなさん元気に戦っていらっしゃるでしょうか?
 というわけで今回のお題、『3D彼女』です。あ、すいません、上の一文は枕として書いただけで、以下の記事には何ら関連してきません
 ちょっと前、何となくテレビを観ていたら、本作の実写映画のCMを見てしまい、慌ててGEOで借りてきて読み出しました。「非モテのオタク少年にものすごい美人ガールフレンドが」というストーリーの少女漫画です。
 みなさん、いかが思われたでしょうか。
 要するに『電車男』ですよね、これ。
 そう、あの作品のブームの後、「Aボーイ」だの何だのちょっとだけオタクがもてはやされ、しかしそれへの(当然あるべき)カウンターとして『電波男』が登場。ラノベなどでもオタクを主人公にしたネタが溢れ、ようやっとオタクは自分自身について語りだしました。
 が、ここ数年、そうした流れは途絶えてしまっています。当ブログの論調も近年、「オタク敗北論」とでも称するべきものへと傾いていたかと思います。『電波男』がつぶされたのは、「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」の仕業でしょう。時々言うように、「出版当時は意外に肯定的だったのが、後々手のひらを返した」という連中が多かったように思います*1
 もう一つ、指摘しておくと近年、オタクは「女嫌い」というよりは「女の子に弱い」キャラとして捉えられるようになってきています。「オタサーの姫」という概念もそうでしょうし(本来は女子の中でも二軍がパッとしない男を相手にしている、との意味の言葉だったはずですが、次第にむしろ「女に飢えた男」の側に照準があわされるようになった感があります)、『ネットハイ』においてすら「オタクは女慣れしていないから、ちょっと優しくされるとすぐ好きになる」などと語られています。
 一方、本来オタクコンテンツであったものが、近年オタクから離反しつつあるように思われます。これはなろうにおける転生ものだの、エロゲに取って代わったソシャゲの隆盛などが原因であるように思われ、「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」のせいだとは考えにくい……と思うのですが……。
 まあ、本稿はそんなことをつらつらと考えている人間による感想であると心に留めて、読んでいただければ幸いです。
 ちなみにクライマックスのネタバレまで全部してしまいますので、これから本編を読もうとしている方は、ここから先はお読みになりませんよう。

*1 後藤和智師匠など。

 ここしばらくの少女漫画でオタクネタというと、「オタクなあたしがイケメンにモテる」といったものが主流だったと思います。『私がモテてどうすんだ』とか。『うまる』もそうでしょう、掲載誌は少女漫画誌じゃありませんが。
 ところが本作は美人がオタクに惚れ込んで尽くすという図式で、まさに『電車男』、否、女性の方が能動的な『超電車男』とでも呼ぶべきもの。しかし、ちょっと不思議なのは、そのヒロインである色葉ちゃんが何を考えているのかが、どうにも伝わってこない点です。
 読み始めた当初は「ギャル」なのかと思いましたが、これは絵のせいで、ぼくがそのようにミスリードしただけのようです。鼻筋が通り、唇を強調して描かれるタッチは、オタク的な絵と比較すればそのように見えてしまいます(掲載誌の『デザート』の読者層については知りませんが、恐らく腐女子寄りではなくギャル寄りなんじゃないでしょうか)。そんなわけで、当初は『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』の桐乃みたいな感じで、オタクとギャルという存在のカルチャーギャップを描くとか、そういう話なのかと思ったのですが、どうも違うようです。
 色葉ちゃんは難病を患い、手術のための渡欧を控えていて、おつきあいが半年限定のものであることが冒頭で語られ(しかしその詳細は余り描かれず)、それがまた彼女を謎の存在にしています。彼女は美人のせいで友人のいない存在として描かれており、ある意味それのみが彼女のアイデンティティとなっています(文化祭の美人コンテストで自分をやっかむ女子に痛烈な返しをするというエピが入るんですが、少女漫画ではこういうの、定番なのでしょうか?)。
 いえ、本作はあくまで主人公である筒井という少年の視点から描かれている話であり、それはそれで構いません。それよりも問題は、一体全体どうしたことか、極めておかしなことに、本作ではこの筒井君のオタクとしての生活がほとんど描かれていないことです。
 例えば、「えぞみち」。何だか奇妙な名前ですが、筒井君がハマっている萌えアニメの主人公です。ところがこの作品がいかなるものかはほとんど描写されず、物語前半ではこのえぞみち(の幻影)が度々出現しては、筒井君に「現実を見ろ」と叱責します。あ、ちなみに物語後半はほぼ出番がなくなります
 筒井君には伊東君というオタク友だちがいます。可愛らしいショタキャラで(オタクネタでは友人がショタ系ってのが多い気がします。ある種、オタクの「幼児性」をここで表現するためでしょうが)一体全体どういうわけかこの人、頭に猫耳をつけています! 学校で、です! いや、それが可愛いのが困るんですが!! この猫耳カチューシャ(なのか?)は劇中で本人が、「オタクであると居直り、外に知らしめるためにつけているのだ」と言及しています。これはオタクが、例えば敢えてアニメキャラの下敷きを学校に持っていくような行動をディフォルメした表現なのでしょうか。いや、作者がそうした「オタクあるある」を知らず、頓珍漢なネット記事か何かを真に受けて描いたって感じもするぞ*2
 この伊東君の恋のお相手として途中から腐女子(なのか?)キャラが出てきます。が、上に「なのか?」と書いたように、この娘もやはりオタクとしてはあまり描かれません(筒井君はやたらとスウィーツを作っているところが描かれるのですが、それに歩調をあわせるようにこの娘、ガーデニングを趣味としている様子がやたらと描かれます)。伊東君とアニメ映画を見に行っても(セリフとして、「アニメの映画に行こう」と言います。『絶望先生』なら「テニミュに行こう」など、具体的な作品名を出してくるところですが)会話は「CGが」「主人公の乗るマシンが」「サブキャラが」と、何かふわっとしたもの。
 一方、結局、伊東君はふられてしまうのですが、「告白して振られたけど、経験値が上がってよかったよ」と言うなど、RPG系の用語だけはちょっと使われるのが笑っちゃいます。
 作者はオタクそのものには、何ら関心がないようです。
 何しろ、11巻(最終巻の前)に至ってようやっと色葉ちゃん、筒井君とのデートで観て「アニメの映画もバカにできないんだね」なんて言う始末です。
 今さらかよ!!
 言っておきますが二人、第一巻からずっとつきあってます。どう考えても筒井君が初デートで自信満々でオタク丸出しのデートコースを組むの巻、で済ませておくことでしょう。オタクの痛さをギャグ的に描いた挙句、最後にしかし色葉ちゃんがアニメ映画で泣いてしまうという。
 何しろ初期巻では筒井君がロリコン冤罪で濡れ衣を着せられるという、ものすごい展開が描かれます。ここはかなり期待したのですが、しかし筒井君は妙に飄々としており、事件もどうということもなく解決してしまいます。解決後は自分に濡れ衣を着せたDQNと何とはなしに友だちになってしまうのもあんまりで、ここ、DQN側が反省するなり筒井君を男として認めるなりが必要なはずですが、そんな描写もあまりなし。さすがにそこはどうなんでしょう。
 後、筒井君、時々幼女に関心を示す描写があります。最終巻辺りでも結婚した友人に「女の子を産め」などと言っています。しかしここも「何か、知識として、オタクは幼女という言葉を使う」と知り、取り敢えず言わせた感じです。では、筒井君はロリコンなのかとなるとその辺の描写が丸っきりなく、その幼女というものにオタクの込めた、性的なムードが本作では感じられないのです。どうなんでしょう、それ。
 敢えて言えば、二人がカラオケに行った時、アニソンを歌う筒井君に対して、色葉ちゃんが「(どっ退きではあるものの、しかし一周回って)何か格好いい」といった評し方をぼそっとします。このさりげなくぼそっとという点含め、何だかこの一点だけはちょっとリアリティを感じましたが、本作における「オタクあるある」はまあ、せいぜいそれくらいです。
 結局、筒井君は単なる「非モテ」としてのみ、描かれているのです。
 オタクのオタク性もただ「女慣れしていない」という「非リア」性とでも読み替えるべきものでしか、本作ではありません。
 本作の本質は「恋愛にウブな少年がドギマギするのを愉しむ」というものです。それは丁度、『おそ松さん』の腐女子人気を見て、ぼくたちが「腐女子はニートが好きなのかよ!?」と愕然となるも、それはそうではなく、彼女らはただ「女に飢えている男が、女を求めるところ」、つまりトト子ちゃんがモテるところを見たいだけなのと、全く同様です。上にも書いたように、伊東君も失恋した時、「女の子を好きになれてよかった」みたいなことを言うのですから。

*2 しかしこうした、「オタク資産を狙ってすり寄りってきたリア充を叩く」という文化、ゼロ年代には盛んだったのですが(女性誌に勘違いした「ツンデレ」の解説が載るのをからかうなど)、それも懐かしいものになってしまいました。

 さて、先にも書いたクライマックス近い11巻。
 筒井君の母親は筒井君に対し「お前は色葉ちゃんとつきあうようになって変わった」と言い出します。
 いえ、恋愛ものなんだから、そういう展開にならざるを得ないでしょう。恋こそが全てというのが少女漫画を貫く価値観でしょうけれども。
 この巻では筒井君と色葉ちゃんがついに初体験を迎えるのですが、そこで筒井君が「お前に出会う前のオレには何もなかった、全部お前がくれた」と言うのに対し、色葉ちゃんが「そんなことない、いろいろ持っていた」と返します。感動的なシーンなのですが、まあ、普通に読む限り「筒井君は全てを色葉ちゃんに与えられた」。いや、「恋愛という至高の、ただ唯一のモノを与えられた」というのが本当のところでしょう。
 しかし、なればこそ、「えぞみち」という恋敵をあんなになおざりにすべきではない。そもそも『3D彼女』というタイトル自体が「2D彼女」という存在があることを前提として、そのカウンターとして出現したものであるはずなのですから。
 筒井君がえぞみちと色葉ちゃんのどちらを選ぶかを悩む展開。
 もうちょっと具体的に言うならば、果たしてオタク趣味と色葉ちゃんとのどちらを優先させるのかなどの描写は、あってもよかったはず。
 本作、連載開始は2011年。この翌年には「ボカロがライバル」なんて歌が出ています。そう、「まだ、オタクが勝っていた」頃です。しかし色葉ちゃんは恋敵の顔すら知らないのではないでしょうか。てか、作者の中ではえぞみちは最初から恋敵になり得ない存在であり、だからこそ彼女に主人公を叱責するという役回りを与えたわけなのでしょう。
 この11巻で、色葉ちゃんの難病についてが明らかになります。手術が成功しても記憶が失われてしまう可能性が高い。筒井君のことは忘れてしまうだろう。先にも書いたようにつきあいが期間限定であるということは当初から語られ、折に触れて蒸し返されてはいたものの、読後感としては「急に言い出した」感が強いんですね。だって「それが具体的にどういうことか」など、このクライマックスに至るまではほとんど触れないんだもん。
 で、まんまと記憶をなくしてしまう色葉ちゃんですが、筒井君からもらったマスコットを見て覚醒します。
 二人の記念のマスコットなのですが、これが大仏様をモチーフにした奇妙なもの。渡すシークエンスでは特に「ヘンだ」とは言われないんですが、記憶を失った色葉ちゃんはこれを見て「高校時代のあたし、どういうセンスしてたんだ」と漏らします。
 そんな中、筒井君は彼女と出会っても「ただのクラスメート」と称して消えようとするのですが、色葉ちゃんは彼のカバンにつけられた大仏マスコットに気づき、呼び止めるのです。つまり記憶を取り戻すきっかけになる、すごい重要なアイテムなのですが……つまり、まあ一応、奇妙なデザインにすることで重要アイテムと印象づけているのでしょうが、でも、普通に考えればこれ、美少女マスコットにしておくよなあ

 えーと、以降はぼくの妄想です。
 まず、筒井君が色葉ちゃんに(美少女)マスコットをあげるエピソードは早めに描いて、これをきっかけに(マスコットがキモいのキモくないのと)ケンカしてもよかったのではないでしょうか。
 そして筒井君とつきあっていた記憶を一切失っていた色葉ちゃん、自分の私物の中から美少女マスコットを見つけて「キモ!」と漏らす。
 そして……その「キモ!」は本心だったけれど、どこか心痛むものをも感じる。
 久し振りに帰ってきた日本では、街に萌えキャラが溢れている。
 色葉ちゃんは日本が萌え大国になっていると改めて思い知らされ、「今にこうなる」と自分の身近にいた人(筒井)がしきりに言っていたことをふと思い出す。
 そして、「キモ」と思った時の、自分自身の深層心理と共に、その言葉で傷つけた者の顔をも思い浮かべる。
 最初はキモいと思っていたけど、あんなに好きになった人。
 記憶を取り戻した色葉ちゃんは筒井君に告げる。
「キモいのは、あたしの中のキラキラふわふわしたもの――萌え的なモノ――に惹かれる気持ちだった……いえ、あたしの美貌に嫉妬した周りの女子たちがあたしに放った『キモい』という言葉のために、そう思い込み……その気持ちを、萌えキャラへとぶつけていただけだったんだ。そして、そのことに、あなたが気づかせてくれた」。
 ――とまあ、そんなオチこそが、望ましかったのではないでしょうか。
 つまり、萌え的なものを色葉ちゃんが受け容れるかどうかを、話の軸にするわけです。

 いえ、本作はあくまで少女漫画であって、上のような展開は、読者には望まれないことでしょう。
 ぶっちゃければ作者にしてみれば、編集者から与えられたテーマを、苦慮して何とか仕上げた(オタクになど興味がなかったのに、ある種外的要因で描かされた)のかもしれません。
 そもそも一漫画作品として、ぼくも本作を充分楽しんで読みました。
 こうしてオタクがオタクとしての立場で本作を批判することは、BLを見たホモが「こんなのホモじゃない」というようなものであって、野暮なことというか、言っても仕方のないことなのかもしれません。
 しかし、そもそも「萌え」とは少女漫画を源流にした、男の子たちが内面を史上初めて吐露するという一大実験であったといえます。
 初期の萌え作家、つまり八十年代から九十年代辺りに出てきた美少女系のエロ漫画家には少女漫画の影響を受けた者が大勢いました。しかしそこで彼らが描いたものがエロであったり、オタク的なメカや怪獣であったりといったことを鑑みるならば(初期の美少女コミックにとってエロもメカや怪獣などと同列の、ファクターの中の一つにすぎませんでした)、萌え作品は男の子が自らの(文学などではなく、もっとしょーもない意味での)内面を史上初めて紙の上に吐露した、空前絶後の表現だったのです。オタク以前にも男性の漫画家はいた、と反論する人がいるかもしれませんが、「プロが、子供たちのために描いてあげたもの」ではなく「素人が、何か適当に描いたもの」が市場性を持ったこと、そしてモノローグなどの多用による内面の吐露など、その漫画文法が少女漫画の影響下にあったことが重要なのです。
 だからこそ、本作におけるオタクの扱われ方には複雑な思いを禁じ得ないわけです。
 というわけで、本作についてはもうちょっとだけ続けようかと思います。
 次週辺り、続きをアップしますので、どうぞよろしく。

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 ――以上です。
 もっともぼくは本稿執筆後、本作を読み返したのですが、まず主人公が「俺はロリコンじゃない」と明言する箇所はありました。まあ、ひと言言っているだけのどうということのないシーンですが。
 また、クライマックスの妙なマスコットに文句をつけていますが、初期巻で主人公が色葉ちゃんに彼女のフィギュアをプレゼントし、色葉ちゃんが「こんなに可愛く作ってくれるなんて」と感動するシーンがあります。
 まさに色葉ちゃんは「オタクに優しいギャル」なわけですが、まあ、作者としては初期回には何とかオタクっぽさを出さねばと義務感を感じていたのが、後半ではもういいやとばかり、その辺りを投げ出した――といった辺りが、正しい読みであるように思います。