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さて、前回の続き、2010年9月21日の記事の再録です。
読み返すと当時から女性の「負の性欲」を満たすための「ブスコンテンツ」は存在したんだな、ということがよくわかるのですが、しかし萌え最盛期に、この久保ミツロウ先生が自分の絵で男たちが萌えてくれるとあどけなく信じていたことには、更に驚かされます。
そしてそれから十年、女たちは一切の気づきを得ることなく、ただ老いたわけです。
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以前も書きましたように、ネットなどの匿名メディアで『モテキ』の感想を漁ると、男(であろうと想像できる人)たちからのバッシングが溢れています。
ぼく自身、決して本作を好ましく思っているわけではないので、前にも批判的な文章をいくつか書きました。が、とは言えそこまでムカついていたわけでもなく、いささか微妙な批評になっていたかと思います。ドラマ版についても「さあ挙げ足を取ってやろう」と手ぐすね引いて視聴を開始したものの、退屈なだけで何の引っかかりもなく、最近ではついつい見逃すことも多くなっておりました。
が、ここへ来て心境の変化がありました。
すみません、今までぼく、『モテキ』の作者に甘すぎました。
これからは厳しく行きます。
というのも、本作のヒットに伴い、作者の久保ミツロウセンセイの発言をあちこちで拝見するようになったからです。
更には『モテキ4.5』という言わば『モテキ』のファンブックまで出る始末。ここではセンセイと文化人(笑)たちとの対談にかなりのページが割かれており、そこではセンセイの「男性向け漫画」での女性の描かれ方に対する嫌悪が、これでもかと語られていました。
少年誌で連載していた頃から、男の人が求める女性像というものに対していろいろ違和感を覚えることが多かったんですよね。特に少年漫画の女の子の描写で、「私ってご馳走でしょ」って言う顔をしている女が一番嫌いなんです。女としての完成度が凄く形骸化してる。
草食男子に「あなたたちこういう女好きなんでしょ?でもこういう女はいろいろ難しいんだぞ」っていう視点が一番描きやすかったから『モテキ』を描いてるんですよね。
随分古いことを言う人だな、と感じました。
ぼくが思い出せる中で同種の発言を見た一番古い記憶は、二十年ほど前の青木光恵センセイでしょうか。もう、申し訳ないですけれど「青木光恵」という名前だけで何だか笑ってしまいますし、更に遡れば、内田春菊センセイやそのフォロワーたちもおそらく、同種の発言をしていることでしょう。
しかしこの手の「男性の描く都合のいい女性像」へのアンチテーゼを気取って商売をする女性というのは馬に食わせるほどいますが、「女性の描く都合のいい男性像」へのアンチテーゼって全然見ませんね。
いいですね、女は楽で。
てか、そもそも彼女らのやっていることはそんなご大層なことではなく、単なる「美人」「可愛い女」に対する(羨望の裏返しとしての)憎悪の発露に過ぎないのですから、もう本当に、いい気なモノだ、と言うしかありません。
いい加減に二次元女子に嫉妬するのはやめてください、おばさんたち。
あなたたちじゃ、俺の嫁には絶対に勝てないんですから。
女性たちのこの種の感情の激しさは、尋常なものではありません。が、そうした憎悪は即座に「そんな女を好きになる男ども」への憎悪へとすり替えられ、女はいつまでも綺麗な身でいられる、という寸法です。久保センセイご自身、自ら創出したキャラ(ファム・ファタール的キャラである夏樹ちゃん)に対して
で、そういう女を好きになって苦悩する男どもバーカ!(笑)、と言ってやりたかった。
などとコメントし、またネットにおける座談会(http://natalie.mu/comic/pp/moteki)でも
「夏樹のような女性に入れ上げて酷い目に遭った」「夏樹のような女性はするりと手の中からすり抜けてしまう」と思い出を語る周囲の男どもに対し、「全員死ねばいい」と斬って捨てた久保ミツロウ。
あのさー、芸能関係の人とかみんな「小宮山夏樹が好きなんですよね」って。(「モテキ」TVドラマ版で監督・脚本を務める)大根仁さんも夏樹が好きで、こないだ会ったavexのお偉いさんも、唐木さんも夏樹でしょ? 私は、夏樹が好きだって言う男が、大っ嫌い!
と半狂乱で憎悪をぶつけまくります(普通、個人的にも親しくしているドラマ版の監督にこんなことを言うか!?)。
著書にも書きましたが、女性のセクシュアリティの本質は、まさしく「男性を悪者にすること」そのものなわけですね*。
*これとはちょっと文脈が違いますが、センセイは対談で主人公のフジ君を自分自身であると幾度となく繰り返しています。本作の本質が「女性が自らのダメな部分を省みているはずが、それがいつの間にか男性へ責任転嫁した上での男性への攻撃へとすり替わっている」というものであることが、これ以上はないくらいに明快に語られているわけですね。
同じ座談会で、相手の「久保先生はさ、なんであんな魅力的でかわいい女の子描けるの?」という問いに、センセイは
っていうか男が魅力的な女を描けなさすぎなの! 男の新人の作家さんとか、どうやったらかわいい女の子が描けますかってよく訊いてくるんですよ。お前らさんざんグラビアでマスかいてんだろ、と。どの女が好きだとかさんざん言ってるくせに、なんでそれを絵で再現できないのか信じらんない。
とまで言っています。それ以前に『モテキ』の女性キャラクターが魅力的とも可愛いとも、ぼくにはとても思えないのですが。
この座談会は(妙に内輪感覚でなされているせいか)本当に非道く、何と言いますか、ブスの「ガールズトーク(笑)」を居酒屋の隣の席でたまたま盗み聞きしてしまったような、何だかムカつきと居たたまれなさが渾然一体となった読後感を味わわせてくれる、まあ「痛い女マニア」必見の内容になっております。
もう一つ、対談で繰り返されるのは「女の子は言い訳が欲しい」ということ。
久保センセイが「女の子は『やむをえず』がだーい好き、っていうのがあって(笑)。」と言うのに 対談相手の江口寿史センセイは「だから本当はね、言い訳を男が言わせてあげなきゃいけないんだよ。」と応じています。
即ち、女性は男性にリードして欲しいもの、男女関係において女性が能動的になるには「やむをえず」という「言い訳」が必要、という言い分ですね。
なるほどなるほど、BL漫画やレディースコミックにレイプ描写が溢れているのは、そういうわけなのですね。
そして現世では男たちに求められなくなったため、女たちは男たちを種々の性犯罪冤罪に陥れることで、自らを「やむをえず性的対象にされてしまった存在」という位置に置こうと必死なのですね。
しかし、本当は、「男の子も言い訳が欲しい」わけです。
いくら楽な立ち位置から「どうして男の子ってこんなにも傷つきやすいの」と言われましても(確か漫画の中でヒロインの一人がそんなことを言っておりました)、それは女の子が今までその役割を男の子に押しつけてきたからこそなのであって、ここへ来てそれへの不満がようやく、爆発したというだけのことなのです。
だからこそ「言い訳」を用意してあげる萌え漫画がこれだけ売れているのです。いかに、女たちが萌えキャラに対して狂ったように嫉妬心を募らせようとも。
岡田斗司夫さんは「萌え」を「男女平等」であると喝破しました。
おそらくこの一言以上に「萌え」を的確に言い当てた言葉は、これからも出てこないだろうと思われる、見事な一言です。
しかしそんな「男女平等」を、久保センセイは歯牙にもかけません。何しろ彼女は対談において、『草食系男子の恋愛学』を「男のこんなロマンチシズムに女がどうして平身低頭で接しなきゃいけないんだろう。」と切って捨てています。さすがのぼくも、この時ばかりは森岡センセイに同情せずにはおれませんでした。
更に座談会において、彼女は
モテ期が来てほしいとか言ってる男はみんな絶滅してください。あなたが誰かのモテ期になってください、と。それに尽きます。指折り数えて待ってるくらいなら、誰かにそういう思いをさせたげればいい。好きじゃなくても。
とまでおっしゃいます。
久保センセイの上から目線にはムカムカきますが、ここまで来ると、何だかちょっと可哀想にもなってきます。
いかに男性であるフジ君をスケープゴートに置こうとも、もはやセンセイの本音は明らかなのですから。
言うまでもなく、それは
「お願いだから、アタシを好きになって」。
というものですね。
はいはい、センセイのお気持ちはよくわかりました。
その上で、これは皮肉でも何でもなく思うのですが、センセイが今なすべきことは一人称「俺」でガールズトーク座談会を開いたり、「久保ミツロウとカラオケできるカラオケ大会」なんていう企画に乗っかったりすることではないでしょう(当時、ホントにあったらしいです)。自画像を(他者であれば憎悪の対象であろう)セクシー美女にしてみたり、オジサンにしてみたりすることでもないはずです。
今であれば、『モテキ』バブルで対談を申し入れてくる「殿方」が大勢いることでしょう。だからこの機会を逃さず、彼氏をゲットするべく努めることです。「言い訳が必要」「やむをえずが好き」などと逃げ続けることをやめて。
それをせず、男性への憎悪を世に撒き散らしていても、久保センセイにも世の中にも、きっといいことなど一つもありません。そんな行為は決して「創作活動」などではなく、単なる「テロ」に過ぎないのですから。