目下、『Daily WiLL Online』様でLGBT関連の記事を掲載しております。
「LGBTから今度は「ノンバイナリ―」~歯止めの利かない"属性"の増殖」です。目下六位ですので、何とか五位以上に上がれるよう、応援をよろしくお願いします!
――さて、このブロマガではここしばらくミサンドリー関連ということで、『広がるミサンドリー』のレビューの再録をやっておりました。
さすがに『WiLL』様の記事の方が忙しくて、このところ再録ばかりになりつつありますが、考えるとこの再録シリーズ、初出のURLや初出の日付などを記しておりませんでした。基本、やっておくべきことのはずで、これからは明記しようかと思います。
さて、今回の元の記事は前回分のかなり後になって書かれたもの。
前回分は2016年12月16日に書かれたのですが、今回分(つまり二回目)は2018年3月30日に発表されています。
では、そういうことで……。
以前、三章まで読んだ時点でのレビューをアップし、あまり評価できない旨を述べました。それから二年。少しずつ少しずつ、時には半年ほどのインターバルを置いて、ようやっと読破した本書ですが、当時にも述べたように、もうどうしようもない悪文が延々延々続き、読むモチベーションを保つのが大変でした。今時はまず機械翻訳して、その後に人間がチェックして訳を完成させるものだと思うのですが、「機械翻訳だけで人間が手を入れてねーんじゃねーか」と思えるところがあまりに多すぎるのです*1。
まあ、そうは言っても放置しておくこともできません。
後半の評をまとめておきましょう。
*1 以下は『テルマ&ルイーズ』のストーリー紹介ですが、おわかりになるでしょうか……?
ちなみに「殺人ど」は原文ママです。
ルイーズは落ち込んでしまったが、テルマが犯罪をした。彼女はスーパーで強盗した。今では、二人は逃亡者なだけではなく無法者である。
(中略)
二人は制限速度を超えたスピードで走っているが、テルマは彼は自分たちの強盗か殺人ど追いかけてきたに違いないと思った。再び責任を引き受けて、テルマは警官に銃を向け彼の車のトランクの中に閉じ込めた。
(159p)
え~と、そういうわけで次は四章なのですが、あんまり大したことが書いてないのでちょっと飛ばします。
第五章「責められる男性」から始めましょう。
ここでは宗教保守が権力を握ったという設定のディストピアSF『侍女の物語』が採り挙げられます。この作品では女性が生む機械として搾取されており、そこを批判的に描いているが、同時に男性が兵士として使い捨てられていることを描きながら、そこは批判されないままだといいます。
そう、極端な世界観を設定しておいて「現実世界の風刺でござい」とイキることはSF仕立てにすると極めて容易なのですが、同時にそこからは作り手の本音もまた、丸出しになりがちなわけです。それはちょうど一時期のツイッターで流行っていた白漫画(マルクス師匠的なもの)が当人の男性への憎悪こそを露呈させているものであるのと、全く同様に。
1990年制作の映画、『ロング・ウォーク・ホーム』は1950年代の公民権運動について描かれたものですが、黒人女性は皆善人に、黒人男性は善人だが無能に描かれているといいます。白人男性は例外なく悪人で無能。白人女性については(文章が大変拙く、何度読んでもわからないのですが、わかる範囲で書けば)悪人もいるが、善人もいるとのこと。
劇中、白人女性ミリアムは黒人メイドオデッサの説得により「転向」します。しかし実はミリアムは、子供の頃からアパルトヘイトを無意味だと思っていました。が、にも関わらずそうした慣習に、夫に従わされていたというのです! この「転向」は「夫に従うのではなく自分の考えに従え」という、ジェンダーの転向に他ならない! この映画のテーマは「黒人の権利に目覚める」というものというよりむしろ、「女性は正義であるとの真実に目覚める」というものになってしまっているのです。何という醜悪な映画でしょう!!
現在広がっている空気の中では、政治的目的のために簡単に歴史は忘れさられたりねじ曲げられたりする。
(183p)
そう、ポリティカルコレクトの要請で、公民権運動は女性に支持され、男性に反対されていたかのように描かれなければならない。著者は上の映画のみならず、テレビドラマなどでも平然と、これに近しい歴史修正がなされるようになっている現状を指摘し、「公民権運動は女性に支持され、男性に反対されていたかのように描かれる(大意、201p)」と結論づけます。
実際には
アン・ダグラスが指摘しているように、一九世紀後半、二〇世紀前半の白人女性の婦人参政権論者は、決して黒人女性の参政権を求めることはしなかった。事実は「白人女性は国内の反黒人感情に訴えることで参政権を勝ち取った。」
(289p)
女性参政権論者はニグロ(黒人)に参政権を半永久的に与えないことを約束した。
(289p)
というのが実情らしいのですが。
映画でもドラマでも男性は決まって加害者として描かれ、数少ない被害者として描かれる場面でも同情をされないこと、女はその逆で被害者として描かれ、数少ない加害者として描かれるケースでも、同情されるように描かれることを、著者たちは指摘します。
仮に男性が被害者でも画面に映し出される割合は低く、感情移入を促さないよう(同情を買わないよう)演出されている。また、男性が被害にあっても悲しむのは例えば母親など、女性の役であることが多い。
本章では「ジェップス*2」という言葉が登場します。これは女性が(多くの場合、性的な)被害者になる娯楽作品を指す言葉で、上に挙げたような特徴を持った作品を「ジェップス」であるとして、著者たちは批判を繰り広げます。
その怒りは大変よくわかるのですが、しかしこれは結局、映画がぼくたちのジェンダー規範に基づいて作劇がなされているが故のことです。そこを省みず、ただ「マスゴミガーー!!」と言っているだけではしょうがないでしょう
もっとも、そこについては本書でも多少、言及されてはいます。
彼らはマーク・ハリス(といってもどういう人物なのか存じ上げませんが)の発言を引用します。
「これらの女性が残酷な扱いを受けたり暴力の標的になるプロットに性差別と蔑視を読みとりたくなる。しかしここで起こっているのは、メディアの陰謀というより二つの不可避の勢力の結果である。見たがる視聴者と演じたがる女優だ。」
(214p)
そう、(日本同様、アメリカでも)テレビの視聴者は女性が多く、テレビ番組は女性に向けて作られている。ジェップスは明らかに女性に向けられているのです。
その理由について、著者たちは頭をひねります。
「最終的には女性が勝つというプロットだからではないか(大意)」。
いえ、そうではありません。
こうしたジェップスは、言ってみればポルノと同じ物語構造を持っている。
ジェップスそのものを、ぼくは見たことがありませんが、恐らく「レディースコミック」を想像すればそんなに違っていないのではないかと思います。ポルノもジェップスもいずれもぼくたちの男女ジェンダーの規範に則り、作られた娯楽でした。そして実のところ、それを男女共に喜んで見ていたわけです。
これによって「ポルノは女性差別だ」とのフェミニズムの主張は全く当たっていないことが明らかになったわけですが、ジェップスを批判する著者たちの口ぶりは(規制せよと言っているわけではないのですが)フェミニストとそっくりです。こうした主張を演繹していけば、久米師匠の「何か、BLとかを規制せよ」という奇妙なポルノ否定へと到達することは自明です*3。
つまり、結局、こうした「カルチュラルスタディーズ」みたいなことをやっても、研究者のセクシュアリティ観がフェミニズムレベルに留まっている限り、フェミニズムから一歩も抜け出せないのです。
他にもこの章ではディズニー映画『美女と野獣』が伝統を改変していることなどへの批判もあるのですが(『恐怖の岬』のリメイク『ケープ・フィアー』についても同様で、元はジェンダーバイアスがなかったものを、明らかに男を悪魔化する方向でのアレンジがなされているといいます)、正直ぼくもディズニーなんて見たことがありませんし、先を急ぎましょう。
*3 実際、ジェップスをよく見る女性は他者への不信感を持ち、鍵や銃などを買う傾向が強くなるといった、「メディア効果論」を肯定する研究が複数あることを、著者たちは指摘しています。
(ただし、ぼく個人はそこをもって著者たちや久米師匠を否定する気は、あまりありませんが)
ここでは『愛がこわれるとき』という映画が批判の対象になっています。ヒロインであるローラがDV夫であるマーティンと対決するという筋立てなのですが、「女≒自然≒正義/男≒科学≒悪」といった図式を演出せんばかりにマーティンは信じていた天気予報が外れて嵐に見舞われ、乗っていたボートが操縦不可能に陥り、ローラは海を泳いで生還します。ローラは結婚指輪を象徴的に投げ捨て、しかしマーティンはそれを手掛かりに彼女を追跡してきます。
床に転がった公的に結婚を象徴するそれは、女性をコントロールし搾取するために作られた制度としての結婚は、思いとどまるべきで、廃止すべきということを示唆している。
(253-254p)
さて、それはどうでしょうか。
果たして、本作が「フェミニズムに影響を受けた、革新的な映画」であるかどうか。いえ、そのような側面も間違いなくあるのですが、しかし「男が悪者」という作劇は基本的に伝統的ジェンダー観に忠実なものです。
同時にマーティンは確かに悪役ではありますが、最後にローラに銃殺されるまで、一貫してローラを追い求める存在です。それは丁度、腐女子が血眼で買い求める「ヤンデレ男子言葉責めCD」で神谷浩史が囁く「君がいけないんだよ、君が他の男に色目を使ったりするから」というフレーズと「完全に一致」しています。いや、これは今ぼくが即興で考えたものですが。
ローラが逃避行中にベンというまた別な男性に出会い、気がありげに振る舞われるところも象徴的です(本書の描写では、ベンはあんまり頼りにならない男として描かれているようなのですが、正直説明不足でその辺も判然としません)。
つまり、「ジェップスはレディースコミックである」とのぼくの仮説が、ここでも頭をもたげてくるのです。
これらは、単に、従来のジェンダー規範に忠実な物語である。ただし、女性向けのポルノとして、レイプ的側面がクローズアップされることとなってしまった。
ただそれだけのこと……で終わらせる気は、ぼくもありませんが、「ミサンドリーガーーーーーー!!!」と叫び続ければ事態が改善されるものではないこともまた、明白です。
後少しです、ガンバりましょう。
ここではフェミニズムがマルクス主義の資本家/労働者の関係を雑に男女に当てはめたものだとの指摘がなされますが、同時に「右派のフェミもいる」としてもいます。
それはどうでしょう。日本の「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」もそうしたことを言いたがります。「ドウォーキンが警察にポルノを規制させた」ことがその理由だったりするのですが、それなら均等法を成立させた「リベフェミ」だって「右派」でしょう(均等法を成立させたのが具体的に誰なのかは知りませんが、法改正で男女平等を成そうというのは基本、リベフェミ的な発想です)。
右派のフェミニストの観点からであると、フェミニズムは女性を家庭から外に出すことによって自然界的秩序を覆そうとする。
(309-310p)
と言っていますが、こんなのラディカルフェミニズムそのものでしょう。
日本でも「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」が自分たちに都合の悪いフェミは右派の一派だ、ラディカルフェミニストは悪だと言いたがる傾向がありますが(肝心なのは彼ら彼女らのラディカルフェミニスト観は間違っているということですが*4)、それと近しいものを感じます。何か同じ元ネタがあるのでしょうか。
さて、本章後半はいきなり「脱構築」についての批判が始まります。正直、この辺は知識がないのですが、「脱構築」を「ポストモダン」とか「価値相対主義」とかにでも入れ替えれば、言ってることは正しいように思います。「自然科学すらも多様性のワンオブゼムだという脱構築の言い分が正しいのであれば、引力の法則すら絶対じゃないはずだろう、アイキャンフライしてみろ」とまあ、要するにそうしたことを言っているわけで、これは基本賛成できます。要するにフェミニズムは「敵をやっつけるためだけの恣意的な武器としてのレトリック」でしかない「脱構築」を多用しているとの批判が、この箇所の要諦であるわけです。
この後も、「多様性」とか「多文化主義」とかいう言葉は内実のないきれいごとだ、といった論調が続き、これも賛成できます。
ですが。
読み進めると、本章の最後では「そもそもの、著者たちのミサンドリー観」という、極めて重要なものが語られます(第一回のレビューでは本書にこの旨が「第七章」で語られていると予告されているとお伝えしましたが、それは誤植で、この八章の記述がそれに当たるのでしょう)。
怒りは感情である。ヘイトは世界観である。
(中略)
(そしてこれが重要なのだが)、ヘイトは文化によって維持され、促進されているため、他の感情が起ころうとも継続される。
(中略)
心理的メカニズムとしては、怒りそのものはしばしば人間の全く健全な反応とされる。誰もが人生において、心理的身体的脅威にさらされたとき、怒りの感情によって生存できる。しかし一方で文化的メカニズムとしてのヘイト――ここではミサンドリーとミソジニーのる両方の性差別を含む――は人間の反応としてはかなり不適切である。かなりの人々が意図的に自分たちの怒りを永続させれば、その初期の意図が悪意や恐怖に対処するためだったとしても、それはヘイトとして慣習化される。感情には選択肢がなく良いも悪いもないため初期には道徳的に中立であったはずのそれは、もはや道徳的に中立でなくなり、悪になる。
(331p)
こんな調子で、著者たちは「ヘイト」を悪であると断じ、そして「ミサンドリー」(及び「ミソジニー」)をその一端であると位置づけるのです。
ぼくは徹底して今まで「ミソジニー」という言葉の無意味さ、幼稚さを批判し続けてきました。人の「感情」そのものを裁こうというその根性が絶対に許せないと。上のヘイトは、或いはミサンドリーないしミソジニーは「感情」ではなく「文化」である、とのロジックは一見、それへのカウンターのように思えます。
しかし、ここに罠があります。上はあくまで「ヘイト」と「怒り」を並列させ、後者を「一時的なものだから」問題はないのだとしています。丁度それは、犬を殴った時に吠え声を上げるような、動物的な反応が想定されているようです。しかし、そもそも、怒りの感情だって継続することはある。友人と喧嘩をして一生関係を断つことだって大いにあり得ます。犬ですら自分をいじめた人間を嫌うようになることは、大いにあり得るでしょう。
そして何より、ここで著者たちはあまりにも雑に「ヘイト」を「文化」であると言い切っています。一時の反応ではなく継続的なものは、みな「文化」であるという奇妙な定義が、彼らの中で前提されているのです。その理屈だと「ヘイト」が「怒り」と違い継続するのは、「文化によって維持され、促進されているため」となりますが……そうなのか? 先に挙げた友人との絶縁は、文化が原因だったのか……? 或いはまた、犬ですら場合によっては人間全体に恐れを抱くことがあり得ますが、それも文化なのか……?
我々の中にある価値観は全て「文化」というラスボスっぽい何かの作り上げた支配のシステムの所産であり、それは悪しきものであるから破壊せよ。
これはラディカルフェミニズムの「女性差別は文化的に意識へと刷り込まれたジェンダー規範が原因であるから、そのリセットなくして女性差別の撤廃はあり得ない」との世界観と「完全に一致」しています。
本書には「フェミの目的は(ポリコレのコントロールなどによる)文化的革命だ」といった指摘もあるのですが、一体全体どういうわけか、読んでいると著者たちもそれを望んでいるように、思われるのです。次回に詳述しますが久米師匠自体、あとがきで(マスキュリズムのスタンスとして)フェミのやり方を踏襲すればよいと明言しており、こりゃアカンとしか言いようがありません。
ぼくはよく、「表現の自由クラスタ」をフェミと対立してはいるものの、両者とも地球征服を狙う宇宙人であり、ただ覇権を賭けて争っているに過ぎない、と表現しますが、こうしてみると彼らもまた……と言わざるを得ないのです。
フェミニスト、そして「フェミニストの使徒」である本書の著者、翻訳者たちの過ちは、「人間の主体」というものを完膚なきまでに否定している点にあります。
彼ら彼女らのイメージする「文化」なり「社会」なりというものは「悪の支配者」が「人間の心」を支配しきっており、人は全て一挙手一投足を「都市統御コンピュータ」のプログラム通りに動かしている……とそんな感じのものなのですが、まさかと思いますが、そのディストピアはむしろ彼ら彼女らの「願望」上の存在に過ぎないものを、外部に投影したものなのではないでしょうか……? との疑念を、拭いがたいのです。そもそも70年代のアニメで見られたそうした悪の帝国による管理社会って、共産圏のイメージですもんね。
むろん、フェミニズムがミサンドリーという「文化」を社会へと発信し続けてきた、という彼らの指摘は正しい。
しかし、では、「ミサンドリー」がフェミニズム由来かというと、(「ミソジニー」が男性支配社会の陰謀により作られたものかとなると、そうではないように)そんなことはないのです*5。
先のジェップスにおいても、ぼくはあくまでそれを「女性ジェンダーの快感原則に則った作劇に過ぎない」と評しました。
つまり、ミサンドリーは単純に「フェミニストの陰謀」に還元できるものでは、残念ながらないのです。
――といった辺りで、後は最終章である第九章を残すのみなのですが……それは次回に回しましょう。九章は「結論」とされており、それを受けての、こちらの考えも、その時にはご紹介したいと思います。
コメント
コメントを書く