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 さて、ここしばらくサブカルとフェミニズムの関係を論じていますが、今回はそれに関連した採録シリーズ第四弾です。
『Daily WiLL Online』様では「反・反・弱者男性論」について書いておりますので、そちらの方もよろしく。

「弱者男性」を≪リベラル≫に導きたい人たち【兵頭新児】

現在五位ですが、より一層の応援をよろしくお願いします!

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 前回記事を書いて以降も「オタク差別問題」、ずっとくすぶっております。
 イザンベール青地とかいう御仁が「オタクはパブリックエネミーである」と語り、オタク論壇(……?)の人たちと延々ともめているようです。
 オタク世論(……?)はむろん、イザンベール師匠を総バッシング。しかしそんな中、昼間たかし師匠がおたぽるというサイト(当然、「オタク向けポータルサイト」の意味でしょう)でイザンベール師匠の味方をして、彼女の主張を肯定する趣旨の記事を書いておりました*1

 社会に迫害されたマイノリティが、自分を迫害した社会で地位を気づくと(引用者註・「築くと」の間違いと思われる)、自身が属していたマイノリティを攻撃する。貧困から成り上がった経営者が、かつての自分のような貧困層を、より搾取するビジネスに血道をあげる……。そんなものと同じ匂いがそこにはある。

 まさにその通り。
 フェミニズムこそ、社会に迫害されたマイノリティ(であるとの誤った自意識を持つ者)が、自分を迫害した社会で地位を気づくと(引用者註・「築くと」の間違いと思われる)、自身が属していたマイノリティを攻撃している好例でしょう。
 と思いつつよくよく前後を読み直すと、どうも師匠の言う「マイノリティを攻撃している」主体は、どうもオタクを指していらっしゃるような……。
 確かに、イザンベール師匠はどうもオタクのようで、だとするならば「同士討ち」ということは言えますが、どう見たって、殴ってきたのは彼女の方でしょう。
 大体、「自身が属していたマイノリティを攻撃する」という日本語がヘンです。恐らく、「自身が属していたコミュニティのマイノリティを」と言いたいのでしょうが。
 短い記事なのですが、ラストはあまりにも味わい深い名文なので、まるまる引用しましょう。

 せっかくなので記しておくが、「オタクはパブリックエネミー(公共の敵)」といわれて、怒っているほうがオカシイ。最先端の文化が、世間一般から恐れられないということは、まずあり得ない。もしも「ボクたちオタクですけど、一般市民と同じですよ~」というのならば、もう文化としては衰退期に入っているということだ。

 過剰な怒りは、狡猾な者に利用される隙をつくるだけである。

 宇宙人が呼ばれもしないのに勝手にやってきて、地球の風習に文句をつけてるようなモンです。
 師匠自身、あまり支持を得ている御仁ではないようですし、そうした(ネット上でオタ言居士の方々が寄ってたかって叩くような種類の)人を声高にバッシングするのはぼくの本意ではありません。が、師匠については以前から気になっていたこともあり、簡単に触れてみたいと思います。

*1 やっぱりオタクはパブリックエネミー。新潟女児殺害事件に「定番」のオタク報道が登場したけれど……

 さて、師匠の記事は前回採り上げた、藤田氏の「オタクはオタク差別に憤る前に、女性差別に理解を示せ」との意見と近しいものだということができましょう。どうも、昼間師匠の言わんとするところは、「イザンベール師匠の辛い内面を忖度してやるべきだ」とでもいったことになるようですから。
 その意味で、これはリベラルの既得権益を守るための言動、彼らが描いた古典的「弱者MAP」を守ろうとするリベしぐさという、毎度お馴染みのものであるように思います。
 それは彼の以前の記事を見ていくと、さらに明らかになりましょう。
 ぼくが最初に昼間師匠に注目したのは、岐阜県美濃加茂市で行われたスタンプラリーのポスターにアニメ『のうりん』の萌え絵が使われ、問題視された件でした。
 その時、師匠はやはりおたぽるで

 オタク表現への批判が現れた時、オタクを自称する側が批判者をフェミニストと仮定し「フェミガー」と罵倒してカタルシスを得るいつもの展開に突入しているわけである。

 またもやTwitterなどを用いて「セクハラ」だとか「フェミガー」という応酬を繰り返すことで、何かのルサンチマンを晴らした気分になっている人々の醜さを見せてくれた騒動。とりわけ「表現の自由」を主張しながら「フェミ」という言葉を使うオタクの側を自認する人々は哀れなことこの上ないと思った

 などとモノスゴいことを言っていたのです*2
 ぼくがリベラル寄りのオタクを「自分をオタクだと思い込んでいる一派リベ」と揶揄するのは、彼ら彼女らがことさらに「我こそは真のオタクなり」と拳を振り上げながら、ぼくたちに自分たちの思想を押しつけてくるから(そしてまたそれは絶対にオタクに益するものではないから)です。
 師匠はまた、つい先日も(ほとんど話題にもならなかったのですが)「オタクは(他の運動家たちから)見捨てられている」との記事を書いていました*3

「表現の自由を守ろう」と立ち上がるオタク……マンガ・アニメファンたちは、気づいているのだろうか。自分たちは、もはや信用されない存在だということを。

 14年まで「表現の自由」に興味を惹かれるオタクにとって「児童ポルノ法」は主要な問題であった。そこでは、マンガやアニメを禁止される児童ポルノに含めることへの反対と共に、冤罪や権力の暴走を生みかねない単純所持への反対も唱えられていた。けれども14年、国会での改定に向けた議論の中で創作物は除外されることが確実になると、空気は変わった。マンガやアニメが規制されないという安堵の声に、単純所持の禁止が決められたことへの危惧は打ち消されていった。

 う~ん、少なくとも漫画やアニメが規制されないなら、オタクにとっては一安心なのは当たり前だと思うのですが(いつも不思議なのですが児童ポルノ守り隊の人たちがフェミニストの作り上げたDV法改正案などによる性犯罪冤罪について危惧しているのを、一度も見たことがないのですが、どうしてなんでしょうね)。
 この記事の後半は、師匠の絶望感や諦念が極めて自己憐憫に満ちた観念的な文章で綴られていて、正直何を言っているのやらさっぱりわかりません。
 これを踏まえると、最初の記事の「「オタクはパブリックエネミー(公共の敵)」といわれて、怒っているほうがオカシイ。」という奇怪な記述の本意が明らかになります。それは「オタクどもは漫画やアニメなど、自分たちの直接の利害に関わらないことであろうとも、我々左派の清浄なる思想に従い働け!」ということですね。
 他にも師匠はツイッターで

文章書いて、ごはんを頂いている俺たちが世間様の敵じゃないはずがない

本当に面白いマンガでも文章でもつくろうとしたら、市民社会には背を向けなければならないわけですよ。獲得するものは世界であって、平穏な趣味生活ではありません。

 などとつぶやいておいででした。
 つまり先の「オタクは見捨てられている」との主張は、オタクから見捨てられたリベラルの逆切れだったわけです。
 心の底から帰ってほしいお客の、「もっと歓待しないと帰るぞ」発言です。
 そしてこれが前回ご紹介した、「オタクは一般人と全く同じだ、断じて許せぬ!」という高橋ヨシキの奇怪極まるファビョりと線対称であり、また香山リカ師匠が「碧志摩メグは断じて許せぬが、女子高生をジューサーにかけてぶち殺す絵は権威へのカウンターなのでおk」と言ったことと「完全に一致」していることは、もはや言うまでもないでしょう。

*2 濃加茂市は新たなPR効果を期待──オタクによる「フェミ」批判の醜さが目立った『のうりん』ポスター騒動の顛末
*3「マンガの人たち」の信用は地に堕ちている──青少年健全育成基本法案の本当の問題点(リンク切れ)

 しかし、これら一連の流れを見ていて、ぼくはオタ世論というか、オタク界の思想マップが今、分岐点に来ていると思わずにはおれませんでした。
 ぼくは今まで「オタク差別けしからぬ」と息巻いている人のことを、あまり肯定的に語っていなかったと思います。
 その理由は二つあります。一つに、前回記事に書いたように「差別はおわコンだから」、即ち「オタクが虐げられていることについての憤りはぼくも持ってはいるものの、それはリベしぐさによって解消され得る種類のものとはどうしても思えないから」です。
 そしてもう一つの理由は今回、「オタクパブエネ論」をけしからんと腐している人たちの何割かは、かつてオタクをゴミクズのように全否定していた人たちだからです。言うまでもなく彼らの多くは、目下フェミを否定するフリをしていますが、かつてはフェミの靴をただひたすら舐めしゃぶっていた人たちでもあります。
 そう、ぼくがいつも「ネオリブよりもツイフェミの方がまだしもウソがないだけマシ」と言うのと全く同様に、今の「反オタク差別クラスタ」の何割かには、全く信頼が置けないのです。そう考えると昼間師匠も「変節」できなかった、「ツイフェミ」と同じ、真っ正直な人である、と言えましょう。これは藤田氏、田川氏もまた同様で、ぼくが彼ら彼女らをむしろ好ましく思っているのは、政治的な読みで姑息なウソをつくことをよしとしていないからなのです。
 しかし、「反オタク差別クラスタ」の(これはまた「アンチフェミクラスタ」、「表現の自由クラスタ」も同様なのですが)若い層、或いは有り体に言って下っ端層には「そうした歴史を知らず、純粋にそれらに憤っている」人たちが多いように見える*4
 まとめれば昼間師匠(や、野間氏、野川氏)はリベラルのホンネをあけすけに吐露しているだけなのであり、「反オタク差別クラスタ」(や「アンチフェミクラスタ」、「表現の自由クラスタ」)のオピニオンリーダーとして振る舞っているような古株連中は、ホンネでは昼間師匠と同じことを考えていながら、蝙蝠のように若年層のオタクに媚びている。下っ端層はそれに見事に騙されている、といったカテゴリ分けができる。
 その下っ端層の影響力、ないし単純に数が肥大し、「そいつらに最初は口先だけで甘言を弄し、ゆくゆくはオルグしてやろう」とのオピニオンリーダー層(つまり、ぼくが「オタク界のトップ」と呼ぶような連中)の思惑が外れつつある……というのが目下の状況なのではないか。そもそもが、その甘言が空手形である以上、こういうオチは最初っからわかっていたことではあるのですが(これ、フェミニズムの現状とも丸っきり重なりますね)。
 しかし、とは言え、オピニオン層はともかく、下っ端層は騙されているだけなのだから否定しなくていいだろう、との考え方も成り立ちますが、同時に彼らも「その甘言をマジだと思い込んでしまっている」、即ち無意識裡に「リベしぐさ」を刷り込まれた存在であり、このままじゃヤバい、というのがぼくのスタンスなわけです。

*4 かつて、以下の記事で若いオタクのオタクとしての屈託が、旧世代と比べ変化してきている、との指摘をしたことがあります。
今までの「オタク論」は過去のものと化す? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!

 最後に、昼間師匠の記事の最後の下りに注目してみましょう。

 過剰な怒りは、狡猾な者に利用される隙をつくるだけである。

 これを読んで、ぼくはひっくり返りました。
 まさかとは思いますが、この「狡猾な者」とは師匠のグルなのではないでしょうか、と。今までオタクを利用し続けてきたのはそっちで、今回の記事はそれが適わなくなっての逆切れではないか、と。
 しかし別に驚くようなことではないのです。
 ぼくは「表現の自由クラスタ」をフェミニストと同じ、「地球を狙う侵略宇宙人」でありながら、「ちょっとだけ指令系統が違う」ために地球上で同族争いをしているのだ、と形容してきました。
 師匠の言う「狡猾な者」とは、「表現の自由クラスタ」の言う「似非フェミ」同様、自分自身の影みたいなモノでしかないことが想像できるわけです。
 彼ら彼女らが同士討ちで疲弊を続けていることは、まあ、そんなに悪いことではない。
 しかし……問題はその戦場に選ばれているのがぼくたちの故郷の星である、ということ。
 彼ら彼女らが滅んだ時、大地は汚染されきって、この星はぼくたちも棲めないような状況に陥っているのではないか……というのが、ぼくの専らの不安なのです。